修羅場

【Aside-1】

 白い天井に広がる、ぼやけた丸い点々。

 チラリと見た右横は見通しが良く、シーツには温もりの欠片もない。

 目覚めの良くない頭のまま、洗面を済ませてから朝食を作る。用意する手は一人前の分量に慣れていて、笑いたくなった。

 私はこのまま一人でも、きっと生きていける。

 スーツに身を包んで外に出れば、そう思う気持ちは強くなった。いつも以上に背筋を伸ばし、ヒールを鳴らしていれば、駅は見えてきた。

 改札を通る為、構内のコーヒーショップの角を右に曲がる。と、その死角のすぐ先に、人がいた。

「「すみませんっ」」

 ぶつかって、お互い手荷物を落とす。

 一瞬固まる私を余所に、二本の腕は素早く動いた。落とした私の定期ケースを拾い上げ、「どうぞ」の言葉と共に渡してくれる。お礼を言おうと慌てて顔を上げると、もう相手の姿は前になかった。

「あ!」 しかし、素早い若者のミスを一つ見つけて、思わず声が出る。

「落としました、よ」

 振り返って言った尻すぼみになった言葉にも、落とした高級そうな黒いボールペンにも、相手は全く気付いていないようだ。

 その忙しそうな若い背中は、人混みですぐに見えなくなった。


【Bside-1】

 なんとか乗り込み、荒い息と服を整える。

 急いでした身支度で外に出るというのは、怖い。

 ワイシャツのボタンが一段ずつズレている事に気付いても、こんな場では必死に隠す事しか出来ないからだ。

 運よく、目の前で空いた席に座れても、気持ちは落ち着かなかった。下を向いて目頭を押さえる。

 昨夜はなかなか眠れなかった。明け方にやっと寝つけた頭が、痛くて重い。きっと、昨日言われたことが原因だ。

 耳の奥で反復する言葉と、チグハグなシャツのせいで、出勤後すぐの会議内容が頭から飛び始める。軽くなりだした脳のお陰で、自然と頭は持ち上がった。

 先程まで俺が立っていた場所は、作業服を着たオヤジの陣地になっていた。持っているスポーツ新聞が、不倫とグラビアの記事を色彩豊かに載せている。

 そのド派手さに思わず顔を逸らせば、隣に座る女は嫌な顔で見てきた。

 居心地が悪くなり、誤魔化すように内ポケットから手帳を取り出す。文字を目で追い、会議の要点を詰め込む振りでやり過ごす。

 そうしてやっと、手帳の背にあったはずの存在に気付いた。

 ボールペンがない。


【Aside-2】

 目を覚ませば、一番に見える白い天井。茶色い染みが、また一つ増えた気がする。

 拭き掃除の計画を立てつつ身支度を進めていると、家に脚立が無い事を思い出す。”あと数十センチ身長が高ければ”そう考えたところで、白髪の増えた後姿が浮かんで後悔した。

 もう、一週間近く会っていない。

 昨日、持ちこたえたと思った気持ちは、一晩眠るまでもなくリセットされた。一人でも生きられる、と考えていながら、その脚で正反対の行動をとったのだ。

 今日こそは帰ってくるようにと、用意しておいた物をテーブルに置く。カードを添えた、その誕生日プレゼントを見つめてから、戸締りをして家を出た。

 駅に着くと、コーヒーショップの角が見え始めた。近づく改札に備え、定期ケースを取り出そうと鞄を漁る。指先が探り当て、掴み出した丁度その時が、角を右に曲がるタイミングだった。

 ドンッ。

 鞄の中に気を取られ、死角の先の足音には気付かなかった。

「すみません、どうぞ」

 自分の落とした幾つかの荷物は放って置いて、素早い動きで私の定期ケースを拾い、渡してくれる。昨日と同じ展開でも、私の体は固まっている。

「大丈夫ですか?」と、顔を覗き込んでくるその様子に、昨日ほど急いでいない事を知る。その時の「あ」という表情を見て、相手もデジャブを感じている事が分かった。

「あ、はい。ありがとう」

 言いながら、私は落ちているそれに気付いたが、教えなかった。

「いえ、それじゃあ」

 その人は微笑み、スーツを正して私に背を向け、歩いてゆく。

 定期ケースを渡された時に触れた温もりと、最後に見せた柔らかい笑みが、私にしつこくまとわりつく。

 夫も、こんな風にして家に帰らなくなったのだろうか。

 誰でもいい。私の事を知らない誰かに、話を聞いて欲しい気持ちで一杯になる。若い人にしては珍しい、濃緑の渋いハンカチを拾い上げ、モヤモヤしたまま改札口に向かう。

 渡しそびれたボールペンと一緒に、また、他人の物が鞄に増えた。


【Bside-2】

 窓の外は仄かに明るい程度だ。中途半端な時刻の覚醒に、損をした気分だった。

 ベッドの上で上半身を起こし、時間稼ぎにぼーっと辺りを見回す。

 ピンクのカーテンに安っぽい猫足の家具、甘い香水に混じった煙草の臭い。この部屋の居心地は、こんな風に少し悪いくらいで丁度良い。

「何してるの? まだ時間あるよ」

 そして左から掛かる、眠そうな優しい声。何も、文句なんてなかった。

 ただ、小さなテーブルを占領する、その分厚い結婚情報誌がいただけない。前に言われた言葉が木霊する。

 ―――私達、これからどうなるの?

 情報誌を睨んだままの俺の顔を、左から視線が刺した。

 先程の返事を求めているわけではない事は分かっている。込み上げる何かに従い、決心したように俺も視線をくれてやる。

「あのさあ」 「なになにっ」

 真剣な振りで言い出してみれば、眠気なんて飛ばした声で食いついてきた。

 ほうら、やっぱり。俺が寝てる間に、わざとテーブルに置いたんだ。

 揶揄うのも馬鹿らしくなって、「いや、何でもない」とベッドを抜ける。最近は、ふとした事で何もかもが嫌になる。

 次々に衣服を身に付け、ネクタイを正し、ジャケットを手に取る。内ポケットの手帳と、外側のポケットを軽く確認したところで異変を感じた。

「どうしたの?」

「いや、」

 そう言いつつ、鞄まで必死に漁って行方を探すが見つからない。

「なにか無くした?」

「いや、」

 俺を咎めるような声色に、冷や汗が出る。それとなく辺りを見るが、落ちてもいない。「そう」と、興味がないように布団をかぶる様子を、横目で窺(うかが)う。

 まさか、な。

 以前に貰ったハンカチを無くしたと知れば、彼女は怒るだろうか…。

 後ろめたい気持ちを振り払うように、バサッとジャケットを羽織る。少し、寄り道をしてから会社に向かおう。

「もう出るの?」

 その声を無視して、いつもより随分と早く部屋を出た。


【Aside-3】

 天井の染みを十秒ほど眺めて、寝室から出る。

 一昨日の朝に置いたカードとプレゼントは、昨日の朝、書置きに代わっていた。ダイニングテーブルの、「ありがとう。明日の夜は帰れる」と書かれた付箋は、そのままにしてある。

 嬉しい反面、最近の朝の出来事がよぎり、私を埋め尽くす。

 身支度を済ませ、二人分の夕食を考えながら歩いていると、もうコーヒーショップの角が目前に迫っていた。

 定期ケースを漁っていた手から神経を逸らし、角の先の、死角に耳を澄ませる。

 足音も、人の気配も感じない。そのまま数秒警戒していても、誰かが顔を覗かせる様子はなかった。

 ホッとして足を踏み出し、角から顔を出したその時、走ってきた相手と目が合った。危ない! と思っても、若い頃のように反射的には動けない。

 今までで一番衝撃も強く、不安定なヒールだった事も相まって、力の働くままに尻もちをついてしまう。唯一、相手が手荷物を反射的に遠ざけてくれたことで、お互いの大怪我は免れた。

「すみません! お怪我ないですか?」

 痛むお尻以外はなんともない。気遣う声に手を取られて立てば、申し訳なさそうな目が私を見つめた。

「ええ、なんとか。あ、その、コーヒーは大丈夫ですか? あなたの方にかかったり、とか、」

「あっ、大丈夫です。コレ、付いてたんで」

 触れたままだった私の手をパッと放し、反対の手に持っている物を指差して言った。その、熱そうなコーヒーの容器に蓋が付いていて、本当に良かった。

 きっと、その角のコーヒーショップの物だ。大層な人気店で、いつも早い時間から行列を作っている。今、それが手にあるという事は、随分早くからこの駅にいたのだろうか。

 三度起こった出来事と、あの落とし物に、本当に偶然なのかと疑う気持ちが芽生える。

「それにしても、ホントに、偶然ですね?」

 試すような物言いに、相手も同じように疑っているのだと勘付く。互いに不安なんだと自分に言い聞かせた時、鞄に眠る二つの存在を思い出した。

「あ、これ!」

 しかし、急いで取り出した時にはもう遅かった。振り向きざまに、「それじゃあ」と言った後姿はやや遠く、ヒールではとても追いつけない。

 どんどん小さくなる背中を見送っていると、ふと、視界の下に何かが映る。手に取れば、今までのモヤモヤとした影が晴れ、真実が姿を現した。

 偶然なわけがない。自分は、なんて馬鹿なんだろう!

 真新しい、その大きな落とし物を手にしながら、私は暫く動けないでいた。


【Bside-3】

 改札を抜け、駅の出口まで来たところで空気が澄んでいる事に気付く。雨が降っている。

 天気予報を確認し、わざわざ玄関に用意しておいた昨日の努力は、水の泡になった。傘なんて大きな忘れ物、自分でも呆れる。

 しかし、どこに置いてきたかは当然分かっていた。明日の仕事帰りに引き取りに行こう、と諦める。少し離れたコンビニまで走り、売れ残っている小さなビニール傘を買う。

 あの真新しい傘を差し置いて、こんな物でスーツを汚しながら帰ったと知られれば、きっと叱られるに違いない。

 両肩の端を犠牲にして、濡れながら自宅へと急いだ。

「おかえり」

「ああ」

 意外にも、俺の濡れた肩は気にしていないようだ。

「傘、なくて大変だったんじゃない?」

「…ああ。折角の使い時なのに、会社に忘れて」

「ふぅん」

 軽蔑するようなその微笑みに、背筋がすぅっと寒くなる。

 どうして、俺が傘を持っていなかったと、知っていた? 普通、「あの傘どうしたの?」ではないのか?

「まあ、いいやぁ。夕飯、出来てるよ」

 投げやりに言いながらも、俺の為にイスを引く手。並んだ、少し贅沢な料理。丁寧に歓迎されているはずなのに、何故か気安い態度がとれない。声が、出ない。

 正面に腰掛けた彼女は、瞬きもせず俺を見る。

「さいきん、ね、」

 そして、ゆっくりと話し出す。

 トン

 小さな音とともに、何かを一つ、皿の隙間に置いた。

「ふしぎなことがあって、」

 トサッ

 もう一つ、置く。

「若くて、かあいい女の子が」

 テーブルの下に一瞬、身を隠したかと思うと、勢い良く顔を出した。

 ガッシャーンッ!

「ッ!」

 あちこちが汁と具にまみれる。並ぶ皿など見えていないかのように、大きな音を立て、テーブルに何かを叩きつけた。

 昨日の朝、このテーブルで見つけた、名前入りの真新しい傘だ。

「私の前で、あなたの物を落としてくの」

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