個室のふたり

城崎

顔見せ

「いただきます」

その声はひっそりと、旧校舎2階化学室横のトイレで発せられた。声を出した張本人『寂野響』は、手を合わせて食事を進める。弁当の中身は、彼女お手製のオムライス。まっすぐ食べ終わり、ついでごちそうさまと手合わせ。今日も上々の出来だった。明日はなにを作って入れようか。腕時計で昼休みが続くことを確認しながら思案する。そろそろスープにも挑戦してみようかな。そういえば冷蔵庫に賞味期限間近のトマトがあったような気がする。いや、トマトは弁当には向いてないか。心中で自らに突っこみを入れる。平穏な昼休み。

「さてと」

ため息交じりに呟き、鞄から単語帳を取り出した。

「ねえ」

不意に、単語帳の向こうから声がした。ねえ。明らかに誰かへ向けている言葉だ。誰かが来たのだろうかと思い気配を潜めるも、トイレへ入ってくる扉が開いたような音はしなかった。では、自分以外にもトイレで食事を摂る人間が? そんなはずがない。大体2年間ほどここで食事をしてきたが、滅多に人なんて来ないし、来るとしてももっと時間が経ってからだ。彼女の頭は、予想外の事態に思考をかき乱される。

「ねえ」

2回目の声と同時に、単語帳が手から離れていった。どうしてという疑問とともに視界に映ったのは、淡い桃色の髪を持った少女だった。髪は肩にかかるくらいの長さ。大きい瞳に、通った鼻筋、いわゆるかわいらしい部類の顔立ち。背丈は、同年代と比べて小柄な響と同じくらい。その身には、髪と同じく桃色のワンピースをまとっていた。響の想像を遙かに超えた展開に、思わず後ずさりして頭をぶつける。ぶつけた箇所が痛い。痛覚が機能していることで、目の前のこれは現実なのだと理解する。

「なん、なんなの」

それでも、信じたくない彼女が一際大きな声をあげた。

「ごめんね。驚かせるつもりはなかったんだ」

少女は、ばつが悪そうに視線を下に落とす。

「ふ、不法侵入? なに? なんなの。そうだ! 鍵……」

彼女は少女を押しのけて立ち上がり、扉にある鍵を見た。

「かかってる」

再び少女へと視線を戻す。ゆっくりと手を伸ばし、彼女の頬へ触った。柔らかい。触ることが出来た。信じられないという表情で触れた手と少女の顔を交互に見つめる。

「どういうことなの、あなたはなに? どうして、こんなところに」

少女はある一点を指さした。響はおとなしく、指の向ける方へ目を動かす。そこにあったペーパーホルダーには、さっきまでカバー越しでも見えていた質量のトイレットペーパーがなかった。少女へと視線を戻すと、にっこりと笑っている。ゆっくりとホルダーへ近づき、カバーを持ち上げた。

「あ、あ……」

芯すらないホルダーを見て、彼女の正体を悟った彼女は顔を青くする。

「そんなに驚いたの? 登場するときは光らせてもらったほうが良かったかな、かぐや姫みたいに」

「な、なんでトイレットペーパーが人に」

「今日はブルームーンだから、なにが起きたって不思議じゃないんだよ」

ブルームーンという単語に聞き覚えのない響は、瞬きを数回繰り返す。自分が今まで遭遇しなかっただけで、そういうこともあるのかもしれない。会話を交わす人間も回数も少ない彼女は、そう結論づけた。深呼吸をし、少女へと向き直る。

「ごめん。そんなこと知らなかったから、驚いちゃった」

今度は少女が驚いたように目を見開くも、一瞬で元の笑顔へと戻った。

「今日は顔見せってところかな」

「顔見せ?」

「そう。もうすぐチャイムが鳴っちゃうから、必然的に」

言われて時計を見ると、針はチャイムの鳴る5分前を刺していた。急いで鞄を手に取り、響はトイレの個室を後にした。

「またね」の声を背後に、響もまたねと口の中だけで呟く。久しぶりに口にしたその言葉は、彼女を高揚させるには十分だった。

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