二時間目 理科2 

「うわあああああっ!」


 薄暗いダンジョンの中に、沈痛な悲鳴が響き渡る。その声が自分の喉から発せられていることに気づくのに、少し時間が必要だった。


 俺、ユウイチの前には、俺に傷を負わせた相手が、獲物をいたぶる強者の目で、こちらを見ていた。それは俺よりも小さかった。知能も決して高くはなかろう。しかし人間には持ち得ない鋭い爪と牙を持ち、恐ろしいことに、獣の皮で作られた腰布と鍋の蓋、それから錆び付いた剣で武装している。


 俺は無茶苦茶に剣を振り回す。目の前にいる敵、そう、ゴブリンは、そんな俺を嘲笑うように体を揺らし、俺の血がついた剣を舐めた。





**************





「ごめん石原、ちょっと待って」

「何、今度は早くない?」


「うん。まあ大きな問題はないよ。けどさ、俺大ピンチじゃん? 強敵の襲来じゃん? そこでなんでゴブリン? ドラゴンとかじゃないの?」

「だって、役が足りないから。お前の仲間は俺一人だろ? 物語の終盤で勇者の仲間が僧侶だけってなくない?」

「無いけど! そんな人望の無い勇者嫌だけど! けどゴブリンて!」


「勇者の魅力は伸び代でしょ? 最初はそんなもんだって」

「でもなあ……。じゃあせめて、ストーリー展開は俺やるからさあ」

「それもダメ。俺が登場するタイミングとかは、俺が決めたい。そうじゃないと僧侶の存在意義について語れない」


「ぐぬぬ……。はあ。分かったよ……続けてくれ」

「じゃ、遠慮なく」





****************





 傷付いた左手をかばって、俺は両手で抱えていた剣を右手に持ち直した。両手でようやく振ることができていた剣は、片手で持つには重すぎて、自在に振り回すことなど不可能に思えた。

 しかし俺がどう思おうと、ゴブリンはそんなこと御構い無しに向かってくる。最悪なのは、奴らが群れを作っていることだ。一匹二匹を倒したくらいじゃ、すぐに他の奴らが間合いを詰めてくる。


「はあっ。はあっ。くそっ。

 マオ! マオ! どこだよ、やられちまったのか!」


 俺は唯一の仲間であるマオに、必死に声をかけた。彼は僧侶だ。まだ駆け出しとはいえ、回復魔法を使える。しかし、ダンジョンに入ってゴブリンの襲撃を受けてから、マオとは逸れてしまった。これでは傷を癒すことなどできない。


 何より、マオが心配だった。攻撃手段を持たない僧侶が、一人でダンジョンをうろついているなど、襲ってくれと言っているようなものだ。

 早く彼を見つけてやらなくては! 逸る心を無理矢理に押さえつけ、俺はゴブリンの群れに突撃した。


「おりゃあああああっ!!」


 確かな手応えがあった。目の前のゴブリンが肩から大量の血を吹き出して、倒れる。しかし達成感があったのは、一瞬だった。


 次の瞬間、俺の胸から錆びた槍が生えていた。やや遅れて、痛みと、恐怖、寒気、喪失感が襲ってくる。


 何が喪失されているかって?

 決まっている。俺の命だ。


 悲鳴さえ上げられず、俺はその場で倒れこんだ。血の塊が、声の代わりに喉の奥から吹き出した。ゴブリンが勝鬨をあげているのが、遠くに聞こえる。耳まで遠くなってきやがった。


 怖い。怖い。いやだ。死にたくない。勇者なのに、こんなところで死ぬのか。誰を救うこともできず、魔王に出会うことさえなく、ゴブリン相手に死ぬのか。


「い……や、だ……!」


 誰か、誰か助けてくれ。


 真っ先に、仲間の僧侶の顔が、頭に浮かぶ。嫌味な奴だったけど……今となっては、最高の仲間だったな……。

 マオは、ちゃんと逃げられたのかな。


「生きてるよ。安心して」


 そっか……なら、良かった……。

 って、え?


 俺はおぼろげな視界を必死に動かして、マオの姿を探した。しかし彼は、どこにもいない。まさか、幻か? とうとう幻聴が聞こえるようになってしまったのか?


「違う違う。魔法だよ。

 俺は戦えないから、逃げるための魔法は優先して覚えたの。俺の姿は、お前にもゴブリンにも見えてない」


 マオの声だけが響いている。幸いなことに、ゴブリン達は勝鬨を上げるのに必死で、俺の仲間が助けに来たことに気付いていない。


「偉大なる女神の慈愛よ。哀れなる愚者に命脈の息吹を」


 マオが呪文を唱えると、俺の全身を淡い緑の光が包み込んだ。胸の傷が、腕の傷が、みるみるうちに癒えていく。


「た、助かった」

「どういたしまして」


 マオの姿は見えないが、その声は確かに笑っていた。マオの自信に満ちた声を聞くと、恐怖に震えていた俺の心が、少しだけ元気になった気がした。


「よし、じゃあすぐにここから逃げよう」


 今なら、こっそり逃げられる。それにマオの魔法があれば、姿を隠して、より安全にダンジョンから脱出できるかもしれない。

 しかし俺がそう言うと、マオは心底呆れたように、「はあ?」と言った。


「何言ってんの?」

「何って……逃げないと」


 今の俺では、ゴブリンの群れには勝てない。それがわかった。だから今は逃げるのだ。次に必ず、勝つために。

 しかしマオは、俺の言葉に決して納得しなかった。


「お前は勇者でしょ? 勇者がゴブリン相手に逃げ出したなんてことが知れたら、この国は大パニックになる。それはダメだよ」

「で、でも、勝てないからさ。ほら、伸び代? 勇者ってそういうもんだろ?」


 というか、今すぐにでも帰りたい。

 魔法で確かに傷は癒えた。しかし疲労は消えないし、失った血液のぶん、体がフラフラする。そして何より、痛みと恐怖が心に染み付いている。


 体は無事でも、心がもう戦えない。


「大丈夫。安心しなよ。俺がいる。何度でも治してやる。

 腕が取れようと、足が取れようと、首さえ繋がってれば、何度だって。

 ああ、それにもし死んでも、棺桶引きずって帰ってあげるから心配しないで。あいつら『ああ勇者よ、死んでしまうとは何事だ』とか皮肉言ってくるけど、金さえ払えれば、何度だって蘇生してくれる。

 お前は勇者なんだ、ユウイチ。勇者の周りには、常に最高の回復能力者がついているのもなのさ。これもまた、女神様のご加護って奴なのかね?」


 俺にはマオの表情は見えなかった。でも、絶対に笑っているのだと確信できる。マオは冷たい笑みを浮かべて、こう続けた。




 だって、ほら。勇者が負ける話なんて、聞いたことがないだろう?

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