名前
響が次に個室へ訪れたとき、トイレットペーパーの少女は笑顔で彼女を出迎えた。
「怖がって来てくれないと思った」
「またねって、言われたから」
その言葉と微弱ながら輝いている目を見て、少女は笑みを深める。少女に応えるように、響も笑った。
「ばかなこ」
小声で呟く。呟きは意味をなす言葉として響に届かず、彼女は首を傾げた。
「なにか言った?」
「なんでもない。座って、まずはお弁当を食べないと」
「あ、うん」
促されるまま、彼女は蓋へ布を敷いてから便器へと腰を下ろす。その前に立つ少女を見て、人がいるなんて不思議な気分だなと響は思った。
「今日の中身はなに?」
「今日はね、キャラ弁」
「キャラ弁?」
キャラの顔が少女によく見えるよう、弁当箱を回す。色とりどりの材料で作られているのは、彼女が好きなアニメキャラクターの顔。それを知らない少女でも、このお弁当が手の込んだものであることは分かった。
「響って、時々すごいお弁当を作ってくるよね」
「いただきます……名前、知ってるんだね。時々キャラ弁作ってることも」
「記憶にあるんだ」
「記憶に?」
「ホルダーにセットされたときに流れ込んできた」
「流れ込んできた……」
それは具体的にどういうこと。尋ねようとして、やめた。きっと、自分のような人間には理解できない。トイレットペーパーとは、そういうものなのだ、彼女は自らに言い聞かせる。代わりに、単純な問いをぶつけた。
「その記憶って、いつからあるの?」
「いつからって、時間って概念だよね? それなら答えられない。自分たちには、時間を感じられないから」
「そっかあ」
そういうもの、そういうものだ。彼女は心中で復唱する。
「自分も聞いていい?」
「なに?」
「どうしてここで、ご飯を食べてるの?」
租借していた口を止まる。時間を感じられない少女でも、響が動揺しているということは伝わった。「答えなくてもいいよ」。口から出かけたところで、彼女は声をあげて笑った。
「そう思うよね」
「うん、そう思う」
笑いはやがて、嘲笑を含めたため息に変わる。別にトイレットペーパー相手なら話してもいいだろう。彼女はごちそうさまをし、弁当を鞄へとしまった。お茶を一口飲んでから、話し始める。
「友だちがいないから、人前でご飯を食べるのが苦手なんだ」
言われるも、少女にはその2つの出来事に因果関係があると思えなかった。
「よく分からない」
返ってきた素直な答えに、それもそうかと苦笑する。彼女は少しだけ思考し、自分の中で言葉を整理してから口を開いた。
「1人でご飯食べてるとね、周りからかわいそうな子として見られているような気がするの。もちろん周りは私なんて気にかけてないんだろうけど、どうしてもそう思ってしまって。1年生の頃は保健室に行っていたんだけど、先生が変わってからは行けなくなっちゃったし……。思い込みは悪化して、ご飯もまともに食べれなくなってね。そしてある日、はき出してしまった時に気づいたの。トイレの個室なら、誰にも邪魔をされないって」
一気に話された内容は、少女の保有する記憶に一部ながら残っていた。断片的に彼女が発してきた言葉を組み合わせると、確かに今語られた内容と一致する。少女の手は、自然に響の頭へ伸びていた。
「そっかあ」
「うん、そうなの。ごちそうさま」
拒絶することなく、響は置かれた手を見つめる。白い手だ。
「もしかして、自分は邪魔?」
「あなたの前でもご飯は喉を通ったから、多分邪魔じゃないと思う」
「それなら良かった」
かすかな笑みが、2人の間に交わされる。
「質問、もう一つしていい?」
少女は頷いた。
「あなたの名前は?」
「ないよ。もし不便だったら、響がつけて」
「ええ。いきなりそんなこと言われてもな」
少女の手が、不意に響の腕へと伸びる。なすがままになっていると、時計が引き寄せられた。示しているのは、いつもここから出る時間。
「次までに考えてきてよ」
「そうだね、そうする」
鞄を持っていない方の手で手を振り、その場を後にした。
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