本扉の先

 相変わらず、針金一つで易々と侵入できそうだ。

 空き巣でも素通りするほどにくたびれ、枯れ草ばかりの植木鉢に覆われている。縦書きの『田中』という表札は、塀に埋められた石ではなく、玄関扉に貼られたプラスティックの安物。

 何の遠慮もなく、土足で入っても罪の意識さえ感じないようなこの家を前に、私は緊張や後ろめたさでいっぱいだった。

“捨てられずにいた鍵を使い、ノブを掴んで中に入る。音を聞きつけてやって来た顔に、「久しぶり」と、ひとこと声を掛ける。”

 ただそれだけの事が、たった三年時を重ねた今、難しかった。決心がつかぬまま、玄関先で十分は突っ立っている。

 傾いていた日はいよいよ落ち、向かいの玄関灯に明かりがともる。私の影が、目の前の扉にはっきり映るようになっても、頭上にある玄関灯には明かりがつく気配すらない。

「・・・・・・」

 いつも、点けないのだろうか。いつから、点けていないのだろう。人を待つ必要がなくなった時からだろうか。

 そんな事を考えていると、見上げている首よりも心臓の奥が痛みだした。


 光穂(みほ)――


 私を呼ぶ、寂しそうな声が聞こえた気がした。握り締めていた鍵で解錠し、右手でノブを握る。

 勢いよく扉を引き一歩踏み出した私は、右の爪先と顔を何かにぶつけた。


 扉を開けたその先には自分の望むものがある、と人は思っている。どんな扉にせよ、それを求めて開けるのだから、当然だが。

 では、望むものが無いどころか、予想もしていなかったものがその先にあったなら、どうリアクションをとるのが正解なのだろう。

 薄暗い玄関と、その奥の軋む廊下。右手に階段があり、左手には和室の畳の端が見える、あの内装が現れると思っていた私は、立ち尽くすことしか出来ずにいる。

 目の前のこれは、一体何なのか。

 生成り色のそれにそっと触れてみれば、乾いた感触が左手から伝わった。

「壁?」

 扉の先にある筈の空間を、ピッタリと塞いでいる壁のようなもの。壁、と言い切れないのは、壁よりどこか頼りなく、軟らかい印象を受けたからだ。

 そして、中央やや上に記された大きな縦書きの文字。


『光穂の章』


「私の章?」

 これはなに? どうして私の名前が? 何かの悪戯? 

 思わず文字を撫でる。汗ばんだ指先が、今度はしっかりと触れた。水気にも怯まない、きれいに印刷された活字だ。『章』まで辿り着いた中指に、ふと力が入る。

 指紋が吸い付き、薄い膜がめくれた。

「!」

 その後ろから現れたのも、同じく生成り色の地だった。先程と違うのは、記してある活字が『目次』に変わっているという事だ。

 次をめくれば、『零歳、一歳、二歳…』と、各年齢とその下にアラビア数字の記された項目が、『二十五歳』まで並んでいた。ちょうど、今の私の年齢まで。

 疑問ばかりが浮かぶ頭と、逸る心が次をめくらせる。見えたのは、規則正しくビッシリ詰まった文字。

 まるで大きな本だった。


『零歳

 XXXX年X月X日XX時XX分 田中家の長女として生を受ける。稲穂のように実りある、光り輝く人生を願って、光穂と名付けられる。父の清次郎(せいじろう)は、「読みやすく、女の子らしい」という理由から美穂という漢字を推したが、母、幸穂(さちほ)の説得に負け現在の漢字に至る。因みに男の子なら輝穂(てるほ)となる予定で――・・・・・・』


 どれくらい経っただろう。

 必死に押さえる右手の下で、読み終えたページがどんどんと数を重ねる。その分先へ進めば、お向かいの明かりはもう届かなくなっていた。玄関先の大きな植木鉢をストッパーにし、ケータイで文字を照らす。

 一歳で乳歯が見え始めた事。五歳で身長が百センチに突入し、家族三人で大喜びした事。十歳の時、玩具が口に当たって前歯が欠けた事。家出した十五の時、父は仕事を休んでまで母と共に私を探し回っていた事。十八歳の時に母が病気で亡くなり、父が酷く取り乱した事。

 自身でも素通りしていた私の細かな心情、言動や行動を通し、両親の心情までもが記されていた。

 これまでの一分、一秒の出来事さえ余すことなく、私を中心とした田中家の全てが詰まっていたのだ。

 自分の中が、何かでいっぱいになってゆく。

 私は何千何万というページをめくり続けた。

 夢中になっていると、あっと言う間に三年前のあの出来事へと辿り着いた。


『二十二歳

 ――・・・・・・

 二人が玄関まで来ると、背後の清次郎が「待て」と声を荒げた。遠ざかる光穂の背中を見て、幸穂を失った時の恐怖が蘇り、清次郎は冷静さを欠いた。

 追いかけて来た清次郎は優人(ゆうと)を押し退けて、光穂の右手首を力一杯握り締め、「出て行けば縁を切る」と、押し殺した声で凄んだ。こう言えば、光穂が考え直すと思ったからだった。

 しかし、怒りを覚えた光穂は、左手で清次郎を力一杯突き飛ばす。清次郎は予想していなかった衝撃に激しく尻もちをつき、尾てい骨を廊下に強打させた。この時の衝撃により、清次郎は脊椎圧迫骨折を負う。

 光穂は、「別にいいから」と言い、「二度と顔を見せるな」と虚勢を張りつつ立ち上がろうとする清次郎を、もう一度突き飛ばす。清次郎を気遣う優人の左手を無理やり引き、実家から飛び出した。――』


 知らなかった。ショックだった。

 父が感じていた失う恐怖に気付けなかった事、父の体を傷つけていた事に、やり場のない後悔が押し寄せる。

 ページの束を掴み、どんどん先へ進む。この先にきっと父がいる、そんな気がしてならなかった。

『二十五歳――』

 やっとの事で今の年歳まで辿り着く。

 もうすぐ。

 最後のページをめくれば、きっとあの薄暗い玄関と軋む廊下、階段、和室の畳が見える。そこからひょっこり顔を覗かせた父は、これでもかと目を見開いた驚きの表情を見せるのだろう。

 早く父に会いたい。会って、伝えたい。

 父さんが散々に言った彼は、とても頼れる良い人な事。先月生まれた女の子は、鼻が私そっくり、つまり父さんそっくりな事。当時は酷い事を言ったけど、全部嘘だった事。あれから今まで振り込まれていた仕送り、叔母さんからじゃなくて父さんからだって気付いてた事。今朝、倒れたと聞いて、家族を放って三時間もかけて帰って来た事。

 あの時と今まで、本当にごめん、と。

 涙が滲み、溢れる。

 拭えば、湿った指先は今まで以上にページをしっかりと捉え、めくる。

 もうすぐだ。

「?」

 乱暴にページを掴む指先が血に染まり始めた頃、ふと、私は手を止めた。

 記されている内容の毛色が、変わっていた事に気付いたからだ。ぎっしりと詰められた文章ではなくなり、中央に一文、短くあるだけだ。

 次をめくってみるが、数字の箇所以外は同じ文面だった。あまりにも簡潔なそれに、すぐには頭が追いつかなかった。


 ズズゥ――・・・・・・、トン。ギシッ。


 背後から、何かが引きずるように近づいて来た。かと思えばすぐ傍でぶつかり、軋んだ。


 光穂ッ! ドンッ!


 そのすぐ後、はっきりと私を呼ぶ声と、何かの衝撃音がした。その声は確実に助けを求めていた。

「ッ!」

 私はやっと、事の重大さを理解する。

 父さんッ!

 叫ぶ声も出なかった。目の前についた手は、力なく下へと這う。

 血が、きれいな活字の上を走った。汗の時よりも、涙の時よりも、指先は強くページに吸い付いたが、もうめくれる事はなかった。

 仰ぎ見た先には、無情な文だけがぽつんと浮かんでいた。


『光穂は、「光穂の章」、78250ページをめくった。』


 バキッ!


 すぐ左横で、一瞬にして拉(ひしゃ)げる植木鉢の音を聞いた。


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