第六章 契約

第六章 契約

池本クリニックの院長室。麗華が池本院長と面会している。

麗華「どういう事ですか。」

院長「ですから、先ほども言った通り、新しい患者さんもたくさんいるので、清華さんには、退院してもらいたいんですよ。」

麗華「でも、ああして落ち込まれていては、私も困ります。仕事だってやっと軌道に乗り出したところで、あんな風な態度をとられては、、、。」

院長「しかし、経過を観察した医師の話によりますと、暴れることもなければ、ひどく落ち込んでふさぎこむことも全く見られないそうです。そうなれば、ある程度回復したとみなすべきでしょう。そうなれば、入院する必要はありませんよ。」

麗華「いいえ、それは演技です。それは、早く出たいがためのもので、回復したわけではありません。だって、家に帰れば、すぐに悪い状態に逆戻りです。病院は、それをさせないように指導してくれるところでしょう。」

院長「勘違いをしているようですが、病院は症状が出たら直しますが、それ以外の事は何にもできません。それ以外の事はご家族の役目です。」

麗華「なんですか!また私たち家族のことを犯人にするの!」

院長「犯人なんて、そんな言い方はないでしょう。」

麗華「全く!私たちだってさんざん苦しんでいるのに、また犯人扱いされなければいけないなんて、あなたたちは何を見てきているのかしら!」

院長「はい、患者さんの症状と、経過を見ます。」

麗華「それだけですか!」

院長「当り前じゃないですか。医者なんてそういうもんですよ。それ以外の事はみません。それ以外の事はご家族にやってもらう。どこの科でも同じこと。というか、健康であろうが、病気であろうが、基本的にそういうものなんです。昔はそういう事を説明しなくても、ご家族であればわかる物でしたけどね。」

麗華「そんな古い言葉が通用するから、日本の医療も遅れているのではありませんの?」

院長「古いとか新しいとか関係なく、当たり前は当たり前ですよ。それはいつの時代も変わりません。」

麗華「じゃあ、私の事はどうなるんです?」

院長「そういう事は聞かないのが、親というもんじゃないでしょうかね。」

麗華「私だって、あの子に何もしていないわけではありませんよ。少なくとも、ここのお代は払っているわけですもの!」

院長「それとは違います。とにかくですね、清華さんには出てもらいたいんです。他にも治療が必要な患者さんはたくさんいるのに、彼女がいるせいで、その妨げになっている。これでは、病院にとってもいい迷惑です。それに、彼女にとっても、長く入院させてしまうことは、病院呆けを起こして、かえって生活しにくくなります。そうなったら、彼女はさらに、問題行動が増加するでしょうね。それでもいいのですか?」

麗華「では、あの子をこれ以上ここにいさせたら、かえって悪化するという事なんですか?」

院長「そうですよ、病院にいれば、外での生活感が全部なくなるわけですからな。余計に混乱する可能性もありますな。」

麗華「そうなると、より強い症状が出るという事でしょうか?」

院長「はい、確実にそうなりますな。」

麗華「わかりました!そうなられたら余計に私が困りますから、今回は連れて帰ります!」

院長「そうしてくださいませよ。なるべくなら、病院を頼らないようにして下さい。」

麗華「じゃあ、私が頼りにしてよいところは。」

院長「さあ、そこまでの事は、病院ではしていませんので。」

麗華は、憎々しげに院長をにらみつけるが、院長はとぼけた表情でそれを交わした。

麗華「人を馬鹿にして!」

院長「いいえ、馬鹿にはしていません。」

麗華「わかりました。ここはそういうレベルの低いところなんでしょうから、もっと丁重に治療をしてくださるところを探しますから!」

院長「まあ、果たしてあるかどうかわかりませんが、頑張って見つけてくださいよ。」

麗華「ええ!そのうち勝利して見せますから!では、お世話になりました!」

ふん!と後ろを向いて、院長室を出て行く麗華。


製鉄所の一室。

友助がきている。水穂が彼と向き合って座っている。

友助「かけましたよ。どうでしょうか。」

五線譜を受け取る水穂。

水穂「すごいですね。なんか、このままでいるのは惜しい気がするな。」

と、車いすの音がして、懍がやってくる。

懍「どうですか。」

水穂「いや、覚えがすごく早いですよ。すぐに技法を駆使して曲が描けるようになってますよ。」

懍「ちょっと拝見させていただけないでしょうか。」

水穂は、五線譜を懍に渡す。

懍「ああなるほどね。やっぱり、どこかショスタコーヴィチに近いものがありますよね。でも、古典的な面持ちもないわけではない。畢竟して言えば、彼は本格的に作曲を学ばせてやったほうがいいのかもしれないですね。」

水穂「そうですね。僕もそれを望んでいますよ。」

懍「本当は、音楽学校でも行ったほうがより学べると思いますが、まあ、できないことを言っても仕方ありませんね。ここで彼が納得するまで学ばせてやるしかないですね。」

友助「水穂さん、今日は大丈夫ですか。」

水穂「大丈夫って何が?」

友助「いや、この前みたいに、ならないかなと思いまして。」

水穂「気にしないでください。いつまでも寝ていたら体が鈍りますから。」

友助「でも体調など。」

水穂「気にしないでくださいと言ったでしょ。」

友助「そ、そうですか、、、。」

懍「意外に、優しいところもあるようですな。」

友助「あ、あ、すみません。」

懍「謝ることはありませんよ。叱っているわけではありませんから。でも、宿泊せずに、習いに来るだけの利用者は珍しい。」

水穂「すみません。本当は会議室でも借りようかと思ったんですけど。」

懍「構いません。製鉄作業には影響しませんから。」

水穂「すみません、教授。」

懍「友助さん、これは、自信があればの話なのですが。」

友助「なんですか。」

懍「実は、先日、市民文化会館でこのような催し物があったのです。まあ、まだ自信がなければ、無理をしなくてもいいですが、よろしかったら、応募してみてもよろしいかと思います。」

と言って、一枚のチラシを彼に見せる。

水穂「ああ、作曲者の募集ですか。でも、これ富士フィルではないですね。というと、どこの楽団なんですかね。」

懍「ええ。このチラシによると、合奏団明星という、弦楽アンサンブルみたいですね。まだ、三年前に発足したばかりらしい。確かに富士フィルに提供するのも悪くないですけど、せっかくであれば、こういうのに出してみても悪くないんじゃないかなと思いますよ。ああいう老舗に出すことも一利あるかもしれないけど、新鋭のグループに出すのもいいかなと。最近は、音楽を通じた交流が特に盛んですから。」

水穂「そうですか。今は、そういうアマチュアのバンドが富士でも発足するんですね。アマチュアオーケストラの品評会で、曲を初演というわけですか。ああなるほどね。確かに、いろんなところが集まるわけですから、そこで演奏されれば、知名度を上げる確率は上がりますよね。」

友助「でも、書けませんよ。こんなところに。」

懍「いいんじゃないですか。こういうところに十分出せると思いますよ。この間の交響詩が描けるくらいなら。それに、立ち上げたばかりの新鋭のほうが、受け入れられる確率は高くなると思うんですよね。」

友助「僕みたいな素人がやっていいのかな。」

懍「全くかまいません。こういうところですから、演奏者も素人なわけで、さほど高度なバンドではないと思います。」

水穂「もしよければ、練習会に行ってみますか。毎週水曜日に練習しているようですから。明日丁度そうですし。」

懍「それもいいかもしれませんね。市民文化会館まで行ってみるといいですよ。」

水穂「いつでも練習日に来てくれと書いてありますものね。じゃあ、教授、明日行ってみます。ここへメールすればいいのかな。」

翌日、富士市民文化会館。

タクシーを降りる、水穂と友助。

二人、会館に入って、第一練習室と看板のある部屋に行く。

水穂「ここですね。第一練習室。」

ドアには、「合奏団明星」と書かれた貼り紙。

カチコチに緊張している友助。

水穂「緊張しなくていいんですよ。初心者でも気軽に合奏をというところですから、そんなに大した曲は取り上げないと思うから。」

友助「はい。」

水穂「すみません。問い合わせた磯野です。練習、拝見に来ました。」

と、ドアを叩く。

声「はいどうぞ。お待ちしておりました。入ってくださいませ。」

優しそうなおじさんの声がした。

水穂「いきますよ。」

と、ドアを開ける。

中では、メンバーたちがそれぞれの楽器を調弦する音でにぎわっていた。

水穂「ああ、突然すみません。このチラシ、拝見して来させてもらいました。」

合奏団の指導者、つまりコンダクターが二人の方へやってくる。

コンダクター「ぜひ、拝見していってくださいな。まあ、大規模なものではないですれども、その分、家庭的な、優しくわかりやすい曲を楽しめる楽団を目指していますので。」

水穂「僕は連れで、希望者は彼の方です。」

友助「初めまして。市川友助です。」

コンダクター「はいはい、よろしくね。あのチラシを出したのはもう、半年近く前なんですが、応募してくれたのは初めてでした。やっぱりこういう小規模なアンサンブルに楽曲を提供してくれる人などいないのかなあとあきらめかけていたところだったのです。まあ、大した演奏技術があるわけではないけれど、自由に拝見していってくださいね。そして、アマチュアオーケストラ品評会で、初演できますのを楽しみにしています。」

コンダクターは、70代くらいのベテランと言った感じのおじいさんで、クラシック奏者によくある威圧的なところは少しもなかった。メンバーは、15人程度の小さな楽団で、比較的高齢の人が多いが、中には20代くらいの人もいる。友助がよく見ると、バイオリンを調弦していた若い女性は、どこか見覚えのある女性で、、、。

友助「あ、、、。」

女性も彼が誰かわかったらしい。

水穂「どうしたんです。」

友助「あの人。」

コンダクター「ああ、彼女ですか。彼女は、先月から来てもらっています。まだ、バイオリンを始めて間もないようですが、結構な腕を持っている子だと思っております。」

友助「もしかしたら、水野清華さんでは?」

コンダクター「ああ、そうですが、どうしてそれを前もって知っているんです?」

友助「いや、ちょっとお話をしたことのある程度ですが、お会いしたことがありまして。」

コンダクター「そうですか。それはよかった。それならぜひ、彼女に話しかけてやってくださいな。少し事情がある方の様ですが、極度に人を怖がる癖がある様で、私たちもちょっと困っていました。」

友助「し、しかし。」

水穂「いいんじゃないですか。困っているのなら、そうしたほうが良いのではないでしょうか。」

と、友助の背を押す。

彼女のほうが、椅子から立ち上がり、バイオリンを持ったまま、友助に近づいてくる。その顔は、嘘偽りない、うれしさそのものである。

清華「またこっちへ来てくれるなんて嬉しいわ。友助さんも、楽器をやる人だったのね。で、何を希望しているの?バイオリン?」

友助「違いますよ。僕は、この合奏団明星が、楽曲提供をしてくれる、作曲家を募集していると聞いたので、来たのです。」

清華「じゃあ、私が、友助さんの曲を弾いてもいいということになるのかしら!うれしいわ!」

友助「まだ決定したわけではないですよ。清華さん。でも、どうしてこの楽団に入ったのですか?」

清華「ええ、母からどうしても、逃げたかったの。同じ邦楽の中にいたら、母と必ず衝突するだろうし、それに私、母の手が、どうしても届かないところに行きたくて。」

友助「ああなるほど。それでバイオリンを始めたわけですか。」

清華「ええ。バイオリンの先生が、紹介してくれたのよ。楽器の初心者でも気軽にアンサンブルを楽しめる楽団だから、ぜひ行ってみろと。」

友助「よく許して、くれましたね。あのお母さんが。」

清華「ええ。まあ、家にいたら、私は厄介者でしょうから、こうして、外に行っていてくれたほうがいいみたい。そのほうが私も楽だし。それに、ここは病院に比べたらずっと、楽しいわよ。」

友助「そうですか。そういう台詞が言える場所ができたのなら、少し回復してきたと言えるでしょうね。」

清華「それに、友助さんまで来てくれたから。」

友助「まあ、それと話は別ですが、でも居場所が見つかって本当に良かったですね。それは僕もうれしく思います。」

コンダクター「清華さんね、そろそろ練習始めますよ。」

友助「あ、すみません。」

コンダクター「清華さん席について。」

清華「また話しましょ。」

コンダクター「あと、彼にいすを出してあげて。」

清華「あ、すみません。今、出してきます。」

と、急いで倉庫から椅子を二つ出して、コンダクターの隣に二つ置く。

清華「座ってください。気付くのが遅くてごめんなさい。」

水穂「今日は何を練習する予定なのですか。」

コンダクター「ええ、ボイスの交響曲です。」

水穂「ああ、ウィリアム・ボイスですか。」

コンダクター「ええ。まあ、それがわかってしまうと、うちのレベルがわかってしまうかもしれませんが。」

水穂「でも、作曲家の名だけで判断してしまうのはまずいでしょう。まず演奏を聞いてからでないと、楽団の良しあしは判断できませんよ。」

コンダクター「全くお世辞が上手ですな、磯野先生は。高名な方であれば、この名を聞けば、さほど大したことはないとわかってしまうのでしょうが。」

水穂「お世辞を言ったわけではないですよ。そうなれば、作曲者自身も馬鹿にしていることになります。それでは失礼というものですよ。」

コンダクター「すみません。じゃあ、とりあえず第一楽章だけやってみますか。交響曲羊飼いの運命。じゃあ、行きますよ。」

演奏が開始される。

ほんの数分しかない小規模な交響曲と言える作品だが、きちんと拍子も取れているし、和声的にもしっかりできているし、ピッチがずれていることもない。コンダクターは、レベルが低いと言っていたが、とてもそんなセリフは当てはまらなかった。

友助は、演奏が終わると立って拍手をした。

照れくさそうに、笑顔を見せる団員達。

友助「お上手じゃないですか!」

水穂「きちんと演奏できていますね。全く下手ということはありませんね。意外にこういうバロック音楽は、簡単そうに見えて難しい曲ですから。技術的には簡単であっても、奥の深さで判断すると、非常に感慨深いものもありますからね。」

コンダクター「あ、ありがとうございます。ここまでお世辞を言っていただいて、、、。まあ、うちの楽団はこういうものばっかりやっているので、最近は、新曲が見つからず困っていたところでした。なので、どなたかに提供してもらえないかと思い、あのチラシを作ったわけですが、誰も来てくださらないで、半年がたってしまい、市川さんが初めての応募だったわけです。」

水穂「そうですか。なんだか、もったいないくらいですね。」

コンダクター「まあ、皆さんレイトスターターの方が多いので、なかなか自信がなかったものですから。」

水穂「それにしてはお上手ですよ。素敵じゃないですか。他の作曲家では、何か演奏したことはないのですか?」

コンダクター「そうですね。今までは、ヘンリー・パーセルのほどかれたゴルディアスの結び目とか、ピーター・ウォーロックのカプリオール組曲などをやってきました。」

水穂「へえ、意外に幅広いんですね。バロックばっかりではないのですか。」

コンダクター「まあ、簡単なものばっかりですけどね。」

水穂「それでも使用曲の幅が広いのはある意味強みになりますよね。」

水穂と、コンダクターがこういう話をしている間、友助にとっては全くわからない言葉ばかりで、とにかく呆然とそこへ座っているしかできなかったが、清華がにこやかに彼を見つめていたので、かろうじてそこにいることができた。

コンダクター「じゃあ、続きまして、カプリオール組曲をやってみましょうかな。」

水穂「ぜひ、お願いしますよ。」

コンダクター「じゃあ、行きますか。」

再び演奏が開始される。

非常に重たい、古典的な弦楽合奏曲だったが、それにしても、友助にとってはすごい曲というしかなかった。特に、二番目のパワーヌは、非常に美しいメロディで、何となく悲しい雰囲気のある曲でもあった。これを、清華さんがもし、ソロで演奏することができたら、きっと彼女は美しいだろうなと思われた。

演奏が終わると、友助はもう一度拍手をした。

コンダクター「どうですか、うちの楽団の実力はこの程度なんですが、一曲お願いできませんかな。完成した曲は、そのチラシにも書いてありますように、品評会で演奏させていただきますので。」

友助「ぼ、僕みたいなものでいいのでしょうか。皆さんものすごくお上手ですし、とても、僕みたいな、ダメな人間の曲を弾いてもらうにはもったいない気がして、何か、身の程知らずにもほどがあると言いますか、、、。」

楽団員の中からも失笑が上がってしまう。

友助「あ、そうですよね。僕、やっぱり皆さんには、ダメですよね。」

バイオリンの席に座っている清華が、とても悲しそうな顔をして友助を見つめた。

水穂「友助さん、わからないところは教えてあげるから、書いてみたらどうですか?」

友助「ですけど、こんな若造では、皆さんの演奏に追いつく曲何て作れるかどうか、」

コンダクター「私たちは、特に指定はしないのですけどね。年齢も学歴も何も関係ないのです。そんなこと気にしていたら、あのチラシを出したりはしませんよ。現に、ウォーロックも、大した音楽学校でまなんだわけではないですから、一流の音楽学校を出た人が本当に優れているとは限らないですし、、、。」

友助「す、すみません。申し訳ない。」

水穂「まあ、これだけ情報があると、学歴とか、そういう事ばかりが話題にされやすいのはわかりますが、あんまり気にしていると、かえって、才能を潰すことにもなりかねないですからね。」

清華が、ぜひ来てほしいという目つきで彼を真剣に眺めているのが見える。友助は、これを見て、決断した。

コンダクター「どうですか。一曲、書いていただけませんでしょうか。」

友助「は、はい。」

コンダクター「ということはつまり、」

友助「書きます。」

楽団員全員から拍手が起きた。

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