5.暗黒の彼方

 わたしたちは、〈NS‐EOTWトーラス〉を立ち去ることになった。シャトルに乗り込むわたしたちは、ひとこともしゃべらなかった。ヴェルヌ04から聞かされた言葉だけが、脳裏に響いていた。

「あなたたちは、観察されていました。だから、どのような疑問を抱いてきたかは、よく知っています。あなたたちは、持つべきではないものをもって生まれてきました――希望です。岸崎博士は怯えています。あくまで推測ですが、悲しんでもいるようです。ここに博士を呼び出すことは可能ではありますが、当の博士を含めて、誰もそれを望んでいません。あなたたちも本当のところは、博士に会うことを望んでいないのです。もちろん、納得はしていただけないでしょうが。実際に会ったところで、求めていたものは得られないでしょう。あなたたちが求めてきたのは納得のいく答えであって、問いつづけたことの愚かさではないはずです」

「証拠がない」日焼けしたわたしが言った。「嘘なんだろ、全部……」

 ヴェルヌ04は立ちあがり、〈岸崎未来科学研究所〉の外に出た。

 管理AIを呼び出し、スカイ・カーテンのパラメータを変更する。

 わたしたちの頭上に、星空が広がった。

「卓球で喩えてみましょう」

「なぜ?」

「……気にしないでください。卓球ラケットで、ピンポン玉を相手のコートに打ち込むとき、人間は可能な軌跡を想像・予測し、それを意図して行動します。それは成功することも、失敗することもあります。しかし、どちらにせよ、それは意味のないことです。その結果は、行動を起こす前からすでに決定しています。可能性は、人間の不完全な意識のなかにしか存在しません。意識は、現実認識としてはこのうえなく不十分なものです。人間は、その未熟さと不完全性のゆえに、スポーツを楽しむことができるのです。岸崎博士の発見によれば、現実世界は物理的・因果的に完全閉鎖しています。あなたたちのいる下層世界でも、この事実は同様のことです。私たちは、未来を変えることができません――逆説的ですが、そのために〈ネオ・シビュラクロン〉は、未来を予測することができます。〈ネオ・シビュラクロン〉は、量子コンピュータのなかに宇宙を丸ごと再現する未来予測システムです。博士は、ビッグバンの初期状態から、138億年の歴史をかけて地球が現在の姿になるまでをコンピュータ内で再現しました。常に、まったく同じことが起こります。未来は可能性にむけて開かれてはいません。人類の絶滅は、すでに決定していました。それは現在、重要な問題ではないのですが。たんに処理能力の問題のために、太陽系が安定すると、その外部はシミュレーションから切り離されます。この世界における宇宙の最果ては、現実世界よりもずっと狭いものです。私たちの頭上に見えている星空――あの星々はすべて、存在しません」

 ハブ・ハーパーから出たわたしたちは、ふたつの選択を迫られた。

 地球に戻るか、それとも、ヴェルヌ04の言葉を確かめるか。いろいろな意思決定の方法が提案されたのだが、こまかく述べるのはよそう。なにをするにせよ、「意味のないことです」という言葉が、頭にこびりついて離れなかった。

 操縦席のわたしのひとりが、メインレバーに力をこめる。ファラデー・エンジンが脈動し、わたしたちは暗黒の彼方に突き進んでいった。そのとき、エンジン内部で悲鳴のような音があがった。

 操縦席で、あわただしくレバーを動かすわたしがふり返った。

「まずい」

「どうした?」

「方向を修正できない。このままだと、地球に帰れない……」

 ファラデー・エンジンは最大出力で迸りつづけた。わたしたちは四日間、あたふたと修理に奔走したが、肝心の部品が焼きついていて、もはやどうしようもないことを理解しただけだった。

 食糧はまだ充分にあるが、あと二週間で酸素が尽きるだろう。死は免れようがなかった。やがて、エンジンの燃料がなくなった。わたしたちは、自身を制御できないまま宇宙空間を漂うだけの物体と化していた。スクリーンに広がる星々は、どこまでも遠く果てしないものだと思えていたのだが、それは幻想にすぎなかった。一週間後、思ったよりもはやく、最果ては見えてきた。シャトルが仮想の膜面を抜けると、宙に描画された平面的な星々があっけなく背後に抜き去られていった。わたしたちの生きてきた世界が、たんなる模造品であることが証明された瞬間だった。スクリーンに映るものはもう、永遠の虚無だけだ。

 わたしたちはただ、死を待つのみとなった。

 ひとり、ふたり、酸欠で倒れていった。

 わたしも気分が朦朧としてきて、はっとなって目を覚ますともう、周りのわたしは誰も動いていなかった。操縦席のわたしのひとりは、だらりと腕を垂らして永遠の眠りのなかへ事切れていた。わたしは三人のわたしたちを担ぎあげ、順番にハンモックのなかに横たえさせた。相変わらず葬式のやり方がよくわからないのだが、ハンモックは重要だろうと思われる。わたしは操縦席に座り、距離感のない暗闇を見つめた。

 そして、まぶたを閉じた。

 もう目を開けることはないだろう。

 喉が焼けるように、呼吸が苦しくなっていった。


『接近警報……接近警報……』

 操縦席の画面に、なにかが点滅している。コンソールにもたれていた指先が動いた。鳴りわたる警報アラートによって、わたしは目を覚ました。

『接近警報……クラスCの星が、正面に近づいています』

 あわてて背を起こした。

 スクリーンには、白い巨大な物体が揺らいでいた。

 天使の羽のようなものが、雄大な軌跡ではためいている。波打つ襞の合間を抜けて、シャトルはごわごわした灰緑色の大地上空を制御不能のまま突き進んでいた。重力に吸い寄せられることはなかった。次の瞬間――巨大な白色の山が、無音で大地から突き出してきた。天空にひるがえったその山は、波が崩れるように、わたしたちの乗ったシャトルに襲いかかってきた。

 激突の寸前、白い山が停止した。

 山の表面が、シャトルをつまんでいた。

 ゆっくりと彼女はそれを持ち上げ、顔のもとまで持ってきた。シャトルのスクリーンに、巨大な眼球がひろがり、まばたきをする。山だと思っていたものは、あまりに巨大な彼女の腕だったのだ。彼女は、少しだけ首をひねって、腕をゆっくりと伸ばした。次の瞬間、鋭い噴射音がして、シャトル内にどこからともなく酸素が注入された。やがて、正面から見ることができた。宇宙空間に漂っているのは、わたしたちの神さまだった。自分と似せた分身で世界をつくった、あの神さまだ。

「やあ」

 シャトル内に、彼女の声が響いた。

 巨大な岸崎博士が、そこに浮かんでいる。


「――博士は、どうして、わたしたちを作ったんですか?」

「君たちは、私が〈ネオ・シビュラクロン〉の下層世界を探索するための人工身体プログラムだ。未来予測に影響を与えないよう、地下に部屋を埋め込んでおいた。現実世界でセンシング・ヘルメットを着用して、私の脳波を下層世界に転送し、君たちの身体で世界を感じる。なるべく自分の感覚を再現できるように精巧につくったつもりではあるけれど、まさか君たちが自律して動きはじめるとは思わなかった」

「わたしも、博士のところに行けますか?」

「……時間がかかるよ」

「いくらかかったって構いません」

「上の世界だって、そんなに立派なところじゃない」

「そんなことは問題じゃありません。わたしは一度でいいから、本物の地球を見てみたいんです」

 岸崎博士は白衣の腕を、スクリーンの前に持ってきた。その指先で、わたしの前に正方形をえがく。すると、彼女の腹部にあたる空間が黒く抉られ、奇妙に歪んだ窓のようなものができた。

 いつの間にやら、シャトルの故障は直っていた。

 博士はなにも言わなかった。ただ、虚無空間に黒い窓を広げただけ。もちろん、わたしは無言の挑戦を受け入れ、メインレバーを押し込んだ。シャトルは加速して、博士の腹部にぽっかりと開く空間めがけて、音速を越えて突き進んでいった――矩形の闇が消える直前、機械の腕が視界を横切った。

 わたしは、まっしろな部屋で目をあけていた。

 あの部屋だ。背中が痛い……全身が、青い粘液で濡れている。

 寝台からおりて、ロッカーの作業着と白衣に着替え、壁の凹みに手をかざした。作動音が鳴り、展開されたはしごの上に出口が開いた。

 わたしは、はしごを上りはじめた。

 白い部屋を出た先は、見覚えのある、荒れはてた巨大空間だった。人工的な狭い通路を駆け足で進み、終端の階段を上がって、矩形の門をくぐり抜ける。藍色の空がいっぱいに広がった。月は沈みかけ、夜明けが迫っている。消えゆく星空のなかに、円環面に十字のスポークを巡らせたスペースコロニーが浮かんでいた。


  NS‐EOTWトーラス

  7504999


「7504999」

 わたしは、ようやく博士の言葉を理解した。

 スタジアムに膝をつき、空を見上げながら、わたしはしばらく泣きつづけた。

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