[アパート]

 会社が移転して、通勤時間が倍になった。

 最初は通えるだろうと思っていたが、直ぐに引っ越しを考えはじめ、結局ふた月ほどで不動産巡りを始める事になった。通勤が楽というのは思ったより重要なポイントだったようで、会社を辞めるか引っ越すか、という究極の二択が幾度か脳裏を過ぎった。近い、大事。

 結局。家賃の安さに惹かれて、とあるアパートに決めたのが先々週の事。即入居可だったので急いで荷造りをして、二階の二〇三号室に入居した。

 大方おおかたの荷ほどきを終え、買い出しに出ようと財布をもって階下に降りると、丁度夕暮れ時で、買い物帰りらしい、仲良く歩く母子と出くわした。会釈すると、向こうから声を掛けられる。

「新しく来られた方?」

「はい。二〇三に今日から…」

 正直コミュ障なので意味もなくへこへこしていると、三十過ぎくらいの母親はにっこり笑って頭を下げた。

「この通り、子供が居ますから五月蠅いでしょうが、宜しくお願いしますね」

「あああの、こちらこそ」

 へこへこと頭を下げながら、「コンビニに」なんて言い訳がましく言うと、向こうの方から「失礼しますね」と声を掛けられた。

 じっと黙って待っていた娘の方がこちらに手を振ってくれる。柄にもなく手を振りかえして、コンビニに急いだ。



 結局、その日あったのはその家族だけだった。隣の二〇二号室の住人はどうやら夜の仕事のようで、朝方帰ってきたが静かなものだった。

 問題は反対の隣、二〇四号室だ。

 引っ越しの日から二日は不在だったものとみえる。三日目からは酷かった。

 二十二時を過ぎたころからだろうか。急に大音量でテレビを見始めた。かと思うと、やたら高頻度で食器が割れるような音や風船が割れるような音がする。嫌がらせか何かか?全身の血液が下がっていくような感覚に、ふらつきながらも足音を忍ばせて二〇四と接する壁に近づいた。

 耳に付くお笑い芸人らしき笑い声、脈絡もなく乗っかってくる破裂音、時折聞こえる、唸り声、叫び声。

(安いと思ったんだよ…)

 大きな溜息を吐きながら絶望して頭を抱えた。



 翌朝には、耳栓を買うことに決めていた。

 もう引っ越し資金なんて残っていない。幸いなことに、二十三時になる前にテレビの音は急に消え、代わりに何か嗚咽のような声が聞こえ始めた。

 それはそれで気持ち悪かったが、時折すぐ側の壁をガン!と殴られることよりはいくらか心臓によかった。

 明らかに向こうの方が五月蠅いのに、こっちが壁ドンされるなんて…。思いつつ起きて支度をし、ゴミをもって部屋を出たら、丁度帰ってきた二〇二の女性と鉢合わせた。

「あ、おはようござい…ます」

 上から下までジロジロ見られて語尾が掠れていく。彼女は尚もジロジロ見た後、ふ、と笑った。

「見るからに冴えないね…ビンボーくじ引くわ、そりゃ」

 幾分崩れた化粧の下の肌年齢は推し量れないが、若いころはさぞかし指名も多かっただろうという美女ではあったが、その言葉には棘が多すぎる。しょぼん、と頭を垂れると、彼女はカカと笑った。

「危なかったらベランダきていーよ。どーせうち、夜いないからさ」

 彼女は一方的にそう言って室内に入って行った。

 強い香水の残り香で、寝不足の頭がクラクラ揺れる感じがした。



 隣の様子は日に日に悪くなる。何かの病気かもしれないし、告げ口したら逆上されそうだし、とぐるぐるしているうちに、呂律のまわっていない様な罵声が頻繁に聞こえるようになった。

 いつか二〇四の住人に会うのではとひやひやしていたのだが、今日までは幸運に恵まれた。それにしても早く引っ越したい。

 毎晩二十二時を過ぎた頃、スイッチが入ったように騒音が始まる。耳栓をして寝ることにも慣れてきていたが、その日はどうも様子が違った。

「お前らが死ぬか、俺が死ぬかだろうがァッ!おい!!!」

 絶叫。そして、地面を踏み鳴らすような音。あまりの事にびくっ、と大きく体を震わせた後は身じろぎもせず壁の方を凝視するしかない。息を殺して様子を窺う。尚も隣室からは壁を蹴るような音、地面を踏み鳴らすような音。そしてそこに被さるようにパンっ、という軽い破裂音が続いている。

 これ、もう流石に警察呼んだ方がいいのでは、と思いつつ、携帯が置いてある食卓の方をちらりと窺い見る。その瞬間だった。

「ッッテエエエエエ!!!」

 絶叫。痛みを訴える声なのは判ったが、直後に始まった嵐のような罵倒は聞き取れない。

「ぶっ殺してやる!ガキだって許さねえ!ぶっ殺してやるっ!!!」

 最早アパートじゅうに聞こえるかという様な叫びに、思わず自分の肩を抱きながら歯を食いしばる。直後、隣室のドアがバンッと開け放たれた。

 腰が抜けたようになったが、直後ふと思い当たる。

 ガキ?もしかして、狙われているのは、

 なけなしの勇気を振り絞って携帯を持ち、足音を忍ばせてドアスコープを覗く。外には誰もいない。よし、腕力はなくても、通報くらいできるかもしれない。と思った瞬間だった。

 ピーンポーン――。

 全身の血が凍りつく。今、スコープの外には、誰もいなかった。

 ピーンポーン――。

 再びチャイムが鳴る。上半身をゆらりと動かし、スコープに目を近づける。人影はない。けれど…。

「お兄ちゃん…!助けて!!中に入れて!お母さんが!お母さんが!!」

 泣き叫ぶ女の子の声はドアのすぐ傍から聞こえる。

 なのに、

 息を殺して、歯を食いしばって、震えながら立つ。宛がった右目を酷使して、外を見ようとする。

「居るんでしょ?!お兄ちゃん!!今ユウカ一人なの!中に入れて!!おじさんきたら、きっとユウカ殺されちゃうよぉ…」

 最後はしくしくと泣き始める少女の姿はやはり見えない。冷たい汗が背中を伝う。身動きが取れずどのくらいそのままでいただろうか。不意に、靴音が聞こえ始めた。ぞっ、と背筋が冷える。

「お兄ちゃん!開けて!お兄ちゃん!おにいちゃああああ!!!ああああああけえええええええろおおおおおおおおお」

 ガン!ガン!!ガン!!ガン!!

 目の前の戸が激しく打ち据えられ始めても、その姿は見えない。声も出ずにいたら、不意に隣室の女性がスコープの端に映った。

「チッ」

 最後に、低い舌打ちが聞こえた。

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