#4 伊庭 耀太郎と四ツ葉 明彦①


 小ぢんまりとしているが、それなりに綺麗なオフィスビルだった。大通りから一つ外れた路地にあるので、少し目立たないものの、建てられてそう年月は経っていないらしい。

 月極のパーキングに車を停めた耀太郎と凛乃は、ビルの自動ドアをくぐる。入口左側には郵便受けがあるが、小さなプレートにはほとんど名前が彫られていない。

 唯一名前があるのは、三階にある《四ツ葉綜合解決事務所》だけだった。


「そこ、ウチの事務所な。他は大体テナント募集中だ」

「四ツ葉……? あなたのお名前ですか?」


 思い出と涙を吐き出しきった凛乃は、多少すっきりとした顔をしていた。

 両親が亡くなったのは、もう一か月も前になる。それまでの間、毎晩ずっと泣き続けていた。けれど、今日はもう泣かずに眠れる気がした。


「いや違う。さっき俺が連絡してた明彦ってヤツの名字」


 男はエレベーターのボタンを押しながらそう教える。六階建てのビルなので、程なくしてエレベーターはがこんと口を開けた。

 三階まで上がり、エレベーターを降りる。降りて正面は、T字の廊下になっていた。


「突き当り右が事務所。左は男女兼用トイレ。以上」


 実際のところ、凛乃はこういう小さなオフィスビルに入るのは初めてだった。

 もっと大きい、父親の勤めている会社のビルになら何度か行ったことがあるのだが。

 ――それにしても、何故自分はここにいるのだったか、凛乃は改めて考える。


(ぱんつをもらいに来たんですよね……)


 そしてその情けない結論に達した。

 事情により、凛乃は極貧状態にある。下着を買う余裕がないので、今こうしてここにいるのだ。

 男はそれ以外にも用事があると言っていたが、それが何であるのかは教えてくれなかった。

 男の後に続いて、凛乃はすりガラス製のドアを押し開ける。


「やあ、いらっしゃい」


 ビルの規模に似合った小さなオフィスだった。正面奥に、入口側に向いた席が一つ。そこに座っている人物が四ツ葉 明彦という人だろう。

 そしてその机の前には、互いに向き合うようにして更に机が二台置いてある。

 どの机の上にも、パソコンの本体とディスプレイが置いてあった。オフィスデスク以外だと、壁に面するようにキャビネットが置いてあったり、小さなロッカーが四つあったり、冷蔵庫があったりと、一般的なオフィス……と言うよりかは、事務所のような構造をしている。


 部屋の右奥には閉じられた扉があるが、その先には何があるのだろうか。気になった凛乃だったが、流石にいきなり訊くことは出来ない。

 きょろきょろと周囲を見渡していた凛乃は、次に出迎えてくれた人物の方を見た。四ツ葉 明彦と呼ばれる、この《四ツ葉綜合解決事務所》の所長。

 その姿を見て、凛乃は度肝を抜かれた。


「え? あれ? ……!?」

「うん、そうだよ。どうも初めまして、凛乃ちゃん。ぼくがこの事務所の所長である《四ツヨツバ 明彦アケヒコ》です。よろしくね」


 てっきり、名前の響きからして、明彦という人は男なのだと凛乃は勘違いしていた。

 彼女――明彦は席から立ち上がって、凛乃の前に立つ。身長は凛乃よりも高く、横に居る男よりかは低い。それでも女性にしては高い方だろう。百七十センチ近くあるのではないだろうか。


 毛先が軽くウェーブした栗色の髪の毛が、ふわりとエアコンの風で流れる。腰辺りまで伸ばしているらしく、何だか言い様のない、甘くていい匂いが漂って来る。大人のにおいだと、凛乃は何となく思った。

 顔立ちは凛々しくも柔らかさが残っていて、薄く乗せたファンデーションが肌のきめ細やかさを演出し、ぷっくりとした唇には艶出しのグロスが塗られていた。

 また、その身体つきは凶悪そのもので、ワイシャツの上からでもはっきりと分かるぐらいに二つの膨らみが主張している。大人の魅力溢れるグラマラスな美人――それが凛乃が明彦に抱いた第一印象だった。

 が、隣に立つこの男はその明彦を邪険に扱う。


「いいからとっとと例のブツを取って来いや」

「はいはい。あ、そうだ……凛乃ちゃんにちゃんと自己紹介したの?」

「あぁ? した―――――っけか?」

「いえ……お名前すら知らないです」


 じっとりと明彦が男に視線を放つ。凛乃も今更ながら、この男の名字すら知らないことに気付いた。

 相手は何故かこちらの個人情報を必要以上に知っていたので、互いに自己紹介をする必要が無かったのだ。(凛乃が聞き忘れていただけであるが)

 思えば明彦も、凛乃の名前を知っているのは引っ掛かるものがある。


「それじゃあ、ぼくの方から紹介させてもらうよ。彼の名前は《伊庭イバ 耀太郎ヨウタロウ》。二十六歳で身長は百七十八センチと三ミリ。体重七十五キロジャストでO型。誕生日は一月一日。趣味はギャンブルと風俗店情報誌を眺めること。最終学歴は高校中退。当時は帰宅部。成績は劣悪そのものながら、保健体育だけは大得意。あといやらしい英単語だけなら驚異的な記憶力を見せる。容姿は毎朝セットしてるけど今一つ決まっていない上に、最近白髪が増え始めた黒髪と、死んだ魚をザオラルで蘇生した感じの悪そうな目、つまりは好みの分かれそうな顔立ち。因みに仮性包茎。でも非童貞。しかし仮性包茎。以上だよ」

「へ? あ、はい……」

「おうちょっと表出ろや明彦てめぇコラァぶっ飛ばすぞ」

「でも全部事実でしょ?」

「事実だろうが何だろうが余計なことまで教えてんじゃねーよ! 名前と年齢だけでいいだろうが! あと仮性包茎って二度言う意味もわかんねえから!! 俺のは有事の際に備えてんだよ!!」

「有事……(苦笑)」


 鼻で笑い飛ばす明彦。

 彼女は知る由もないが、男――耀太郎は完全に意趣返しを食らっている。似たようなことを、先程凛乃に対して行ったからだ。

 因果応報は実在するのだと、凛乃は内心密かに思っていた。仮性包茎が何を指す言葉なのかは分からないが、きっと失礼な言葉なのだろう。


「つーかすぐパンツ取って来い!」

「はいはい」


 耀太郎は明彦を手で追い払う。所長とその部下というよりかは、長年連れ添った友人みたいな感じだった。上下関係などこの二人にはまるでないに違いない。

 明彦はキャビネットを開き、そこから新品の下着を取り出した。真っ黒いレース生地のショーツは、凛乃にとっては馴染みのないものだった。

 何というか、刺激が強い感じだ。


「ぼくのなんだけどね。サイズは――まあ、何とかなるでしょ」

「ケツでけぇもんなお前」


 あはは、と明彦は笑いながら同意する。一般的な職場ならば即セクハラ問題だろうが、そこもやはりアバウトである。

 凛乃は困惑しつつも、トイレで穿いておいでという明彦の提案に素直に頷く。これでようやく、すーすーした下半身に温もりを与えてやれるのだ。

 ぱんつって偉大だな――十六歳にして初めて、凛乃はそのありがたみに気付いた。



「改めまして――わたし、《御子柴 凛乃》って言います。この度は下着を無償で譲って頂き、ありがとうございました」

「でけぇだろ」

「え? えと……」

「もうそれはいいんじゃないかな? 穿ければそれでいいんじゃないかな? ぼくのおしりのサイズに関する話題はどうでもいいんじゃないかな?」


 耀太郎はへいへいと適当に返事し、向かい合っているデスクの左側に着席した。明彦も最奥の席に戻り、凛乃を右側の席に座らせる。

 やがて明彦の顔付きが真剣なものになる。サラリーマンだった父親の勤務中の顔に、どこか似ていると凛乃は思ってしまった。父親と明彦だと性別すら違うのだが。


「さて、凛乃ちゃん。まず、どうして耀太郎がキミの元に突然やって来たのか、不思議に思わなかったかい?」

「思いました。その、変質者かと……」

「うん。それは間違ってないよ」

「間違いだらけだろうが訂正しろ」

「へ? えっと、変態さんかと……」

「そこ訂正すんのかお前!? もっかい漏らせクソガキ!」


 だが凛乃は純粋に天然で訂正したのだから始末に負えない。

 大きく咳払いをして、耀太郎は話を取り次ぐ。


「某所から連絡があった。お前、親戚の伯父を『能力』で襲ったそうだな? 頬への裂傷をそいつは負ったらしいが」

「…………」


 凛乃が『能力』で他人を攻撃した、最初の事件である。

 血の繋がった伯父を、凛乃は激昂のあまり能力で脅した。頬を軽く切ってやったのだが、それだけで伯父はまるで化け物を見るかのように自分を見て来たことを、凛乃は思い出す。


「で、その後逃走した、と。だから俺達はお前を捕縛する依頼を受けた。そこからずっと追跡してたってわけだ。もう薄々分かるだろ? 俺らの仕事はな――」


 すう、と息を吸い込んで、ゆっくりと耀太郎は言う。


「――てめえみたいなバカな《傷持ち》を狩ることだ」


「……っ!」


 凛乃の中で合点がいく。

 だから耀太郎は、標的である凛乃について情報を持っていたのだ。

 それに、『能力』に関してやたらと詳しく、また慣れていたのも、仕事として幾度と無くそういう場面に遭遇していたからなのだろう。


「あ、誤解しないでね。狩るっていっても、殺したりするわけじゃないよ? 単純に《傷持ち》を保護して、政府機関の人達に引き渡すだけだから。ぼくはそのサポートをする係で、耀太郎が実際に現場に出向く係なんだ。表向きはただ一人の所長兼事務員と、唯一の営業マンなんだけどね」

「そ、それじゃあもしかして、わたしは……?」


 今し方、《傷持ち》をどうするのか、さらりと明彦が言った。

 凛乃は間違いなく《思春期ブルー傷痕スカー》と呼ばれる存在として目覚めている。

 だからこそ、その処遇は――


「おう。この後政府機関に引き渡す予定だ。そんで依頼人であるお前の伯父の下に帰す。ま、俺らの業務範囲は渡すトコまでだがな。そっから先の詳しいことは、そっから先を担当してるヤツに聞け」

「心配しなくても、乱暴なんかされないよ。凛乃ちゃんの伯父さんは傷害については不問にすると仰ってるらしいし、それに帰す前にちょっと施設に入るだけだから」


 違う。凛乃が心配しているのは政府機関云々ではない。

 勿論そこも不安要素ではあるが、本当に凛乃が気に留めたのは伯父の一件の方だ。


「わたし……伯父に会いたくないです」

「あ? 何でだ? 両親が死んだ以上、お前に残ってる血縁関係はその伯父と、遠方の叔母だけって書類に書いてたぞ」


 未成年である凛乃の後見人は、そのまま伯父が引き継いでいる。

 しかし父方の兄である伯父に対し、凛乃は並々ならぬ――憎悪を抱いていた。


「会いたくない理由を話してごらん? ぼく達が凛乃ちゃんを政府に引き渡すまでは、凛乃ちゃんはぼくらの預かりにあるからね」

「早いトコこいつを渡してスロ打ちてえわ」


 こら、と耀太郎を明彦が叱り付ける。デリカシーの欠片も無かった。

 凛乃は顔を伏せたまま、話すか否かを逡巡する。これはきっと自分一人――ではなく、御子柴という家の問題なのだ。会ったばかりのこの二人に話すのは気が引ける。

 しかし、耀太郎も明彦も、どこか信用出来る部分があるのもまた事実であった。まだ会ったばかりなのに、本能のようなものが、凛乃にそう告げているのだ。

 やがて凛乃はごくりと唾を飲み、ぽつりぽつりと語り始める。


「わたしの家は……その、一般的に見て裕福でした。父も母も、恐らく一人でも充分にお金を稼げる人でしたので。その二人が一緒にいるんですから――」

「そら稼げるわな。ああ羨ましい。惜しい人間を亡くしたってヤツだ」

「故人への冒涜はやめなよ。さ、続けて」

「でも……伯父は違いました。怠け者で、粗暴で、何度も結婚と離婚を繰り返しています。当然原因は伯父にあって、慰謝料請求とかも相まって、伯父はいつもうちにお金の無心をしに来ていました。父は父母――わたしにとっての祖父母を早くに亡くしていますから、兄である伯父は唯一の肉親だったんです。だから、その伯父の無心に対して、父は苦言を呈しつつも追い払うことはしませんでした」


 それが原因で、両親の喧嘩に発展したのだ。

 泣きながら「もうあの人にお金を渡すのはやめて」と叫ぶ母と、「それでも俺の家族なんだ」と言い返す父の姿は、凛乃にとってトラウマみたいなものだった。普段は両親の仲が良かっただけに、尚更である。


「それに伯父は……その、えっと、わたしのことを変な目で見ていました。子供の時から、伯父と二人っきりになると、写真を撮られたりして……その時は、それが変なことだって知らなかったんですけど。今思うと、わたしの写真を売っていたのだと思います。多分ですが……」

「うっわ。最低じゃねえか。人間のクズだな」

「耀太郎といい勝負だね」

「お前その乳剥ぐぞマジで」


 話によると、凛乃が十三歳になるまで写真を撮られていたらしい。それを聞いて、耀太郎も明彦もうわあ、と同時に声を漏らす。


「幸いにも父がそれに気付いて、それでとうとう伯父とは絶縁したんです」


 詰まるところ、鼻つまみ者であった伯父に対して凛乃の父が踏ん切りをつけたのは、他ならぬ凛乃が発端だったのである。


「それから伯父のことを見る機会は、ほとんどありませんでした。でも、両親が亡くなって、わたしが傷心している間に、あの人は弁護士を雇ってわたしの親権や両親の遺産を、全部自分の都合のいいように操作したんです……! 母が愛用していたグランドピアノも、父のお気に入りだったゴルフグラブも、全部あの人は売り払って、自分の財布に入れた……! 今も、あの人が父の書斎でたばこを吸って、家族みんなで囲んでいた食卓でお酒を飲んで、友人と色んな映画を一緒に見たリビングに、女の人を連れ込んでるんですよ……! だから、わたし、そんなの耐えられなくて……それで……っ!!」


 また凛乃は涙を流す。しかし、それは悲しみから来るものではなく、ひとえに自身に力がなく奪われるだけだった歯痒さと、何も出来ない無力感と、他ならぬ伯父への憎悪が原因だった。

 こうして、凛乃はある夜に伯父を襲った。それまで凛乃は――自宅に居ると伯父からいかがわしいことをされるかもしれない、という理由もあって――友人の家を転々としていたが、この日だけは自宅に戻った。


 酒を飲んで大いびきをかきながら眠っている伯父を叩き起こし、そしてその周囲に散らばっている酒瓶や空き缶を切り刻んだ。

 伯父は金切り声にも似た悲鳴を上げた。凛乃が《傷持ち》になっていることなど、まるで知らなかったのだ。


「それで、頬だけ切ったのか。首ごと掻っ切ってやりゃいいのによ」

「……出来ませんでした。わたしには、そんな勇気も無かったんです」

「その後は、どうしたのかな?」

「怯える伯父を見て、ひとまずは満足しました。でも、これからどうするのかとか、もう両親には会えないんだとか、そんなことを色々考えているうちに……この『能力』を使って、無関係の人を傷付けてから自殺しようって、思いました。今思うと、何でそんなこと考えちゃったんだろう、って反省しています……」


 疲弊しきった凛乃の心が荒み、そのような破滅的な行動を取ろうとしたのも無理はない。

 元より精神に不安定さが無ければ《若年性延長能力覚醒症候群》には罹患しないと言われている。

 ――だからこそ、耀太郎は一言で切り捨てた。


「え……?」

「両親の死去、或いは片親の死去は《若年性延長能力覚醒症候群》の発症事由としてはかなりメジャーなんだよ。そして、それが原因で心に傷を負った子供達は、得てして他傷行為と自傷行為を併発する。親が居なくなったというのは、それだけで子供にとっては生きる気力を奪ってしまう。思考が破滅的になるとも言えるかな。だからある意味で凛乃ちゃんの行動は、当然とも言えるんだ。その、データ上は、だけどね」


 明彦は少し言い淀んだ。追い込まれ迷い悩んだ末に取った凛乃の行動が、として一言で片付いてしまうのは、あまりに機械的過ぎると考えたのだ。

 事実は事実としても、もうちょっと言葉を選ぶのが年長者の務めだろう。


「テンプレートなガキだな。もうちょい奇を衒って生きるようにしろ」


 が、そんな配慮はまるで耀太郎には存在していなかった。

 相手が大人だろうと子供だろうと、言いたいことや言うべきことをズバズバ言うのが、この男の利点であり欠点である。


「……。じゃあ、わたしの行動は、皆さんには予想づくだったってことですね……? 伯父を攻撃したのも、関係ないモノや人達を壊そうとしたのも、自殺しようとしたのも……」

「ああ。俺に対して遠慮なく攻撃してくるってのも予想通りだった」

「それじゃあ……わたしは、何の為に、それらをしようとしたんですか? この辛さや悲しみを、どうすればよかったんですか!? 全部予想通りだって言うのなら、そのあとどうすればいいかってことも分かるはずでしょう!? これからわたしは、どうしたらいいんですか!?」


 思わず凛乃は声を大にして叫ぶ。何一つとして、考えてみれば凛乃の状況は変化していない。

 伯父は健在で、こうやって外部機関を使って自分のことを捜索させているし、何よりその伯父の手先がこの二人である。


 死にたくはなくなった。それでも――生き方が、まるで分からない。

 その不安を、凛乃は叫んだのだ。

 だが耀太郎は、尚も変わらず切り捨てる。


「知らねえよ。お前が動いた理由も動く理由もよ。お前が伯父を殺したら、警察や機関がお前をさっさと逮捕するだろうよ。でもお前は伯父を殺さず、かつ関係ないヤツに対して力を振るう前に俺が到着して、んで自殺をミスってションベン漏らして、パンツを屋上に放置プレイしたからこそ今お前はここに居るんだろ。全部、お前の行動と何らかの偶然がもたらした結果だ。どうすればいいを誰かに聞く前に、クソガキ。いつまでも人生に教科書あると思ってんじゃねえよ、鬱陶しい」

「う……うう、うあああああああああああっ! わあああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

「よ、耀太郎! ここで能力使うのだけはやめさせて!」


 どれだけ金銭的被害が出るのか考えただけで、明彦の全身に鳥肌が立つ。

 凛乃の目は濁り、身体の振戦と共に瞳孔が開いていく。力を無意識的に放とうとしている前兆だった。

 耀太郎は黙って席を立ち、かつかつと革靴を鳴らして凛乃の元に歩く。ともすれば自らが切り裂かれる可能性があるというのに、まるで動じていない。

 そしてノーモーションで、凛乃の脳天に思いっ切り拳骨を叩き込んだ。


「ひぎゃう!」

「その力に甘えんな。いいか、俺がお前を保護した理由はたった一つ。

「う、いたい……殴られました……。お父さんにもぶたれたことないのに……」

「古いネタ知ってるね」


 世代的に知らないと思われるのだが、ともかく耀太郎の体罰で何とか凛乃は踏み止まった。

 《思春期ブルー傷痕スカー》は精神的な過負荷が限界を超えると、その『能力』を暴走させてしまうことがある。そうなれば使用者の意思とは無関係に『能力』が周囲に放出され、甚大な被害が出るケースに発展しうる。

 今はかなりの瀬戸際だったのだが、何より耀太郎も明彦も落ち着いていたので、すぐに強引な対処を行えたのである。

 やがて凛乃は考えた。金の為に、耀太郎は自分を保護したという事実を。


「お金の……ため……」

「そうだ。逆に言えばお前を保護することによって金が手に入らなきゃ、お前が生きようが死のうがまるで興味ねえわ。ただ、今はお前に死なれると報酬がゼロになる。だからあの時自殺を止めた。お前に怪我を負わせたら報酬が半減する。だから傷付かねえペイント弾を撃った。お前に訴えられたら社会的に俺が死ぬ。だからパンツを穿かせた。これが俺の行動理由だ。全部打算と計算で動いてんだよ。じゃあお前はどうなんだ。何がしたくて何がしたくないのか、今ここで言え」

、ねぇ」


 明彦がぼそりと呟く。人生にいつまでも教科書などないと豪語する耀太郎だが、本人に自覚があるのかないのか分からないものの――どう見ても耀太郎自身が凛乃に何かを示そうとしている。

 一方で凛乃は考えた。耀太郎は金の為に考え、行動している。

 では、幽鬼のごとくふらふらとしているだけだった、ここ最近の凛乃はどうだろうか。その行動に意味を与えていただろうか。理由があっただろうか。


 ――答えは、否である。意味も理由も、まるで考えていなかった。


「……でも、やりたくないことはハッキリしてます。伯父の下になんて、絶対に帰りたくありません……!」

「とは言うけどね、凛乃ちゃん。きみは社会的に見てまだまだ子供だ。『能力』があるだけで、それ以外は経済的にも精神的にも自立とは程遠い。一方できみの伯父さんは、手段はどうあれ生きていくだけの基盤を手に入れている。伯父さんと縁を切ったところで、じゃあきみは果たしてどうやって生きていけばいい?」

「それ……は……」


 子供。それは、あまりにも当たり前であり、超え難い事実だ。

 社会的に見て、高校生などまるで何の力も持たない子供に過ぎない。

 一人で金を稼ぎ、税金を納め、その日の食事を自前で用意出来る高校生など、この国ではほんの一握りしかいない。


 そしてその一握りに、凛乃は入っていない。だから、伯父の下に帰りたくないというのは、それこそ子供のワガママでしかないのだ。

 ――そうして凛乃は気付く。

 自分に何が足りないのか。自分に何が必要なのかを。


「おかね……」

「あ? 今更気付いたのかよ」

「わたし、お金が欲しいです……。伯父なんかに頼らなくても、一人で生きていけるだけのお金を稼いで、学校にも毎日通って、好きなものとか自由に買いたいです……。……!」


 つまるところ、経済的な自立が出来ていれば、それは社会的に見て大人と呼んでいい。耀太郎も明彦もそう考えている。

 肉体とか精神とかよりも、先立つものは金なのだ。


「問題はその手段、だけどね。凛乃ちゃんは女の子だから、それこそ一発で稼げる方法はあるんだけど――」

「ホントですか!? 是非教えて下さい!!」

「ほらよ」


 すかさず耀太郎はデスクの引き出しから、一冊の雑誌を取り出して凛乃に投げてよこした。

 その表紙を見て、凛乃の顔は瞬時に熟した林檎のように真っ赤になる。


が答えだ」

「あ、あの、あのあのあの、こここ、この女の人、はだっ、はだか……!」

「男と女の価値の差は、全裸になった時に初めて生まれる――by俺」


 何だか名言っぽく耀太郎が言ったが、つまるところ脱げ、そしてしゃぶれ、と言うことである。

 そういう知識に疎い凛乃だが、流石にこの意図が伝わったらしく、耀太郎にその風俗店情報誌を突き返した。

 この選択肢だけは、それこそ絶体絶命の状態にならない限りは取るべきではない。凛乃はそう思った。

 あと表紙の女の人ほど膨らみがなかった。


「でも、普通のアルバイトだけじゃとても食べていけないよ? 日々の生活費もあるし、学費の問題もあるし。少なくとも毎月コンスタントに稼げるものか、時給がかなり高いものを選ばないと。まあ、それが難しいんだけどね」

「そもそもお前に何があるのかって話だからな」

「わたしに……何が……」


 自分にあるものが何なのか、凛乃は改めて考える。

 地位も名誉もない。貯金もない。頭は悪くはないが、金稼ぎに転用出来るような知恵はない。

 あるのはただ、若いだけの肉体と――


「…………」


 ぐるりと凛乃は思考を回転させる。

 凛乃の頭は、悪くはない。むしろかなり良い方だ。

 だから、今何を考えねばならないのか、どうすればいいのか、拙いながらも一つの手段を組み上げる。

 凛乃はその場で立ち上がり、自分が今座っている席のパソコンを見た。


「一つ、お尋ねしてもいいですか?」

「何でもどうぞ」

?」


 気になった点はこれである。

 先程、明彦はこの事務所には『ただ一人の所長』である明彦自身と、『唯一の営業マン』である耀太郎しかいないと言った。

 それなのに、オフィスには机が三つあって、パソコンもその分だけ用意されている。

 これはどういうことなのか――凛乃の問いかけに対し、存外すぐに明彦は返した。


「……以前、ここで働いていた子の分だよ。色々あって辞めちゃったけどね」

「やっぱり!」

「お前……まさかとは思うが、ここで働きたいとか言うんじゃないだろうな?」

「そのまさかです!」

「マジでか……」


 元々、この事務所には三人居たのだ。今一人減っているということは、一人雇う余裕があるのではないかと凛乃は考える。

 更に、気になる点を凛乃は耀太郎へと追及した。


「伊庭さん、わたしを政府機関とやらに渡したら、いくらもらえるんですか?」

「うげっ……。いくらだよ、明彦」

「無傷及び精神的に安定した状態で渡せば、百万円は確実に取れる。交渉次第ではもっといけるかもしれないね。概算だけど」


 つまり、二人で五十万円ずつ。三人いても一人頭約三十三万円もらえる、ということだ。凛乃はそんな単純な計算をして、目を輝かせた。

 当然、実際には経費や税金等の問題が絡むので、そこまで単純に利益は出せない。そもそも、この事務所は報酬を一々山分けしていないので、三等分すること自体間違っている。

 もっとも、百万円を超える額を手に入れることが出来るのは事実であるが。


「ここで働かせて下さい! 毎月三十三万円欲しいです!」

「月給みたいに言うな! どこの役職者だてめえは!」

「んー、別に雇ってもいいよ? でもね、凛乃ちゃん。それにはぼくと耀太郎を説得して、そして納得させなきゃならない。きみはそれが出来るの? きみを雇うことのメリットを、ぼく達に証明出来る?」


 顔付きは柔和だったが、明彦が言っていることは真剣そのものだった。

 人間を一人雇うということは、それだけ諸々の費用がかかるということである。そのデメリットを覆すだけのメリットが、果たして凛乃にはあるのかと明彦は問うているのだ。

 凛乃はきっぱりと答えた。元よりそれ以外に選択肢はなかった。


「分かりません!!」

「帰れや」

「でも、何でもやります! 一生懸命やります! お金欲しいです!」

「暖が取れそうなぐらいの熱意だなぁ……」


 凛乃に何が出来るかなど、凛乃本人にだって分からない。

 アルバイト経験すら今までない、ただの小娘が凛乃である。

 それでも、凛乃は真っ直ぐに明彦と耀太郎を見た。本来、御子柴 凛乃とはこういう風に明るく前向きな性格なのだと、二人は感じ取る。


「じゃあ聞くがよ、お前は俺の鞄を持てって言われたら素直に持つか?」

「持ちます! 根にも持ちますけど!」

「靴を舐めろって言われたら喜んで舐めるか?」

「舐めます! 訴えますけど!」

「死ねって言われたら死ぬか?」

「死にます! あなたを殺してからですけど!」

「ふざけんじゃねぇよてめぇこの野郎!! とんだ脳内アメリケン女じゃねぇか!!」

「二個目からは明らかに耀太郎が悪いじゃないか」

「このように小粋なジョークも飛ばせます!」

「しかもアピールに転用してんぞ! たくましいわやっぱコイツ!」


 それだけ凛乃も必死なのだ。アルバイトの探し方など分からないし、すぐに働けるのならば働きたい。

 そのような短絡的思考が子供そのものなのだが、あえて明彦も耀太郎も何も言わない。

 第一、大人とはなろうとしてなるものではない。立場や経験が、勝手に自分を大人に仕立てあげるものである。

 が、そんなことなど露知らず、トドメとばかりに凛乃は付け加えた。

 肉体以外に唯一ある、自分だけのモノ。


「それにわたしには、この『能力』があります……! 他の《傷持ち》を捕まえるにあたって、きっと役立ちます! これはわたしにしかない、わたしだけのモノです……!」


 凛乃は言い切った。これが、凛乃の持っている全てだった。


「……そっか。分かった。ぼくは別に雇ってもいいと思うよ。最近人手不足だと思ってたしさ。耀太郎はどう?」

「俺はだな――」

「ホントですか! ありがとうございますっ!!」

「いや今俺が喋ってんだろうが聞けやコラァ!! そういうテメェのたまにウゼーところがクッソ腹立つんだよ!!」

「まあまあ。で、どうなの?」

「……………………。ストレスで口から胃が出て来るぐらいまでこき使ってやるよ。それでもいいなら好きにしろ。どうせ雇い主は、俺じゃなくて明彦だろ」


 ぶっきらぼうに耀太郎はそう言って、そっぽを向いた。

 それを見て、更に凛乃の笑顔が輝く。


「ありがとうございます! 伊庭さん、四ツ葉さん!」

「ぼくのことは明彦でいいよ」

「はい! よろしくお願いします、明彦さん!」

「俺のことは伊庭先輩、もしくは伊庭様、或いはご主人様と呼べ」

「…………え? 聞こえませんでした」

「明彦ーッ!! コイツクビにしろぉぉ!!」

「まだ雇用契約すら結んでないよ」


 そう言ってカチカチと明彦は手元のパソコンを操作し、プリンターから一枚の用紙を印刷した。


「これ、雇用契約書。よく読んでここにサインしてね」

「はい! ペンをお借りしていいですか?」

「よく読めっつったろうが。サルかお前は」


 とはいえ不当契約でもないし、余程のことがない限りはこの事務所が法的手段に出ることはない。あくまで形式上必要だからこそこうしているのだ。

 どうせ雇用形態などを凛乃に説明したところで、あまり意味は無いだろう。明彦はそう考えたからこそ、さっさと話を進めたのである。

 凛乃はすらすらとサインした。随分な達筆だった。


「凛乃ちゃんの職種は業務補助ね。その名の通り、ぼくや耀太郎のお仕事を補助してもらうから。最初はぼくの仕事でいいけど、途中からは耀太郎の仕事にシフトしていくから、外回りになるよ。それでもいい?」

「外回り……って、体操か何かですか?」

「前回りと勘違いしてんぞコイツ……。アレだ、要はオフィスの外で仕事するってことだ。《傷持ち》を狩りに行くんだよ」


 凛乃は《傷持ち》で、その能力は――本人に自覚はないが――磨けば光るものがあると耀太郎は踏んでいる。

 明彦は凛乃の能力を書類上で見た『刃物のようなもので斬り付ける』だと思っているが、後で正確なものを教えてやらねばならない。


「さしあたって問題なのは、今回の依頼だね。凛乃ちゃんをこちらの手元に置く以上、クライアントと《鷹の目》にどう説明しようか? 罰則金も支払わないと駄目だろうし」


 今回明彦と耀太郎が受けた依頼は、凛乃の保護と譲渡である。その保護こそ完遂したものの、流れで雇うことになったので、凛乃の引き渡しを完了することが出来なくなった。

 仮に渡したら、凛乃はしばらく施設に入れられてしまうからだ。そこで能力に関する更生措置を受け、その後は後見人である伯父の元に帰されるだろう。ご丁寧に監視を付けて。


「えと……やっぱりまずい、ですか?」

「当たり前だ。契約不履行だからな。まあお前を雇う以上はどうしようもねえが」

「凛乃ちゃんは特に気にしなくてもいいけどねー」

「? あ、ありがとうございます!」


 ぺこりと凛乃は頭を下げた。いいよ、と明彦は言い、耀太郎はまだそっぽを向いている。


 ――凛乃の事情を聞いた時点で、実の所二人は今回の依頼を一方的に打ち切るつもりでいたことを、凛乃は露ほども知らない。

 今回の依頼は、孫受けのような位置付けにある。クライアントは《鷹の目》と呼ばれる組織に依頼をし、その《鷹の目》がこの事務所に依頼を横流ししたのだ。

 故に二人はクライアントと直接会っておらず、それがどのような人物なのかを知らなかった。

 ただ、何となく渡されたデータを読んだ時点で、どこかきな臭さを感じていたのは事実である。


 そして凛乃の話を聞いてハッキリと分かった。凛乃の伯父に、彼女を渡すことは危険だ。

 耀太郎はこの後、《鷹の目》に直接凛乃の保護要請を出すつもりでいたのだが、凛乃が自ら申し出た結果、凛乃を雇うことになるのならば、それはそれでいいと思っている。当然明彦も同様だった。


 つまりは――これから凛乃も知ることになるのだが――伊庭 耀太郎も四ツ葉 明彦も、超が付くほどのお人よしなのである。

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