蒼白的五分間
五分で、何が出来るだろう。
簡単な注文品の製作、得意先のN製作所までの車移動、各駅停車が二駅通過、朝食のカップ麺完食、着替え、歯磨き、洗顔。
想像すればするほど短く感じられるその時間が、脂汗を滲ませる。
腕時計は十七時三十秒を指している。残り四分三十秒。
五分で、か。
―――五分やる。五分で、そこから出なければ、―――
約三十秒前、どこからか響いてきた声。
いきなりそんな事を言われても、焦る反面現実味が欠けるように思う。
人が一人、やっと収まる事が出来る小さな空間。ここから、あと四分で、果たして俺は出られるのだろうか。
四方は薄汚れた、白とは言えないような色の壁に囲まれ、同色の床はほんのり湿っている。前後左右、両手を伸ばし切ることは出来ない。
唯一、正面は鍵の掛かった扉になっている。
見上げると、ジャンプすれば手が届くほどに近い、天井が見える。そこは汚れてはおらず、白地に黒の点や線が散らばった、模様が入っている。
そういえば、N製作所でも同じ模様を見たな。
濃い、カビのようなそれを見つめながら、ぼんやりと考えてしまう。緊張状態の脳が、必死にリラックスしようとしているのだろう。
無理もない。
従業員十名の小さな町工場で働き、何事もなく、健康に、ひっそりと生きてきた俺にとって、これは悪夢に近い。
腕時計は十七時三分を過ぎている。もう半分以上過ぎた、時間はない。焦って体ばかりが力むが、他に解決策が見つからない。
せめて、もう五分あれば身動きが取れそうなのに…。
―――五分で、そこから出なければ、殺す。
確実に殺せる、という低く重い音だった。
聞いた事がある。少ししゃがれて、威厳と年齢を感じさせる声。有無を言わさぬその雰囲気に、「もう五分!」と呼びかける事なんて、誰が出来たのか。
ガタッガタガタガタ!
不意に、正面の扉がすごい勢いで音を立て始めた。外側から、俺に圧力をかけるように荒い息遣いを聞かせてくる。
すぐ、そこにいる。
その凄まじい殺気が、どこか欠けていた“現実味”を目の前で具体的にしていく。
全身が冷え、末端は氷のようになっていた。
ストレスが加わってか、腹にグッと痛みが押し寄せる。
滲むばかりだった脂汗はドッと噴き出し、顔を伝って床をより湿らせた。
自分の周りに、どことなく生臭いにおいが漂う。
「ッ!」
神様。
もう、部品製作で手を抜いたりしません。N製作所まで行くと偽って一服したりしません。たった二駅の乗車中に座席を奪い合う事は止めます。朝食にはフルーツを食います。下着も毎日変えます。歯だって毎朝磨いて顔も洗います。
だから、この苦しみから解放してください!
腕時計の秒針が、五度目の頂点をあと十五秒で跨ぐ。
ガタガタガタガタガタガタッ!
再び扉が音を立て、指先の温度がマイナスになったその時、二つの声と足音が近づいて来た。
すぐ近くに感じられていた殺気が、一歩遠のく。
「いやあ、あちーわ」 「な、もう七月だよ」
「「あ、お疲れっす」」
何かを見つけたかのように足音が止まり、二つの声が重なった。
「…あぁ」
返事をしたのは、少ししゃがれた、威厳と年齢を感じさせる声。
「ああ。こういう時、一つだと大変ですよね」
愛想の良い声が話しかけた後、二つの、水を注ぐような音が鳴る。
「くぅ…」
それに紛らせるように、小さく唸っている。
「、くそ。ちく、しょう」
ズ、ズズ。
呟いたしゃがれ声が、靴底を擦りながら必死に後退る音が聞こえた。
ここにきて、誰だか見当がつく。
ブ、ブブブブ、プスゥー…。
ドサッ。
座り込むような音の後に、「え」「うそだろ」という二つの声が再度重なる。
ポチャン。
全身から力が抜け、俺の尻から中途半端に出ていた何かが、やっと張られた水に音を立てた。
長針がアラビア数字の五に被さる。
扉の下の隙間から、鼻をつく臭いと、社長の「くそ、」と呟く弱い声が俺に届く。
ここを出たら多分、本当に殺される。
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