2.虐殺者に死を!

 わたしは夢を見たことがない。その手の記憶はいっさい残されていない。まっしろな部屋で目をあけたとき、頭上で何かが閉まる音がした。吸い込まれるような、一瞬の衝撃音、それでおしまい。手がかりが失われたあとの天井は、ほんの少しの間隙もない、のっぺりとした白い壁面でしかなかった。

 矩形の闇が消える直前、機械の腕が視界を横切ったような気もする。

 ひょっとしたら、それこそが夢だったのかもしれない。

 身体に痛みがやってきたのは、部屋中央の寝台から降りたときだ。わたしの体表は青くて生ぬるい粘液で濡れていて、そのせいで打撲痕が見えにくかった。部屋の端に、淡い帯状の影があった。それが壁に埋め込まれたロッカーの把手であることに、しばらく気づかなかった。

 清潔な白いタオルで全身をふき、そこにあった服に着替えた。

 灰緑色の作業着の上から、なぜかハンガーに掛かっていた白衣を重ねると、だいぶ寒さを解消できた。ロッカーの扉の裏側に鏡が設置されていて、それで自分の顔を見つめる。瞳孔に反射する自分が、これといって特徴のない彼女をまっすぐ見すえている。合わせ鏡は無限には反射せず、一定の奥行以上からは暗闇になる。

 そこで、あることに気がついた。

 わたしは、自分が誰かを思い出せなかった。

 立方型の白い部屋で、わたしは長い時間を過ごすことになった。

 退屈の次に辛かったのは、空腹である。這いつくばり、寝台や床に散らばる青いゼリー状の液体をすすって腹を満たそうとするのだが、これが異様にまずい。それに、栄養があるのかどうか。この三メートル四方ほどの空間は、なんのために作られたものなのだろう。足元にあった換気口の穴は小さく、かりに格子戸を外せても、手首ほどしか通らない。耳をそばだてるが、外部の情報はまったく伝わってこない。人の声すらしなかった。

 いったいどうすれば、ここから脱出できるのか。それなりに探求しがいのある謎だと思えたが、残念なことに、無機質な壁を手探りするうち、あっさりと明らかになってしまった。手のかざした部分が、偶然にも壁の凹みで、内部で何かが反応して作動音が鳴り、青い網状の光が壁面をわたった。それと同時に、肋骨のような白いチューブが左手側の部屋の隅からせり出し、半円形の踏桟を形成する。はしごの先にある天井に、正方形の出口が開いた。

 土踏まずに、体重が食い込む。

 わたしは、はしごを上りはじめた。

 白い部屋を出た先は、荒れはてた巨大空間だった。

 屋根の断片がケーブルの巻きついた骨組みごと崩落し、奥にある門のような場所で、風にのって砂が流れている。柔らかな光が斜めに差し込んでいた。あそこが外へ向かう道だろう。角を折れ、人工的な狭い通路を進んでいった。

 左右の壁にポスターが連なっている――これには、いささか驚かざるをえなかった。〈未来を救え!〉の標語とともに印刷されていたのは、ついさっき鏡で見たのと同じ、わたしの顔だったのである。

 細かい説明文を読んでみると、理論物理学・人工知能学博士、岸崎茜(22)などと書かれている。わたしの名前は、岸崎茜……そう言い聞かせてはみるものの、どうもしっくりこない。むしろ、絶対にそうではないという根拠のない確信だけが、強く実感できた。通路の終端は、階段になっていた。

 ゆっくりと上り、矩形の門をくぐり抜ける。藍色の空がいっぱいに広がった。月は沈みかけ、夜明けが迫っている。消えゆく星空のなかに、円環面に十字のスポークを巡らせたスペースコロニーが浮かんでいた。


  NS‐EOTWトーラス

  7505000


「7505000」

 わたしは、宇宙に漂う曲壁面の数字を読み上げた。

 750万、5千……ナナ・ゴ・ゼロ・ゴ、ゼロ・ゼロ・ゼロ。声に出せることが、途方もなくうれしい。たとえ記憶は失われていても、自分の体には、世界との接点があるということだ。どうやらわたしのいる場所は、ドーム・スタジアムの観客席らしい。そそりたつスコアボードがブロックノイズを散らし、ドット絵として簡略化された岸崎茜がばらばらになって映っていた。わたしは、よっぽど有名人だったのだろうか。眼下の人工芝には黒い砂が撒き散らされて、これはわたしの足元にまで歩きにくいほど堆積している。

 スタジアムを出るまでに随分かかった。横転した無人のバスの横を過ぎて、ドームの周壁をふり返ると、巨大なスプレーアートが描かれてある。ここにも、わたしの顔だ。〈未来を救え!〉の標語はポスターと同じだが、違う部分もあった。目の部分が乱暴に赤く上塗りされて、そこに別の黒文字が描かれている。


  虐殺者に死を!

 

 もっともな主張ではある。

 とはいえ、自分の顔に描かれているとなると、心中穏やかではない。自動車がいたるところに放り出されているが、動いているものはひとつも見当たらない。建造物の電気系統はほぼ失われている。とはいえ、とつぜん不規則に外灯がつきっぱなしになっていたり、庭の水撒き用のスプリンクラーが家の前を通りかかるときに反応したりもする。閑散とした海辺の町並みをしばらく歩いてみたものの、誰とも会うことはなかった。ときおり、空から巨大な腕でえぐり取られたようにビルの外壁が瓦解し、大地から突き出す鋼鉄の牙のようになっている。駐車場のアスファルトに散らばる薬莢が、降り積もる黒い硝子砂に隠れている。周囲の弾痕を見るかぎり、このあたりで大規模な戦闘が起こったらしい。

 屋根にパトカーの突き刺さっている青い看板のコンビニに入って、わたしは昼食をとった。サンドイッチや弁当、惣菜類は青緑のカビの学園祭と化していたが、インスタント・ラーメンや缶詰などはまだ大丈夫そうだ。缶入りのぬるいコーヒーで、保存料たっぷりのミルクパンを流し込み、薄手のビニール袋に保存食品やライターを詰め込む。ついでに酎ハイに手を伸ばし、昼間からほろ酔いになってしまう。新聞を手にとってみたが、ここにも白衣の岸崎茜の顔。わはは。

 2038年6月19日号外:〈ネオ・シビュラクロン〉実験開始――なにやら知らない言葉ばかりで、音が脳内を陽気に跳ねるだけ。どこを見てもわたしばっかり。なのに、わたし以外の人間はいない。(虐殺者に死を!)このあたりで人間が見当たらないのも、あの愉快な落書きの伝えていた真実のせいなのか。だとすれば、この世界は、わたしのせいで荒廃しつつあるのかもしれない。(虐殺者に死を! 虐殺者に死を! 虐殺者に死を!)

 わたしは生きていたい。

 わたしは、この世界のことをなにも知らない。

 ひとつだけ、わたしについて分かったことがあった。歩くはじから地面が延びはじめ、ふらつく足、バランスをとろうと空に伸ばした腕が道路を叩いて硝子砂が押しのけられ、肌の表面に浅い切り傷ができた。おかげで辺りの黒い光沢が、元のアスファルトの色ではないとわかった。周囲の重力が前触れもなくゆがみはじめたか、あるいはわたしが極端にアルコールに弱いかだ。後者であることを祈ろう。

 転んだことは幸いだった。薄明の光彩が、甘ったるい桃色から青紫までの階調で空をパステルに染めるなか、遠いマンション同士の隙間で、柔らかいリボンのような、濁った煙が昇っていることに気づいたからだ。

 次の目的地はあそこに決めた。

 ひょっとしたら、他の人間にも会えるかもしれない。

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