六時間目 道徳2

「魔王様」


 昼間であるが、決して明るいとは呼べない城内に、凛とした女の声が響く。

 薄暗いのは、曇り空が原因ではない。ここは、この世界で唯一の、太陽光が届きにくい瘴気に包まれた大陸。この地は闇の眷属と称される魔族にとって、最も過ごしやすく、同時に最もその力を発揮できる場所でもあった。

 自然と、力の強い魔族ほどこの地に定住し、力の弱い……つまり魔神の加護が弱く、陽の光の下でもさしたる影響の出ない魔物は、人間たちの住むよその大陸に住まうようになった。

 マオ魔王の居城もその例の漏れず、闇の大陸の中心部に位置していた。


 マオは、部下に呼ばれ、ゆっくりと振り返る。そこにいたのはマオの秘書であり、吸血鬼王の娘であるローズであった。

 彼女はぴったりと体のラインを強調するような服を着ており、その背からは吸血鬼一族に独特な漆黒の翼を生やしている。全身黒尽くめだが、その瞳だけは血のように赤い。

 タイトスカートは動きにくいのではないかと思うのだが、あの状態でも彼女の戦闘能力に陰りは見えない。さすが吸血鬼王の娘だけあって、この城でもかなりの手練れに部類される。


「定期報告……じゃないね。何か異常事態かな?」


 ローズの表情から、その事態の深刻さは分からない。彼女は冷静で、言わせて貰えば冷徹で、仮に国一つ落ちたとしても、眉一つ動かさずに報告してくるような女だ。それでもマオから見れば、まだ多少甘いところもあるのだが……それは女であるが故だろうか。


「はい。至急、ご報告したいことが」


 感情をどこかに置き忘れたのか。ローズを見ていると、果たして異常事態が発生しているのか、疑問に思う。けれど彼女が嘘をつくとも思えないので、真実なのだろう。彼女が赴任してから日が浅いため、まだマオは彼女を掴みきれていない。


「聞こう」


 マオが促すと、彼女はようやく手にした書類をめくった。それはまるで静寂を汚したことを恥じるかのように、ぱらり、とごく小さな音を立てた。


「勇者召還の気配があったと、リッチ王から報告が登っています。真偽のほどは確かではありませんが、こと占術において、今彼よりも優れた者は、この大陸に存在しません」

「へえ……」


 驚きはない。いや、厳密には多少驚いたが、それだけだ。いつかこの日が来る。それは分かっていたことだった。魔王あるところに勇者あり。それは歴史が証明している。


 生まれてすぐにマオは魔王として祀り上げられた。それは魔神から過剰なほどの加護を授かっていたことが分かったからだ。魔王になったマオには、幾つもの英才教育がなされた。魔法学、戦闘技術、言語、帝王学は当然のこと、歴史についても、最高の教育を受けた。

 それによると、歴代の魔王は勇者と呼ばれる存在と、熾烈を極める戦いを繰り広げていた。


 人間は魔王が誕生したことを知るや、異世界に勇者を求める。そうして召還された勇者は、魔神とは正反対の性質を持つ女神に、それこそ冗談かと思うほどの加護を授かる。矮小な人間が魔王と対峙することができたのは、ひとえにその加護による能力補正のためだ。


 まだマオが未熟なうちは、人間にその存在を気取られぬよう、細心の注意を払っていた。しかしマオはもう、無力な子供ではない。隠れてばかりはいられないのだ。

 力をつけた今、人間の土地を奪うことは急務だった。人間に比べればあまりに少ないとはいえ、数が増えてきた魔族がこの大陸だけで暮らすのは、もう限界なのだ。一刻も早く土地を奪い、魔神の加護にてその地を浄化する必要がある。そしてそれは魔神に溺愛されたマオにしか、できないことだ。


 マオがその存在を明らかにした今、勇者が召還されるだろうことは、容易に予測できたことだった。

 そう。予測していた。ということは、対策をしているということだ。


「慌てないで。大丈夫。そう……これは必然だよ」

「はい」


 一度だって慌てた様子を見せたことのない彼女であったが、マオに合わせてか頷いてみせた。


「どこの国が召還したのか、目星はついてる?」

「ついています」

「なら、プランDだ」


 マオはいくつも用意してあった対策の中から、一つを選び指示をする。


「かしこまりました。

 そうですね……準備は二、三日もあれば終わるかと思いますが、いつ始めますか?」


 ローズの言葉にマオは笑った。やはり彼女は、まだまだ甘い。


「二、三日? 冗談でしょ。……今すぐだよ」









「俺が……勇者?」


 俺ユウイチは、手の中の聖剣を鞘から抜いて、収めてを繰り返し、気持ちを落ち着けようとしていた。しかし先ほどから感じる興奮が、それを許さない。

 どさっと、体をふかふかのベッドに横たえた。自宅のベッドとは比べ物にならない沈み込みだ。文明のレベルは現世の方がよほど高いというのに。

 俺は目を閉じ、つい先ほど見た光景を思い出していた。光り輝く魔法陣。玉座に座った王。俺を召還したという国最高の魔法使い……。夢ではない。夢ではないのだ。


 魔王を倒せ、と王は言った。そのための協力は惜しまないと。それだけのポテンシャルが俺にはあると。

 にわかには信じがたいことだ。しかしもらった聖剣は確かに俺にしか扱えず、その性能は疑いようもない。


「できるのかな……俺に」


 出来る出来ないではない。やらねばならない。皆の期待が重かった。魔王も魔物も怖かった。それでも、恐怖よりも興奮が大きいのは、ある意味、勇者の素質であると言えるのだろうか。

 隠しきれぬ興奮をため息とともに吐き出して、俺は起き上がった。夜の帳の降り切った窓の外を見る。美しい城だ。日本であればアミューズメントパークでしかありえない、赤亜の城。赤という扱いにくい色を使っているのに趣味が悪く見えないのは、デザイナーの裁量だろう。


「赤いな……」


 思わず呟き、それからすぐに異常に気づく。今は夜だ。この城は美しいが、あくまで文明レベルは中世程度。この暗さで赤色が見えるはずがない。では、この赤はなんだ?


「燃え、てる……?」


 炎の赤だ。


 俺はもらったばかりの聖剣を掴み、ドアを蹴破るようにして部屋の外へ出た。くそっ。地理がわからない。RPG風の世界であっても、右下にウィンドウは表示されない。マップも出ない。

 兎にも角にも走り出す。このタイミングでの何者かの襲撃。勇者である俺が無関係だとは思えなかった。


 俺は走った。少し走るだけで脇腹が痛い。鎧が重い。レベルが上がれば気にならなくなると王は言っていた。この世界にはレベルがあるという。レベルを上げれば上げるほど、基礎能力が上がるのだと。

 俺はレベル一だ。当然だ。レベルは敵を倒さなければ上がらない。敵との戦闘において、その貢献度に応じた経験値が入るというが、異世界生活一日目の俺は、この世界について授業を受けただけで、まだ敵との戦闘を経験していない。


「げほっ。げほっ。はあ……情けね……」


 まだ戦ってもいない。なのに、なんたるザマだ。

 俺は手近にあった窓にへばりついて、状況を見た。


「なん……だ、これ」


 窓の向こうは、地獄だった。燃え盛る炎、空を舞う黒羽の群れ。優秀な兵たちが応戦しているが、敵は多かった。何十……いや、何百? 魔族だろうか。いや、きっと違う。魔物だ。だって魔族は強いが、そのぶん数が少ないと言っていた。もしこれが魔族であれば、一族総出で城を落としにきているということになる。

 ここ数百年の歴史を紐解いても、そんなリスクを冒す魔族などいなかった。魔族の大陸は遠い。陽の光を嫌う魔族にとって、闇の大陸以外の土地は過ごしやすい場所ではないのだ。少なくとも今日の授業で俺はそう聞いた。


 そのとき、窓の外の敵と目があった。彼女は指揮官クラスなのだろう、手を振って部下になにやら指示を出しているようだった。彼女は俺の姿を認めると、一瞬表情が固まった。それから俺の腰に下がった剣を見る。

 勇者しか持てないはずの、聖剣を。


 瞬間、彼女の顔が歪んだ。それが笑みだと、気づくのに時間がかかった。

 かしゃんと軽い音を立て、窓が割れる。咄嗟に手で顔をかばった。優秀な鎧のおかげで、手には傷一つつかない。


 女が、巨大な翼を折りたたんで、窓から入ってきた。

 肩で切り揃えられた濡れ烏のような髪。体にぴったりフィットする黒い服。タイトスカートで空を飛ぶなど、正気だろうか。こんな状況なのに、スパッツ履いてるのかな、とか思ってしまう。ロボットみたいに感情の伴わない表情をしていても、彼女は美しかった。血のような瞳がこちらに向けられる。そしてゆっくりと俺に……いや、聖剣に指先を向ける。黒く塗られた爪が印象的だった。


「それ」


 凛とした声。声優もできそうだな、と俺は思った。


「あなたは、勇者ですか?」


 言葉は疑問の体をなしているが、それは確認だった。否定しても無駄だろう。


「だ、だったらなんだよ」


 ふっと、彼女が笑った。それが美しくて、妖艶で、俺は一瞬彼女に見とれた。


「大したことではありません。ただ……死んでください」


 彼女の美しい指先に、黒い球が現れた。それが少しずつ膨らむのを、ぼんやりと眺める。逃げるという発想はなかった。どうせ逃げきれない。せめて一太刀。俺は聖剣を抜こうとする。しかしそれよりも早く、彼女の球が完成した。

 全てを諦めかけた瞬間、彼女の顔に焦りが浮かぶ。黒い球を放つのを止め、それを盾状に変形させると、俺の右手側に向けた。キィン……と鋼鉄同士が触れ合う音がする。


「ユウイチ殿! ご無事か!」

「あ……ロバート!」


 そこにいたのは、剣聖と呼ばれた、この国最高の剣士だった。二十代後半。その若さでここまで剣の腕を磨いたのは、歴代剣聖を見ても、最高級の素質を持っている彼くらいなものだ。

 彼は俺が旅立つときに、パーティーメンバーになるはずだった。


「勇者の次は剣聖ですか。私は、なんと運がいい。これも魔神のお導きですね」

「運が悪い、の間違いではないか。吸血鬼」


 ロバートは油断なく剣を構えた。空気が変わったのを肌で感じる。ロバートは意識の全てを吸血鬼に向けたまま、俺に言った。


「ユウイチ殿。逃げてください」

「え……」


 ロバートの言葉の意味がわからないほど、俺は愚かではなかった。それは剣聖たる彼をもってしても、俺を守りながら戦うことが難しいという告白。

 危険な城の中、俺を一人にすることよりも、ここに残す方がリスクが高いということ。それほどまでに、彼女が強いのだということ。

 そして、俺が足手まといだということ。


「俺は……勇者なんだ」

 人類の希望だ。闇を屠る強い光だ。その勇者が、逃げるなど……!


「ユウイチ!!」


 迷う俺を、声の鞭が打つ。びくりと体が震える。


「お前は弱い」


 はっきりと言い切られて、俺は何も言えない。だってそれは事実だから。俺は弱い。今は、まだ。


「だが、お前は誰よりも強くなれる。その素質がある。

 だから今は、逃げろ。

 まずはアリスを探せ。アリスならお前を外に転移させられる。

 俺なら大丈夫だ。こいつを倒して、必ず後から追いつく」


 俺は唇を噛み締める。できるなら残って一緒に戦いたい。でも、それは俺のわがままだ。

 くっきりと跡が残るほど強く噛んで、ようやく喉の奥から声を絞り出した。


「……約束、だからな」

「ああ、当然だ」


 俺は踵を返す。約束した。それならば俺にできることは、彼を信じることだけだ。最後に一度だけ、振り返る。俺には目でも追うことができない速さで、剣が、黒い球が、動き回っている。


 レベルが違う。


 俺は走り出した。勇者なのに、戦場に背を向けて。

 どんどん遠ざかっているはずなのに、戦いの喧騒は耳の奥にこびりついて、なかなか消えなかった。









「勇者を逃がして、よろしかったのですか?」


 ローズから通信が入る。マオは手の中のワインを弄びながら、ゆったりとソファに腰を沈めていた。部屋の中には数多の水晶が浮かんでおり、その一つ一つが勇者を召喚したと思われる国の惨劇を映し出していた。

 その中の一つ、ローズが映る水晶を、念動力で目の前まで持ってくる。


「うん。構わないよ。むしろこれが最善だった」


 マオは気楽に笑った。そう、想定通り。むしろ僥倖だったとも言える。勇者は確かに脅威だが、現状を考えれば、剣聖の方がよほど厄介だ。今ここで排除できるなら、その方がいい。

 ふと思い立ち、ローズに尋ねる。


「怪我は平気?」

「大したことありません」


 ローズは即答したが、果たしてどうだろう。彼女の翼は骨が折れているようだし、剣聖から受けた傷が多数ある。さすがに大したことないとは思えない。


「回復しておいたら?」

「……そうですね」


 吸血鬼の最たる特徴は、その再生能力にある。魔力の強さも敏捷性も優れているが、それはあくまで他の魔族と大きな差はない。

 ローズは足元の死体を蹴り上げた。それは生前、剣聖と呼ばれていた男の死体。その表情は苦悶にゆがんでいる。ローズはその傍らに屈み込むと、その首筋に噛り付いた。するとみるみるうちに、彼女の傷が癒えていく。


「全部は飲まないでね。消滅したら困る」


 吸血鬼が血を吸いきると、その遺体は消滅する。理屈は知らない。あまり興味もなかった。


「何に使うのですか?」

「リビングデッドにしてみようかなって。せっかく強い死体だし、勇者も戦いにくいでしょ」

「かしこまりました。では、適当に強そうな者の死体は持ち帰るようにします」

「頼んだ」


 血を吸った後の彼女は、肌ツヤさえ良くなっているように思える。口元についた血を手で拭った。


「では私はこのまま、城内から勇者を探します」

「うん、まあほどほどにね。

 あ、でもできれば、アリスとか言った魔法使いは殺しておいて。じゃあよろしく」


 そう言って通信を切る。おそらく彼女に勇者を殺すのは無理だ。

 水晶の一つが勇者を追いかけていた。もう間もなく彼は、王国屈指の魔法使い、アリスの元にたどり着く。転移するのも時間の問題だろう。近くに勇者を追える魔族がいないから放っておいているが、そもそも今回の襲撃では、勇者の命の優先度は低かった。


 プランD。勇者のバックアップを潰せ。それが今回の計画の肝だった。


 マオが魔王として活動を始めるにあたって、最も重視したのは情報だ。歴代魔王は、人間を軽んじている。そのせいで、敗北した。


「俺は同じ轍は踏まない」


 人間の国の歴史は、戦いの歴史だった。しかしそれは必ずしも闇の眷属に対してだけではない。

 マオが統治する魔族たちは、その種ごとに国を作っている。そしてそれを取りまとめているのがマオだ。魔族は徹底した実力主義だから、偉い者ほど強い。そこに反乱の余地はない。


 しかし人間は違う。多くの国が乱立し、それぞれが競い合っている。

 勇者召喚とて同じことだった。どの人間の国も、自分たちが召喚した勇者でもって、魔王を倒したい。そう願っている。勇者の召喚にはかなり厳しい条件が付くようで、ホイホイと気軽に行えるものではない。それでもかつて、勇者が二人同時に存在した記録もあった。


 つまり、勇者は貴重だが唯一ではない。


 だからマオは、勇者の召喚を行った国を潰すことにした。滅せなくてもいい。修復に時間がかかる程度に潰す。能力の高い者を優先して殺す。

 そのために魔族の中でも、機動力と隠密性に優れた吸血鬼の軍勢を送り込んだ。かなり大きな戦力だ。彼らならば、ある程度の爪痕を残すことなど朝飯前だし、いざとなった時に撤退もしやすい。大切なのは、意表をつくこと。そして貴重な味方を失わないことだ。


 あの国には剣聖を始めとして、戦闘能力の高い者が多くいる。味方の損害を減らし、敵を殺すには、奇襲が原則だ。間違ってもダンジョンに入ってきて臨戦態勢を整えた奴らを相手取ってはいけない。


 王都を襲えば、あの国は勇者のバックアップを行う余裕がなくなる。

 特にあそこは、マオのいる大陸からは距離がある。すぐに魔族に攻め入られる危険が少ないことを、為政者は必ず知っている。無理をして勇者をバックアップして他国に蹂躙されては敵わない。そう考えるはずだ。


 そしてあの国以外の為政者は、勇者を蔑ろにはしないだろうが、そうそう進んで手を貸すことはないだろう。それよりは自国での勇者召喚を急ぐはずだ。

 となれば自然と、勇者が一人でレベルアップをすることが要求される。仲間がいたとしても、剣聖や大魔導士のような存在が側につくことはない。大魔導士アリスの転移が、一個人限定であることをマオは突き止めていた。空間を移動する魔法は、どうしても燃費が悪い。


「おや、そろそろ潮時かな」


 ずいぶん長く考え込んでしまったのか、それとも吸血鬼が優秀だからか。王都の惨劇はすっかり下火だった。もう逆らう者もいないのか、ローズが持ち帰る死体の選別をしている。


 ぱちん。マオは指を鳴らした。メイド服のサキュバスが無言で側に来る。


「出かける。準備を」

「はい、かしこまりました」


 あとはローズに任せよう。彼女は優秀だ。目を離したところで、問題など何もないだろう。マオはマントの裾を翻した。

 魔族の繁栄のため。まだまだ、やることは山積みだった。

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