屋根裏部屋

コオロギ

屋根裏部屋

 俺には少々変わった友人がいた。

 彼は天涯孤独の身だった。いやだったというか、になった。彼が大学を卒業し就職してから数年後、彼の両親が亡くなった。車の事故だったらしい。

 彼は一人っ子で、祖父母も彼が生まれる前にすでにいなかった。親戚づきあいもなかったようで、「俺に何かあったらお前に託す」と冗談交じりに話していた。

 最後に会ったのは昨年の秋だった。すっかり夏の暑さなど喉元を過ぎて、寒さに文句をつけ始めたころだった。

「最近、生き物を飼い始めたんだ」

 二軒目の居酒屋で焼酎をちびちび飲みながら、彼は唐突に切り出した。

「へえ、何の」

「花」

「花?」

「そうだ」

 はっきりとした声で頷いた友人に、また変なことを言い出したなと俺は笑った。

「何だ?」

「いや、花は飼うとは言わないだろ、育てる、だろ」

「育ててはいない」

 友人はまじめな顔をして首を振った。

「あれはもう、育たない」

「どういう意味だ?」

「半分死んでる」

「は?」

「切り花だよ」

 自身のグラスに視線を落とし友人は答えた。

「ああ、飼ってる、じゃなくて、買ってるってこと」

 やっと納得しかけたところを、彼が強く首を振って否定する。

「いや、飼ってる、の方で合ってるよ」

 さっぱり理解できずに友人を見つめた。彼はグラスに視線を向けたまま再び口を開いた。

「職場の同期がこの前結婚したんだ。それで、お前は結婚の予定はないのかって話になって、一生する気がないって答えたら、そんなのは寂しいだろうとか年をとったとき後悔するだとか散々言われたんだ。そんなもの大きなお世話だし、放っておいてくれと言っても、自分以外の誰かがそばにいるというのはいいものだとか言って全然引いてくれなくて」

「うん」

「それで、ならせめて動物でも飼ったらどうかって流れになって」

 普段あまりしゃべらない友人が、かなり饒舌になっている。これは相当酔っているなと、少々珍しいものを見ている心持ちで彼の話を聞いていた。

「犬猫なんて、俺には無理だ。世話がどうこうじゃなくて、十年、下手すると二十年生きるだろう。そんな生き物を、身寄りのない俺が、もし途中で死んだりなんかしたらどうなる?俺は、そんな無責任なことはできない」

「そんなこと言ったら、何も飼えないじゃないか」

「だから花を飼ってる」

 彼は断じるように言った。

「飾っている、でもなく?」

 彼はまた首を振った。

「お前が言ったように、俺は花を店で買っている。でもそれは金と物とのやりとりをいうに過ぎないだろ。買ったあと、俺はちゃんと『飼って』いるんだ。他のペットだって同じことだろ」

「つまり、花も立派な生き物だってことか?」

「そうだ」

 満足したように、彼は大きく頷いた。

「鉢植えじゃだめなのか?」

「鉢植えじゃ、枯らしてしまうかもしれないだろう」

「花も枯れるじゃないか」

「知ってるか、樹木、屋久島の杉の木とか、ああいう植物は何千年も生きているだろ。あれは理論的には、永久に死なないんだそうだ。もちろん現実には、環境要因やらで枯死してしまうんだが」

 グラスに残っていた酒を友人はぐいと煽った。

「俺は不安なんだ。俺のせいで何かが死んでしまうのも、何かを残して死んでいくのも、どちらも。花は確かに枯れるが、それは俺が枯らすわけじゃない。切り花はもって二週間。根を張り、葉を伸ばして生長しようとする植物とはもう根本的に違うんだよ。毎日水を取り替えたり、水切りをしたり、何か手を加えるのは育てるためじゃない、あくまで現状を少しでも長く維持するためにするんだ。だから、切り花は安心なんだよ」

「そんなの、つまんないじゃないか」

「俺には十分だ」

 微笑んだ彼はそのまま舟を漕ぎ出してしまい、俺は慌てて彼の手からグラスを奪い取った。

 その彼が、死んだという。

 相続手続きに入るため、なるべく早く連絡がほしいと留守電は告げていた。残業帰りのぼやけた頭が一気に覚め、無意識に口から洩れた「え?」という自分の声に自分で驚いてしまった。

 数日後、喫茶店で落ち合った遺言執行人だという男から話を聞くと、彼は彼の両親と同じく、車の事故で亡くなったという。信号無視をした車が、直進していた彼の車の真横に突っ込み、即死だったそうだ。

 葬式はせず、遺灰は海へ撒いてほしいという友人の依頼のとおりに、一連のことはすべて済んでいるということだった。

 受け取った遺言書には、全財産を俺に譲り渡す旨が書かれており、拒否するにしても早めに決めなければならないらしい。

『財産なんて大それたものでもないから、気兼ねなく受け取ってほしい。もちろん借金なんてないし、不動産も欲をかいたりしなければ売れないようなものではないから安心してくれていい。手続きも、面倒なことはすべて手配してあるから、心配はいらない。ちょっとした感謝の気持ちだから、受け取ってほしい。』

 遺言書とともに渡された手紙には、おおよそそのようなことが書かれていた。

 遺品に関しては業者が勝手に処分するわけにはいかないから、確認してほしいと言われ、男から友人の家の鍵を渡された。俺はてっきり彼はアパート暮らしだとばかり思っていたのだが、一年ほど前から実家の戸建てに一人で住んでいたらしい。

 次の休みに、俺は鍵を持って友人の家を訪れた。駅からは多少距離があり、また隣家もある程度間隔をあけて建っており、家というよりもその趣はむしろ別荘に近かった。

 門扉を開けて中に入る。庭もかなり広い。しかし、冬ということもあるのだろうが見えているのは乾いた土の色だけで、唯一立っている樹木も落葉樹らしく丸裸で、だだっ広さだけが強調されていた。

 預かった鍵を差し込み、家へ上がった。誰もいない、しんとした屋内。何の飾りもない通路を進んで、リビングに入った。

 がらん、としていた。

 床と同化したようなテーブルに二脚の椅子。それだけ。テレビも、本棚とかそういった収納の類もない。テーブルの上に細長い試験管のような花瓶が置かれ、赤い花が一輪挿さっているのが唯一、色彩らしい色彩だった。

 あの日、彼が頑なに「飼っている」と主張していた花だろうか。

 お前のご主人様、死んだんだってさ。

 花びらを撫でると、張りがなく、萎んでいるのがわかった。

 キッチンには電子レンジと冷蔵庫があったものの、冷蔵庫の中身はビールの缶のみで、調理器具もない。

 先ほど見た庭と同じように、ここには何もない、空っぽだった。

 本当に友人はここで、つい最近まで生活していたのだろうか。すでに業者が遺品整理を済ませてしまったのではないか。そう勘ぐってしまうほど、人のいた気配というか、残り香のようなものが一切感じられなかった。

 本当に事故死だったんだろうか。そんな考えがふっと脳裏をよぎり、強く頭を振った。

 二階に上がると、通路にうっすら、まるで霜でも降りたように白く埃が積もっていた。奥に二部屋あるようだったが、もう扉を開けて中の様子を確認する気になれなかった。

 まるで廃墟だ。あまりに寒々とした光景に、俺はどんよりとした疲労感を感じていた。

 そのとき、明かり取りの窓からすうっと光が差し込み、廊下を照らした。

 …足跡?

 雪道を踏みしめたように、足跡が暗い影となって浮かび上がった。それは、廊下の突き当りまで伸び、そこで途絶えていた。その足跡は、何度も行き来を繰り返していた。

 足跡の途絶えた地点のちょうど真上に、開閉扉がついていた。外観を確認したとき、三階建てだと思い込んでいたのだが、どうやらここから屋根裏部屋へ繋がっているようだった。

 屋根裏部屋へは、頻繁に出入りしていたのか。

 何があるのだろう。廊下の隅には簡易な脚立が折り畳まれずに放置されていた。おそらく、友人が屋根裏部屋に上がるときに使っていたのだろう。それを運んできて上り、天井の扉を開けた。降りてきた梯子に乗り換え、屋根裏部屋へ頭を突っ込んだ。

 ざわり、と鳥肌が立った。

 その光景に、言葉を失った。

 まるでどこぞの庭園かと見紛うほどの、極彩色の花々が部屋全体を埋め尽くしていた。

 そして、むせ返るほどのにおい。

 それは、人や、動物のにおいのように、植物のにおいだった。生き物が醸し出す生命の濃厚な気配。

 その花たちが、一斉にこちらに振り向き、俺を見下ろした。

 「飼っているんだ」。そう主張した友人の言葉を思い出す。確かにこれは、飾っている、とは言わない。美術館のような静けさとは似ても似つかない、動物園のような雰囲気さえ漂う、沈黙。

 俺は梯子を上り、部屋に立つ。

 花はすべて、ガラス製の花瓶に生けられていた。花瓶の大きさはまちまちで、それぞれの花に合うものが使われているようだった。

 この出入り口に一番近いところに、一階で見た赤い花が咲いていた。この花畑の中では背丈も短く、小さな子供のように見えた。

 その赤い花が、じっと、こちらを見上げていた。

 視線を上げれば、他の花々も、こちらを見ていた。

 そうだ、彼ら、もしくは彼女らは、友人を待っていたに違いないのだ。そこへ、誰とも分からない人間が入り込んできた。お前は誰だ、そういう気配を感じる。同時に、彼はどうしたのか、と、俺に尋ねていた。

「…あいつは、君たちの主人は、もう、ここに来られない。死んだんだ」

 その事実を告げた途端、この部屋の空気がぴたりと止んだ。一瞬、充満していたにおいまで消え失せたような気がした。

 どうすることもできない。花と同じように、俺もただ立ち尽くしていた。

 友人は、何かを残して死ぬのは嫌だと言っていた。花は二週間で枯れるから、だから安心だと。冗談じゃないと思った。そんなことを言うなら、飼うのではなく、飾るべきだったのだ。飼ったりなんかすべきじゃなかった。

 お前が死んで何日も経つのに、こんなにも彼らが美しい姿を保っているのは、お前が大切にしていたからだろう。こんなにも彼らが悲しむのは、お前が愛情を注いでいた証拠だろう。

 それなのに、お前は勝手に死んで、死体だって見せずに消えた。忽然と姿を消してしまった。

 お前が残すのを恐れたのは、自分が残された経験があったからだろう。どんなに悲しいか、どんなに寂しいか知っていたはずだ。それなのにどうして、彼らを残したりしたんだ。置き去りにしたんだ。どうして。

 無意識に手を固く握りしめていたことに気づき、ゆっくりとその手を解いた。

 俺は息を吐いた。やっと怒ることができた。この数日間、彼が死んだことをまったく実感できていなかった。にもかかわらず、その周辺の事柄のみがどんどん進んでいってしまっていた。それが今、急速に追いついたのだ。

 俺は一度両手で顔を覆った。

 本当にいなくなってしまったんだ。あいつは。

 そして、顔を上げた。

 目の前の彼らはまだ、泣いているだろうか。

 俺は友人の代わりに、水を換えてやることにした。花屋を営めるんじゃないかという花の量に加え、一階まで降りてはまた梯子を上りという往復のせいで一時間以上かかってしまった。明日は確実に筋肉痛だろう。

 すべての水換えが終わると、心なしか部屋の空気が和らいだような気がして、少しだけ、肩の荷が下りた。

 こんな重労働を毎日友人は行っていたのかと思うと、どんだけ大事にしていたんだとその愛情の注ぎように呆れてしまう。

 確かにこれは、「世話がどうこう」ではなく、友人は花が飼いたかったんだと理解した。

 何もないがらんどうな家は、寂しさだとか虚しさのせいではなくて、案外、可愛い花々たちに気をとられてしまっていただけなのかもしれない。

 友人がまだ生きていたのなら、もうちょっとどうにかしろよって、説教してやったところだ。

 冬だというのに体が汗ばんでいる。俺は一仕事終えた気分で、花たちを眺めた。

 何もない家の中で、唯一、この屋根裏部屋だけが眩しく輝き、息づいている。

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