[綾さんの家]
実家は、電車が時間上下二本づつ、バスが時間一本という、小さな町にある。そこは、山裾の坂道に張り付く様にできた、小さな集落だった。
子供の頃、集落の上にバイパスを通す話が出て、上部の通りにあった家の半分ほどが、ごっそり立ち退きにあった。その時取り壊されたから、今は記憶の中にしかないが、その中に一軒の廃屋があった。
”綾さんの家――”。
遊び仲間の誰かがそう言っていたので、誰もが特に疑問を抱くこともなく、そう呼んでいた。
その屋敷は
玄関には朽ちて破れかかった木戸がついている。上部と中ほどに大きな穴が開いているが、人が潜れるほどではない。左右の壁には窓があったが、田舎の事でガラスを破る様な不届き者もいなかったのか、薄汚れてはいたがしっかりはまっていた。
中を覗くと、家具や食器などがそのまま残されているのがわかった。
今であれば、吊るされていたカレンダーや、無造作に置かれた新聞の日付を読もうとするのだろうが、その頃はまだそんな頭は働かず、内装から、きっとその当時四十代半ばだった母が若い時分に建てられた家なのではないかと推察した。
その家は廃墟ながら、さほど不気味さもなく、裏口からさす光のきらきらとした輝きと、その下に覗く眩しいような緑と、ひっそりとした佇まいは、いつか中に入ってみたいと、そう思わせる何かがあった。
そんな私の感覚とは裏腹に、そこは、幽霊屋敷として知られていたらしい。
何かが出たという話ではなく、その家の持ち主の綾さん自身がそう思わせるだけの背景を持っていたのだと、今は思う。
大人になるまでは知らなかったのだが、その家に住んでいたのはさる地方の実業家の、二号さんだったのだそうだ。
子供はおらず、ひっそりと慎ましく暮らしていた、と。それだけはなんとか聞き出せた。何故なのかよく分からないが、綾さんの話を振ると、皆口元を引き結んで何とも言えない雰囲気になる。
いつしかその話が禁忌なのだと判り始めた。
皆の反応を考えると、綾さんは嫌われていたわけではなさそうだ。では何故、その存在がタブーとなっているのか。
もうあの建物はない。記憶を頼りに思い出すと、そういえば気になることがある。あの家は、なんだかまだ、誰かが住んでいそうな雰囲気だった。人が住まなくなった家はすぐ荒れるというが、確かに庭には草が生えていたし、家の裏側の戸も恐らく朽ちて落ちていたが、まだどこか人の匂いがした。
ではなぜ、あの家には誰かが居そうだと思ったのか。
思えば、あの部屋には物があり過ぎたのだ。そしてなにより、窓からすぐに見えた食卓の様子だ。流石に食べ物はなかったが、新聞の配置や椅子の角度など、誰かが座っていて、少し席を立った直後のような、そんな生々しさがあった。
なんらかで愛人関係が解消されたのなら、家具は置いていくにしろ、もう少しモノがなくなっているのではないだろうか。
では、綾さんはあの家で亡くなったのだろうか。二号さんならば、援助していた人物が居た筈である。部屋を片付けるくらいの事はしたのではないだろうか。その縁が切れていて、手切れ金として家を貰ったのか。
なんにせよ、あの家の最期について、皆が口を閉ざす意味が解らない。
家の敷地部分の一部は、まだ残っている。そこを通りかかる度、何となく思い出しては、首を捻る。
綾さんは、一体、どんな人生を送ったのだろうか。
だが、誰ともなくあの屋敷を幽霊屋敷と呼ぶ事実が、何かしら薄暗い過去を思わせるような、そんな気がした。
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