秋葉金雄

1.博士の異常な卓球

 こめかみで光帯の微小な点滅。作動音のふもとで、翠色のアンテナがせり上がった。催導語彙はディープ・ドリーム、トランス、インフィニティ、ムルガイア――透晶スクリーンに描画された青い文字列が、鋼鉄のひたいを覆うセンシング・ヘルメット表面に反射している。異世界の彼方から、環境音がわずかに漏れる。「ようこそ、ここはNS‐EOTWトーラス……」半覚醒状態のヴェルヌ04は、カプセル・ニューロンの七色の感情領野のうち、悲しみの定義域を刺戟されている。「倫理規定に反するからです……あなたたちは、よりよい人生を歩むことが……」ほとんどの人間と同じように、ヴェルヌ04はそれが自分の真正な感情であるかどうかを気にかけたことがない。軽い跳音を鳴らしながら、部屋に入った白衣の袖が〈ザ・ワン〉管理AIめがけて指の仕草を見せつけると、モーション・スイッチが作動――世界探査室に、発光ダイオード灯がきらめいた。

「また、私?」

「――『私たち』です、博士」

「本物がいちばんだろ。スポーツの時間だ!」

 岸崎博士がラケットを振った。宙を泳いでくる銀色のピンポン玉を、軌道を見ずにつかまえる。笠状のヘルメットが探査室天井に引き上げられ、ヴェルヌ04は位相適化メッシュチェアから背を起こし、博士に放りかえした。踏み出す足音、小気味よいマイクロ滑膜の伸縮。ふたりは通路を歩き、いつものようにバルコニーにやってきた。スカイ・カーテンの日なたに入る直前、岸崎博士の足が滑りかける。ドリンクマシンに亀裂が入り、青い泥のような斑状の汚れを広げていた。掃除をやる人手はまったくない。だいたい、いちど始めたら完璧主義の博士は終わりを見つけられないだろう……終末はとっくにやってきているというのに。

 岸崎博士がピンポン玉を放った。

 逆光がその輪郭を包む。低重力、ゆったりと上昇――

 彼女の背後で湾曲する街路は、存在しない青空めがけてせり上がっている。天が球体の重みを吸って、ラケットが翻った。テーブルを分割するネット代わりの聖書の束を、バウンドしたボールが乗り越える。四手先を読んだ応酬、強烈なスマッシュ――決まったかと思いきや、ヴェルヌ04は背中に格納していたジェットパックを展開させ、レストランの座席をなぎ倒しながら店の奥まで追いつき、右腕を振りかぶった。

 白い噴霧の奥から、銀球が突き抜けてくる。エッジを精確に跳ね、岸崎博士のラケットが空を切った。〈岸崎未来科学研究所〉の看板が鏡面に照り、バルコニーの手すりを乗り越える。居住区に落下した銀色のピンポン玉は、セントラル・ストリートを軽やかな音で跳ね上がった。サントリーニ島を模した住宅街の巨庭にまぶされた黒い硝子砂に着地、勢いがのろくなり、沙漠に淡い筋をつくった。大量のピンポン玉が、黒い砂面に浮かぶ泡として、スカイ・カーテンを反射している。豪勢な玄関には〈Save the future, Dr. Kishizaki!〉との垂れ幕が飾られていた。人工宮殿のなかで、パーティは一時停止している。シャンパングラスが砕け、テーブルに前のめりで崩れているタキシードや、色とりどりのドレス……残されている人肉は、すでに僅かなものだった。パンチボウルを頭からかぶった男が、無音の叫び声をあげ、溶解した顔面を窓際に垂らしている。その肉糸はもう、黒い結晶に変わりつつあった。空調システムに乗って、いずれ沙漠と同化するのだろう。

 居住区に、生存者は一人もいなかった。

 それどころか、かつて一万人を越える住民を擁していた〈NS‐EOTWトーラス〉のどこにも、生きている者はいなかった――研究所で卓球をしている二人組を除いて。

 岸崎博士は、〈ザ・ワン〉管理AIにピースサインを見せつけた。

「われは死神なり」彼女は空につぶやいた。「世界の破壊者なり……」

 角縁のARグラスの向こうで、水色光の管理パネルが表示される。スカイ・カーテンのパラメータ変更――青空の両端が波打って、天球が暗黒に裏返りはじめた。

 やがて、彼女たちの頭上に、変わり果てた地球が見えてくる。

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