#3 御子柴 凛乃③
「おい。『明彦』、いるか?」
所変わり、凛乃は男の所有する車の助手席に縮こまるようにして座っていた。俯いて顔を真っ赤にし、何も見ないように聞こえないようにしている。一方で男はインカムを装着し、いずこかへ電波を飛ばしている最中だった。
『はーい。どしたの?』
明彦と呼ばれた者が返答をする。男はぽりぽりと頬を掻きながら言葉を探しているようだ。呼びかけた割に、何を言うかは決めていなかったらしい。
凛乃は身体をもじっと動かす。車のシートに座ったことは何度もある。家族で出掛ける時は基本的に車だったからだ。
しかし――下着無しで座るのは初めてだった。
凛乃のパンツは、あの屋上に置いてきた。「アイツはこの先の戦いについて来れないからな」と、男が茶化して言ってきたが、凛乃は何も言わなかった。自分の下着はどこぞの餃子ではない。
「あー、いや、俺が戻るまでに用意して欲しいモンがあってだな」
『ん。いいよ。何?』
スカートの下はすっぽんぽん、と言う状態は実に不愉快である。
臀部に触れるシートのざらざらした感触とか、全体的に風通しが良すぎることとか、思ったより冷えることとか、凛乃には全て未体験であった。
それもこれも、自殺なんてしようとした罰なのだろうか。ならばきっとこれは、天国の両親が与えたもうた罰なのだろう、と無理矢理に凛乃は納得する。因みに凛乃は小学三年生までおねしょをしていた。
「パンツを用意してくれ」
『え? なに? 日本製? ドイツ製? ぼくはチハたんが好きかな』
「パンツァーじゃねえよ! パンツだパンツ! 女モンの!」
男が明彦という人物に対して怒鳴る。
が、困惑したように明彦は返答した。
『えっと……うちはブルセラじゃないんだけど……。そっちに用事があるのなら番号だけ伝えようか? ナマで売っているところを一つ知ってるからさ』
「必要なのは俺じゃねぇから! タゲだよ! タゲに必要なの! てか何でンな店知ってんだよ!!」
『もしかしてひん剥いたの!? 最低じゃないか!』
「死ねやお前もう! とにかくパンツ一丁揃えとけ! いいな!?」
乱雑に言い放って男は通信を切った。あくまで第三者目線で語るとするならば、道義的にも常識的にも間違っているのは男の方である。
凛乃には明彦とやらの声は聞こえないが、それでも男の発言だけ聞くと、この男はド変態以外の何者でもないと思った。
「おいコラクソガキ。何ドン引きしてんだ。誰のパンツだと思ってやがる」
「え……あ、ごめんなさい……」
「ったく……三十分もすりゃ着くから、それまでの間反省してろ」
「はい……」
男が向かっているのは、男が勤めているオフィスビルだ。運転している車は、唯一にして無二の社用車である。
凛乃はしゅんとしてこうべを垂れた。ちらりと横目で、男はその姿を確認する。負い目がないわけではないらしい。
「あー……まあ、その、何だ。俺も悪かったと思ってる。漏らすのも無理はねえわ。多分」
「……訴えたら勝てますか……?」
「たくましいなお前! 心配して損したわ!」
そして訴えられたら確実に負ける。成人男子が性的な事由で訴訟されれば、社会的には抹殺されたも同然だ。女という生き物は男を簡単にそういう面で殺せるから油断ならない。
ごほんと一つ咳払いして、男は真面目なトーンで凛乃に語り掛ける。
「命を粗末にすんじゃねえ。『能力』で悪さしようとした点は、未遂で終わったし目をつぶってやる。ぶった切ったアンテナの件も、こっちで何とかしとく。けどな、これから二度と自殺なんて考えんじゃねーぞ。どんだけ辛かろうが苦しかろうが、生きることを諦めるな。てめぇの親はてめぇが老衰で死ぬようにてめぇを生んだんだよ」
「はい……。ごめん、なさい……」
有り体で無益な言葉だと、男は内心毒づく。
生きろ、だなんてアバウトな上から目線のアドバイスに、果たして意味はあるのだろうか。
それでも言ってやらないと気が済まないのも事実だったが――まだこの少女へ、他にしてやれることがあると男は思い出し、ぽつりと提案する。
「……聞かせてくれ。お前の、死んだ両親の話」
「…………え?」
「暇なんだよ。昼下がりのラジオは毒気が足りなくて眠くなる」
それは男なりの優しさなのだと、凛乃はようやく気付いた。そして、少しばかり逡巡したのちに、ぽつぽつと凛乃は語り始める。
「わたしの、両親は……」
この前の母親の誕生日にプレゼントを用意した話。
父親と二人で釣りに出かけた話。
子供の頃高熱を出した話。
両親が喧嘩して、本気で泣いた話。
初めて飼ったペットのインコを死なせてしまった話。
テストで良い点を取って、家族みんなでおいしいものを食べに行った話。
とめどなく溢れ出る。思い出も、涙も、とめどなく。くだらないことも、美しいことも、汚いことも、それら全部が大切なモノだった。
男は黙ってそれを受け止めた。知ってやることが慰めになるのだと、男は分かっていた。
最後の方になると凛乃はただ涙するだけで、最早何を言っているかなど聞き取れなかったのだが、それでも男は黙って耳を傾け続けた。
下着は穿いてないし、顔はぐちゃぐちゃだし、今日は何一つ良いことなんて無かったけれど――それでも、後々振り返ればきっと、凛乃はこう思うのだ。
自分にとって、彼らに出会えたこと自体が幸運であり、救いであったのだと。
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