#002 裁判で「記憶がない」は通用しない。

「どういう意味よ?」


 鶴姫が驚いた様子で訊き返す。ごまかしている……わけではなさそうだった。


「いやでも、さっきから話を聞いていると、ぼくが君たちを助けたのはいまから五年前のことなんだよね? その頃のぼくは都会の学校に通っていて、この街にはいなかったんだよ」


 意外すぎる返答。東吉郎以外の全員が彫像のように固まってしまった。


「……いや、ちょっとお待ち下さい」


 みなの沈黙を破ってミドリが声を上げた。


「ど、どうしたのよ? なんだか、おかしなオーラが漂ってるわよ……」


 隣に座っていた鶴姫が、穏やかならざぬ感情を敏感に察して身をそらした。

 ミドリは意にも介さず、自説を語り始める。


「たとえ、この街に住んでいなかったとしても、たまたまその日は湖に来ていて、わたくしたちを助けたのかもしれません。つまり、東吉郎さまのアリバイはいまだ証明されたわけではないのです」

「そ、そんな! だって、ぼくは本当に……」

「い、いけませんわ……。だ、だだだだ、だって、亀の恩人を泉の底までお連れいたしませんと、ま、また、乙姫様が年の始めの余興と称して、わたくしの甲羅で吉兆占いを……。あああああ!」


 怯えたように両手で頭を抱えながら必死に訴えるミドリ。身に降りかかる悪夢を思い出して恐怖に我を忘れている。

 どうやら、現代の龍宮城は思った以上にブラックな環境のようだ。と言うか、そんなところへ恩人を連れて行こうとしているのか?


「ふむ……。ちょっとじっとしておれよ、東吉郎」

「な、なんだい?」


 不意に藍が立ち上がって男のそばへ移動する。男女の体格差以上に少女が小柄であるため、頭のてっぺんが肩口にまで届かない。


「くんくんくん……」


 東吉郎が身に着けていたシャツに顔を近づけて、匂いを確かめるように何度も鼻を動かした。


「お、おい、ちょっと……」


 女の子を諌めようと肩に手を置いた瞬間、藍が閉ざしていた瞳を大きく見開き、上を向く。


「これは……。この東吉郎は、わしを助けた東吉郎ではないぞ!」

「言ってる意味がわからないわよ……」


 ふたりの様子を不思議そうに眺めていた鶴姫が小さくつぶやく。

 藍の言葉を聞いたミドリは、何やら声にならないうめき声を上げながら白いラグに顔を突っ伏した。あ、こいつも実のところは恩返しじゃないな……。


「つまりじゃな。あのとき、わしらに手を差し伸べた人間はこの新美東吉郎の名前を語った赤の他人ということじゃ!」

「そんなことして誰が得するのよ? そもそも、あなたの鼻がどれだけ当てになるわけ?」


 不審そうな目つきで鶴姫が疑問を呈する。にも関わらず、藍は確信を持った表情で相手の苦言に反論した。


「見た目とちがって、人の匂いはそうそう変わらん。なにより、まだ幼い頃の九死に一生を得た瞬間じゃぞ? 脳裏の奥深くまでその時の匂いは刻み込んでおる。間違いようがないのじゃ」

「だったら五年前にあたしたちを助けてくれたのは誰なのよ?」

「そ、そうですわ! 別に本当の恩人でなくても人間であれば、この際は誰でも……」


 鶴とキツネが割と真面目に会話を続けている最中にも、亀の思考はドンドン悪い方へ流れていく。だが、その希望を断ち切るように鶴姫がいま一度、東吉郎の全身を眺めながらぽつりと違和感を口にした。


「……そう言えば、あたしを助けてくれたのはまだ小さな子供だったわ。年で言えば、十になるかどうか。それから五年でここまで大きくはならないよね」

「そうじゃのお。言われてみれば、わしを救ってくれたのもかなり、子倅こせがらだったのじゃ」

「ど、どどどどど、どうしましょう……。もういっそのこと、亀甲縛りにして有無を言わさず水の中へと引きずり込んでしまえば、証拠も残らない……」


 ますます混迷の様相を強めるミドリを放置したまま、ふたりは記憶と現実の乖離に頭を悩ませる。そこに東吉郎がひとつの疑問を差し挟んだ。


「そもそも、きみたちはどうやってぼくの名前を知ったんだ?」


 問われた声にふたりが互いの顔を見合わせ、懐かしきいにしえの出来事を振り返っていく。


「あたしは飛び立つ寸前に、『ぼくのなまえは新美東吉郎っていうんだ。よくおぼえていてね』と言われたわ。それをプロポーズの言葉だと確信したから」

「わしは、『ぼくは新美東吉郎、おおきくなったらぼくのところへお礼にきてね』と囁かれたあと、一緒に人里まで着いていこうとしたら母ギツネに無理やり止められたのじゃ。こんなことならあのとき、さっさと山を降りておけばよかったのお」


 どちらの反応もろくなものではない。最後に、問われてもいないミドリがつぶやくような声で事の馴れ初めを語り始めた。


「そ、そうですわ……。あのとき、カラスを追い払ってくれた童子わらしは『きみをたすけたのは新美東吉郎。いつかりゅうぐうじょうにつれていってね』とわたくしに語ってくれましたわ! だ、だだだだ、だとしたら、たとえ人違いでもわたくしに瑕疵かしはございません」


 もはや己の保身にしか関心がないミドリ。

 彼女のことはそっとしておいたまま、東吉郎がなにかに気づいて口を開こうとする。


「なんとなく、本当にきみたちを助けたのが誰なのか、わかった…………」

「ああああああああああああっ!」


 そのとき、玄関の方から驚くというか、なにかに絶叫している悲鳴が聞こえてきた。全員の意識が部屋の出入り口に集中する。


「お、お兄ちゃんが女の人を何人も連れ込んでるうううぅっ!」


 事実であるが、知らない人が聞いたら誤解を受けてしまいそうな危うい発言。

 そして、現場を見られたら言い逃れできそうにもないのが一層、悲しかった。


「どういうことなの? 説明してよね、お兄ちゃん!」


 声が近づいたと思ったら、勢いよく扉が開けられ、そこから制服姿の女の子が現れる。白い夏用の半袖に赤いリボンのセーラー服。下には紺地のプリーツスカートを履いていた。艶のある背中まで伸びた真っ直ぐな黒髪。飾り気のかけらもない素の表情と大きな瞳は、見るものによっては最高の美を感じるだろう。

 若さは儚い夢のような一瞬であるからこそ、もっとも美しいと人の心を捉えるのだ。


「み、美波ちゃん……。入るときは一応、家主の許可を得てからにしてね」


 東吉郎が困ったような表情で突然、上がり込んできた少女に釘を刺した。

 美波と呼ばれた女の子は、まなじりを小さく釣り上げ、負けん気を発しながら強く言い返す。


「このアパートの大家はわたしのお父さんで、お兄ちゃんは父の親戚。つまり、わたしは管理人代理として入居者の状態をチェックしているだけよ!」

「そ、そんな勝手な……」


 相手のプライバシーを一切、考慮するつもりがない美波の暴言。

 その迫力に東吉郎が思わず言いよどんでいると、代わりに鶴姫が舌鋒鋭く反論の口火を切った。


「東吉郎さん。この無粋で騒々しいだけの娘は一体、何者なのですか?」


 お前が言うなという気が若干、しないでもないが、我が身振り向かずに敵を討てという言葉もある。口にした指摘だけは正しいのだ。正論はいつだって正しいから誰もが好んで口にする。資格を問われるのはそのあとだ。


「こ、この子は美波ちゃんと言って、彼女が話したとおり、このアパートの管理人さんの娘だよ。昔からの知り合いで、ちょくちょく一人暮らしのぼくの様子を見に来てくれているんだ……」

「お、お兄ちゃん! この女は……ううん、彼女だけじゃないわ。ここにいる女の子たちはどういうこと? 返答次第じゃただではおかないわよ!」

「ただじゃおかないって……そんなの困るよ。ここを追い出されたら、ぼくには他にいく場所がない」

「そういうことじゃないのよ、バカぁ!」


 男の見当違いな返答に美波は声を振り絞って訴えた。

 女が聞きたいのは、いつだって理性的な論法ではなく、感情的な心の叫びなのだ。


「東吉郎がここを出ていくというなら、わしは誰の世話になったらよいのじゃ?」

「あの……。他にいくところがなければ、ちょうどいい場所をご案内いたしますが?」


 キツネが自分勝手な言い分を口にして、亀がここぞとばかりに誘いをかける。

 もうこいつら、恩返しするつもりなんて毛頭ないだろ。


「美波ちゃん、とにかく落ち着いて。あと、きみにはちょっと訊きたいことがあるんだ」

「え? な、なによ……急に。そんな、あらたまって……。わ、わたしの気持ちは最初から決まっているけど」


 勝手に勘違をいして、勝手に盛り上がっていく少女。

 恋はいつでも愉快なひとり芝居なのである。


「訊きたいのは五年前のことなんだ」

「へ? ご、五年前……。わたしたちふたりにそんな記念日があったかしら?」


 まるで話が通じない。東吉郎が苦笑いを浮かべていると、彼のそばにいた藍がこっそりと女の子のをうしろを取った。


「くんくんくん……」

「ひゃ! な、なによ、この子? いきなり……」


 後背から首筋にキスするような格好で美波の匂いを確かめるオレンジ色の髪の少女。

 突然のことに驚き、彼女はあわてて振り返った。そうすると、今度は胸元や顔、耳に至るまで藍は無神経に嗅ぎ回っていく。


「や、やめてよ! くすぐったいじゃない!」


 美少女ふたりがピッタリと身を寄せて、顔を近づけたままコソコソとしている。

 ひとりは積極的に頭を動かし、もうひとりが照れたような仕草でそこから逃げ出そうと力ない抵抗を続けていた。

 見ようによってこれを美しいと感じる人もいるだろう。愛は形のない自由である。


「ね、ねえ! お兄ちゃん、この子、一体どういうつもりなの? なんだか、怖いわよ」


 あっけにとられた様相で女の子同士の絡みをただ黙って眺めている東吉郎。

 美波は少し怯えたように助けを求める。そうこうしているうちに藍はぐいっと唇を相手の顔に近づけ、口から真っ赤な舌を伸ばした。そして、ベロリと少女の白い頬を舐める。


「う、うわああっ!」


 唐突な行為に美波は絡んでいる腕を振り切り、あわてて壁際へと後ずさった。


「な、な、なんのつもり? わたしにはお兄ちゃんという約束の相手がいるから、こんなことされても困るわよ!」

「ふむふむ、この味は……」


 相手の抗議を軽く聞き流し、目をつむったまま藍は何事か確かめている様子だった。

 舌に残る美波の”味”と”匂い”を吟味し、ようやく瞳を大きく見開く。


「間違いない! わしを助けた東吉郎はこの娘なのじゃ!」


 わけのわからないその結論に東吉郎を除いた全員が目を丸くした。

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