#2 御子柴 凛乃②

 ――べちゃっ。

 凛乃は自分の着ている制服に、真っ赤な液体が付着したことを確認した。

 自分の身体には、これがどれだけの量流れているのだろう。

 ふとそんなことを思ってしまう。


 つん、と鼻を突く酸っぱい匂いがした。不思議とそこまで痛みはないが、右肩を撃ち抜かれたのだけは分かった。


「う……そ……」


 死のうと思っていた。壊してから、死のうと思っていた。

 でもそれは叶わなかった。それどころか――壊されて、殺されるだなんて。

 全身から力が、蒸発するように抜けていく。ぺたん、とその場に両足をついて、やがて凛乃は冷たい屋上の床にその細身の身体を横たえた。

 瞼の裏に映った最後の映像は、今も頭に焼き付いて離れない、旅行に行く前の両親の柔らかい笑顔だった。


「ったく、素人の分際で対人戦仕掛けてんじゃねぇよ。お前これどうすんの? マンションのアンテナってバカ高いんじゃねぇの? アンテナ壊した音でその内野次馬集まって来るぞ? 弁償出来んのか? 俺知らねーぞ?」


 男は倒れて動かない凛乃に対し、ぺらぺらと話しかける。

 まるでまだ凛乃が生きているかのように扱っている辺り、死者すらも愚弄する男なのだろうか。そんなことを凛乃は闇の中で考えた。


「……? おい、何とぼけてんだよ。おいコラ! 貧乳オラァ! 起きろバカタレ!」


 ぺちん、と男は凛乃の首を起こして頬を一発はたいた。

 そのショックで、薄っすらと凛乃は瞼を持ち上げる。


 ――普通に凛乃は生きていた。


「……あれ……? ここ、天国……? でも、どうして……死ぬ前と同じ光景なの……?」

「それはてめぇがジャンジャンバリバリ生きてっからだよ、このバカ女子高生」

「っ!? きゃああああああああああああああああああっ!!」


 視界に入ったその男がまるで死神に映ったのか、凛乃は無我夢中で能力を男に向けて放った。

 ……が、発動しない。こんな時に限って何故、と更に凛乃は焦る。

 男はそんな凛乃を見て面倒臭そうな顔をした。未だ倒れたままの体勢の凛乃の横に、どっかりと腰を下ろす。


「いいか、お前に撃ったのは実弾じゃねえ。ニセモノの弾丸だ。おもちゃみてえなもんだな」

「……え? え? でも、わたしこんな血がべっとり……」

「だからそれはこのニセモノの弾丸だっつーの。ペイント弾だよ。当たれば多少の痛みと共に、この赤い液体を付着させる。大体、お前の肩には銃創もなけりゃ、出血一つすらねえだろ! そもそも、こんな酸っぱい匂いのする血なんてねえよ! お前が果汁で出来てんなら話は別だがな!」

「で、出来てない……ですけど」


 果物人間になった覚えは凛乃にはない。

 そしてどうやらここが現実で、自分はまるでダメージなんて負っていなくて、単に撃たれたと勘違いしたショックで、一時的に気を失っただけらしい。

 時間的には一分も経っていないだろう。臨死体験と呼ぶには、余りにも間抜けなオチだった。


「じゃ、じゃあ、どうして『能力』が出ないんですか!? 一度わたしが死んで、あなたが無理矢理わたしを蘇生して、その時のショックに伴いわたしの『能力』が消失したんじゃないんですか!? なんなんですかあなた!?」

「そりゃこっちが言いてえわ! 何なんだよてめぇのその無駄な想像力は!? 俺がお前を殺す意味も蘇生させる意味も分かんねえわ! どんだけ暇なんだよ俺は!」


 どうやら凛乃は錯乱しているらしいと考えた男は、凛乃の額を指で小突いた。


「あいたっ」

「能力が使えないのは――……あー、その、俺が《無効化系能力者》だからだ。分かるか、《無効化系能力》って?」

「え……はい。あれですよね? 魔法磁場を打ち消す空間を発生させるけど、打ち消した魔法の分だけポイントが下がるから成績も下がるっていう、あの……」

「何でよりにもよってその漫画を例に出したんだお前!? いや俺もあれ好きだし、名作だと思うけどよ! ……まあいいや、とにかくお前の『能力』は、俺が使えなくした。抵抗は無駄だ」

「……っ! わたしに、乱暴するつもりですか? それなら……!」


 凛乃は急に立ち上がり、屋上の淵の方に駆ける。あと一歩踏み出せば落下すると言ったところで、凛乃は男の方に振り向き言った。


「……無駄、ですよ。別にもう能力が使えなくたっていいです……。わたしの目的は……死ぬこと、だから……!」


 別に、この男と雑談するつもりなんて凛乃にはさらさらなかった。能力を打ち消されようが、ここから飛び降りることに何の支障もない。

 元より虚しさを潰すのはおまけみたいなものだ。凛乃がここに来た本懐は、こうして身投げすることにある。


 ――目を瞑って、凛乃は飛んだ。どうしてそこまで軽やかに身を投げられたのか、自分でも不思議だった。

 それだけ生きたいと思っていなかったのだろう。心が疲れ切っていたのだろう。

 だが、これでようやく休むことが出来る。両親の元へ、ようやく旅立つことが出来る。


 ――ああ。事ここに至って、ようやく凛乃は理解出来た。

 きっと自分は、寂しくて寂しくて仕方がなかったのだ。だから、死ぬことによって、一刻も早く両親に会いたかったのだ。

 失う辛さも奪われる辛さも、この寂しさを膨らませただけに過ぎないのだ。


(お父さん、お母さん……)


 死はすぐに訪れると思ったが、不思議とそのような感覚はない。ただ、段々と息が苦しくなって来て、ふわふわと浮いている感覚がある。

 天に昇っているのだろうか? 凛乃はそう思い、最後にこの街を一望しようと目を開けた。


「―――――――ひっ」


 そして、小さく悲鳴を上げてしまった。確かに自分は浮いている。だがそれは、決して上昇しているわけではない。

 


「こンの、クソガキ……! っぶねぇな……!」


 男が凛乃の襟首の後ろを引っ掴んで支えていたのだ。

 苦しいのは、伸び切った制服が自身の首を絞め付けているからに過ぎない。

 宙ぶらりんになった凛乃は、風に煽られて左右にぐらりと揺れた。男は伸び切った腕に力を込める。ここで引っ張り上げねば、凛乃の命はそこまでだ。

 ――が、しかし。


「あー、やっぱ疲れた」


 男は握力を弱めた。その片手だけで、落下しようとした体重四十キロ台の凛乃を掴んでいるのだ。疲れるどころか、肩の骨が外れてもおかしくない。

 がくん、と凛乃は地面にほんの数ミリ近付く。

 ただ、二十メートル以上あるこの高層マンションにおいて、数ミリ近付いたところで待ち受ける結果は変わらない。


「ひ――――い、あ―――――――っ」


 声にならない声が出る。苦しいからではなく、純粋にそれは恐怖から出たものだった。

 ――恐怖。凛乃は何に恐怖しているのか、自分でもよく分からなかった。


 ここから飛び降りて全てを終わらそうと考えたのは他ならぬ凛乃自身であり、誰かから強制されたわけではない。ここで死んで両親の元へ会いに行きたいと思っているのは事実だし、潰されそうなぐらいの悲しみを抱えているのだって事実だ。死を求めたことに、偽りはないのだ。


 でも、それなら何故恐怖するのだろう。ここでじたばたともがいて、男の手を振り払えばそれで本懐を遂げるではないか。

 しかしそれが出来ない。どころか、全ての望みを、震える男の手に託してしまっている。ここから引き上げてくれることを期待してしまっている。

 地獄に垂らされた、一本の蜘蛛の糸のように。

 ――そこに縋る亡者に、凛乃は変貌していた。


 眼下に映るのは、男か女かすら分からないぐらいに小さな人間達だ。

 こちらを見上げることすらせず、誰も凛乃が今から死のうとしていることすら気付かず、ただ歩いている。

 走る自動車も、唸るトラックも、何も知らない。この街は、余りに凛乃一人程度の生命に対して無関心だ。凛乃はそのくらい無価値な人間なのだ。

 それなのに――


「い、や……! たす、け…………」


 どうして助けを求めてしまっているのだろう。見ず知らずの男に、何故懇願しているのだろう。

 死にたいのではなかったのか?

 生きるのが辛いのではなかったのか?

 矛盾してはいないか?

 何故生きたい?

 何故死なない?

 何故だ、何故だ、何故だ――!!?


「いいこと教えてやるよ。飛び降り自殺した人間が、その後どんな状態になるのかをな」


 この男もまた、凛乃の生命に関心なんて無いのだろう。

 だから、今そのようなことが言えるに違いない。死を目前にして残酷なまでに冴える凛乃の耳は、男の声を一言一句聞き漏らさない。


「一言で言えば潰れたトマトだ。落下の衝撃で原型はまず残らない。手足からは突き出て砕けた骨が露出するし、胴体は内臓が破裂して血が嘘みてぇに飛び散る。音もすげェぞ? ドン、とかべちゃ、とかじゃない。パーンって言うんだ。膨らませたビニール袋を破裂させる感じだな。破裂するのはビニール袋じゃなくて、人体そのものだけどよ。死に場所に遺書と身分証明書をちゃんと用意しとけってのは、そういうことだ。グッチャグチャで死んだそいつが誰だか分かんねえんだよ。潰れたトマトにお名前は聞けねえしな。顔面も、陥没するか衝撃で弾け飛ぶかの二択だ。お前の可愛いお顔も、貞子が裸足で逃げ出すぐらいの特殊メイクになる」

「……あ、…………ああ……っ」


 凛乃は想像する。潰れたトマトになった自分を。それを遠巻きに眺める人々を。


「言っておくが、手を合わせてもらえると思うなよ。それをしてもらえる権利があるのは、この世から綺麗に死んだヤツだけだ。汚くおっんだヤツに対して人間がまず最初に思うのは『キショい』『グロい』『こうはなりたくない』の三つどれか、或いは三つ全部乗せだけだ。分かるか? ここから死んで落ちた途端、お前は死体でも何でもない、潰れたトマトと同格――っつーかそれ以下の、肉の塊になるだけなんだよ」


 肉の塊。投身自殺した者の成れの果て。

 かつて人間だったもの。かつて御子柴 凛乃だったモノ。

 身体の震えが止まらない。ガチガチと歯が鳴りやまない。寒い。冷たい。怖い。心が冷えているとか、もうそんなことはどうだっていい。

 今はただ――


「人間ってのは地に足付けて生きるのが一番、ってよく言うだろ? その意味、分かるよな? 俺達人間は、


 ――今はただ、硬い地面を踏み締めたい。

 強く生きるとか、辛くて死ぬとかじゃない。凛乃の本能がそう告げている。

 地を踏めと、足を付けろと、それだけでいいと。

 それこそが、生きることなのだ、と。


「もう腕が限界だから、最後に一回だけ叫ばせてやる。ほら、どうぞ」


 がくん。更に地面へ数ミリ近付く。

 もう男は人差し指と親指だけで、凛乃の襟首を掴んでいた。汗一つかけば滑って取り落とすような不安定の中で、凛乃は突き付けられる。


 堕ちるのか。昇るのか。

 一瞬の死か。長大な生か。

 肉の塊か。御子柴 凛乃か。


 迷いはなかった。そんなものは生まれすらしなかった。

 息苦しさなどものともせずに、凛乃は喉が張り裂ける強さで叫んだ。


「わ、わたしは!! 生き、たい!! 死にたく……ない!! 堕ちたくない!! たす、けてぇっ!!」

「……おう、合格だ」


 男は腕を思いっ切り振り上げる。凛乃を引っ張り上げるどころか、空中にぶわっとぶん投げてしまった。

 今度こそ凛乃は昇っている。見上げれば、痛いぐらいに透き通る青空が広がっていて……その遥か果てにきっと、両親が待っているのだと思う。

 けれど――そこにはまだ行けない。行くだけの勇気は、今の凛乃にはない。

 地に足を付けて生きる以上、空に昇ることは有り得ない。


 とはいえこの星の万物に働く物理法則は、凛乃を地上へと引き戻す。

 今度は本当に落ちた。全身が地面に引っ張られる。ごう、と風の音だけが耳に響き、身体中から血の気がさーっと失せる。


「あ――」


 このままどこに落ちるのか、凛乃には分からなかった。

 背中から地面に落ちてしまったら、きっと潰れたトマトになってしまうのだろう。


「オーライオーライ……っと」


 ――が、凛乃が落ちたのは男の腕の中だった。

 キャッチャーフライでも捕るかのように、男は落下して来た凛乃を軽く受け止める。腕を肩と膝裏に回したその格好は、俗に言うお姫様抱っこのそれだ。


「貧乳は軽いな。ほれ」


 しかし凛乃は姫ではない。受け止められた実感を噛み締める前に、望んでいた地面へと乱雑に下される。

 ローファーの底が、コンクリートの無機質さを叩く。じゃり、という音は紛れもなく自分の両足が立っている証拠なのだと、凛乃は実感した。


 実感し――そして、ぺたんと座り込んだ。立っていたかったのだが、それが出来ない。腰が完全に抜けてしまっていた。


「ったく、このバカ女子高生が。軽々しく身投げなんてしてんじゃねえよ。てめぇの親は天国にいるのかもしんねえがな、自殺したヤツはコーラを飲んだ後ゲップが出るぐらいの確率で地獄に行くんだよ。分かったか?」


 男が咎めるように言う。確率的には100%地獄逝きだと言いたいのだろう。凛乃も好きな漫画のセリフからの引用だった。

 しかし、凛乃は何も反応しない。男は「あれ」と声を漏らした。


 本来ならば飛び降りる前に捕まえて阻止することも可能だったのだが、あえて道徳的教育を施すという意味合いで、落下寸前の凛乃を捕まえたのだ。

 その結果として、凛乃は死よりも生を選んだ。死の恐怖に負けたのだろう。

 それは実に情けなくも正しい、人間として当たり前の選択だと男は考える。


 だが男は、凛乃のショック耐性に関してはまるで度外視していた。

 多分大丈夫じゃね? みたいな感じの道徳的教育が、凛乃の身体にどう影響したのか、男は思い知ることになる。


「あ……あぁ………………あああぁぁ…………」

「え、ちょ、お前」


 座り込んだ凛乃の足元付近から水音がする。それが聞こえると同時に、凛乃の座るコンクリートの色がじわっと変わっていく。

 雨で濡れたコンクリートはその色が濃くなるが、それとよく似ている。

 ただし、今日は気持ちのいい晴天で、雨が降るはずもない。

 つまり、凛乃は齢十六歳にして――――おもらしをした。


「あ……う……うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん!!」


「……。ゴメン……」


 羞恥と安堵が折り重なり混ざってぐちゃぐちゃになった凛乃は、ただただ泣き叫ぶことしか出来なかった。

 男が「漏らすってことは……生きてるってことだ」と、取り繕うように言うが、まるで耳に入っていない。

 確かに下半身に広がる妙な温かさは生きている証拠ではあるが、それでも凛乃はしばらくの間泣き続け、男はずっと頭を抱えていた。

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