2016年10月8日 町家喫茶卯辰開店

「お待たせいたしました。町家喫茶卯辰、ただいまから営業を開始いたします」


 晴れやかな笑みを満面に浮かべて空海は挨拶した。湧き起こる拍手と歓声。町家の前だけでなく卯辰神社の境内までも詰めかけた人々で溢れかえっている。


「それでは順番にお入りください」


 スタッフの明るい声に導かれ、開店前からできていた人々の列が動き出した。空海も入り口に立ち一人一人に挨拶をする。観光客、地元の人、そして知り合いの顔も見える。今日のために予約を入れて来店してくれた人たちだ。


「クミ、薄紫の着物が似合っているじゃない。茶屋街で芸妓さんとして働いてみたら」


 人々の流れが途切れたところで、お客でもスタッフでもない椎子がいつもの軽口を叩いた。空海はにっこり笑うと椎子の横に立って、開店したばかりの町家を誇らしげに見上げた。

 外装はほとんど変えていない。昔ながらの落ち着いた佇まいだ。入り口に揺れる藤色の暖簾には「卯辰」の文字。左には屋号の入った掛け行灯あんどん。そして玄関前に所狭しと置かれた沢山の祝い花。


「ようやく夢が叶ったね、クミ」

「ええ。でも私ひとりだけの力ではないわ。みんなが知恵と才能と励ましを私にくれたから、夢を叶えることができたのよ」


 この町家を見出してから今日の日を迎えるまで一年以上の月日を費やした。辛いことも投げ出したくなることもあったが、今となってはただ懐かしいだけだ。


「そのの中には当然あたしも含まれているのよね」

「もちろん。そしてあの人も……」

「あの人?」


 空海は答えない。答えずに町家の戸を開けている。


「ちょっと、教えなさいよ」


 椎子の言葉だけを外に残して空海は店の中へ入っていった。


 開店初日とあって、来客は途切れることがなかった。そのほとんどは予約客だ。空海も店に立ち、スタッフと共に接客に当たった。

 午前は瞬くうちに過ぎていった。昼食をとる間もなく昼が過ぎ、ようやく客足が減り始めた頃には銭湯が店を開ける時刻になっていた。空海は三階へ上がるとスタッフと一緒に軽い食事をとった。


「あの、オーナー、訊いてもいいですか」

「どうぞ」

「二階の座敷席、ひとつだけずっと空けていますよね。飛び込みのひとり客が来ても断っているし、何か理由があるんですか」

「それは……」


 言いかけて空海は立ち上がった。窓の外に人影が見えたのだ。卯辰神社の鳥居の横にある逆さ狛犬。それを見上げて立っている中年の男性。


「ごめんなさい、ちょっと席を外すわ」


 空海は足早に階段を駆け下りた。外へ出て鳥居に近付く。男は一瞬驚いた顔をした。が、すぐに帽子をとって挨拶をした。


「久しぶりだね、クミさん。あなたは変わらないな。最後に別れた時と同じ姿だ」


 低くしわがれた声、白いものが混じる頭髪、目立ち始めた顔の皺。年を取っているが空海にはそれが誰か分かっていた。沢田だ。


「ようこそ、タク、いえ、沢田さん。来てくれると思っていました。こんな所で何をしているのですか」

「あれだよ」


 沢田が指差したのは逆さ狛犬の足に結ばれている紐だ。


「二十五年前、私が結んだ紐はどうなっているかと思ってね。あなたからお守りを返してもらった後も、おまじないの紐はそのままにしておいたんだ。今もまだ結ばれているけど、それにしては妙に真新しい……」

「そうね。あれはあなたの紐ではなく私の紐だから」

「クミさんの?」


 沢田の驚く顔を愉快そうに眺めながら空海は話した。


「あなたの紐は切れてしまったわ。私が初めてこの神社に来た時にはもうボロボロだった。手を伸ばして触ったという感覚もないうちに、切れて落ちてしまったの。でも、それが切っ掛けで私はこの町家を喫茶店にしようと決心した。そして町家の床下からあのお守りを見付けた。最初に紐を切った者をあなたへの使者にしよう、お守りはそう考えていたのではないのかしら」

「そうだったのか。紐のおかげでお守りが見付かったのだとしたら、佐藤さんが教えてくれたおまじないも、それなりに効果があったわけだな。でも、どうして新しく結び直したりしたんだい」

走人はしりびと足止め祈願って知っている? 二本の紐を用意して、一本を狛犬の足に結び、もう一本を行方の知れない人の靴に結ぶ。そうすると靴の持ち主が戻って来てくれるのよ。あなたの靴はなかったけれど、私が交換したボロボロのお守り袋はまだ残っていた。ほら」


 空海は着物の帯に手を入れると、擦り切れて汚れた小袋を取り出した。狛犬と同じ紐が結ばれている。沢田はそれを受け取った。物心着いてから紛失するまで肌身離さず持ち続けていたお守り袋だ。


「あなたの願いが叶って私はここに戻ってきたというわけか。霊験あらたかな狛犬だな」


 沢田は狛犬を見上げた。お守りを失くした時、藁にもすがる気持ちで紐を結び付けた、あの時と同じ姿で狛犬は後足を天に蹴り上げている。


「さあ、お店に入ってくださいな。町家もあなたが帰ってくるのを待っていたのですよ」


 空海に促されて沢田は町家に入った。スタッフの「いらっしゃいませ」という明るい声が響く。

 玄関に立った沢田は懐かしさと同時に寂しさを感じていた。かつての下宿屋の面影はほとんど残っていなかった。


「変わったな」


 小物が飾られた棚、レジ、厨房、一列に並ぶテーブル席、談笑する品の良さそうな客人たち……それは観光地でよく見掛ける、あり触れた和風喫茶の光景でしかなかった。


「注文してくださいな」


 メニューを見せられた沢田はシンプルなパンケーキとブレンドティーを頼んだ。そのまま空いている席に座ろうとすると、

「二階に上がってください」

 と空海が言う。

 脱いだ靴を持って階段を上がり、下駄箱に入れて座敷に向かう。沢田の口から声が漏れた。


「ここは……」


 「店舗」を感じさせるものが少ないせいだろう、一階の光景とは別物に見えた。そこには昔のままの空間があった。いや、むしろ沢田が住んでいた時よりも今のほうが古臭さを感じさせる。


「一階もそうだったけど、はりせ天井はいいアイディアだね。下に敷かれた畳、それを取り巻く壁、時を遡ったような気分になる」

「気に入ってもらえましたか。お席を取ってあります。そちらへどうぞ」


 空海はそれだけを言うと一階へ下りて行った。他の客はいない。沢田は座布団に腰を下ろそうともせずに、かつての自分の部屋を見回した。懐かしかった。壁も窓も床板も全てに見覚えがある。ほとんど当時のままの姿形で残っている。


「私が戻って来るのを待っていてくれたのか、タク……」


 二十五年前、ここで飯を炊いて食べ、コタツの中で身を丸め、目覚ましに叩き起こされ、白い息を吐きながら読書し、そしてお守りを渡して消えていく空海を掴もうと腕を伸ばした、あの時の自分がまだここに息づいているような気がした。


「どうぞ」


 空海が盆を持って二階に上がってきた。座布団に座った沢田の前にポットと空のカップが置かれる。


「橋の上で教えていただいた沢田さんの提案、採用させていただきました」

「提案?」


 沢田には覚えがなかった。が、橋の上でメニューの相談を受けた時のことだとすぐ気付いた。


「あんな大昔の話をまだ覚えていたのか。参ったなあ」

「あなたにとっては大昔でも、私にとってはたった一年前の話。覚えていて当然でしょう」

「そうでしたな、ははは」


 沢田は愉快そうに笑うと、ポットの紅茶をカップに注いで飲んだ。爽やかな香りが鼻に抜ける。


「う~ん、正直なところ、これでもまだ小さいかな。もっと大きなポットを期待していたはずだよ、二十五年前の私は」

「そう言われると思って、沢田さんには特別にお代わり自由のサービスをお付けしてあります。心行くまで飲んでくださいな」

「いやいや、あくまで二十五年前の私だよ。今はこのポットのお茶を飲み切るのさえしんどい」


 若い頃は鯨飲馬食が自慢だった沢田も、今ではすっかり食が細くなっている。安く沢山食べたい、そう思えるのは若さゆえなのだろうなと、この歳になって思う。


「お待たせしました」


 別のスタッフがパンケーキを持ってきた。見るからにふわふわのパンケーキが三枚、ブルーベリーソースを添えて皿の上に乗せられている。ナイフを入れると柔らかすぎて、ほとんど力を入れずに切れてしまう。ソースを絡めて口に運ぶ。沢田はふっとため息をついた。


「お気に召しましたか」

「うん、美味しいよ。昔の私なら涙を流して喜んだだろうね。でも今の私は……」


 沢田は手に持った食器を置いた。その目はここではない、どこか遠くを見詰めているようだった。


「この街に来たばかりの時は本当に金がなかった。寮の売店で売られている一袋十円の耳パンを食事代わりに齧っていたものだよ。時々白い耳パンの中に黒糖や小麦胚芽の耳パンが混ざっていたりすると、それだけで大喜びしたものさ」


 学生時代の沢田が経済的に貧窮していたことは空海も薄々気付いていた。よれよれのジャンパー、自分で刈っていると思われる頭髪。そして最後に見せてもらった散らかり放題の下宿の部屋。あの頃の沢田にとって、今、目の前にあるパンケーキは夢のまた夢のような存在でしかなかっただろう。


「新聞配達を始めてようやく人並みの食生活を送れるようになった。この下宿に初めて来た時、大家さんは食パンと砂糖湯を出してくれた。一目見て粗末だと感じた。でもお守りから聞こえる父の声に諭されて大家さんの持て成しの心を知り、それを口にした。美味しかったよ。お婆さんと一緒に食べると、砂糖湯に浸した食パンでも本当に美味しく感じられた。そして私は今、こんな立派なパンケーキを食べている」

「それだけ沢田さんも立派になった、と考えればよろしいのではないですか。遠慮せずに召し上がってください」

「立派か……」


 沢田のその言葉には軽蔑に似た響きが籠っていた。自嘲めいた笑みを口元に浮かべて沢田は話を続ける。


「耳パンとお茶、食パンと砂糖湯、そして目の前にあるパンケーキとブレンドティー。そう、あの頃に比べれば確かに立派になった。こんなものを平気で口にできるくらいの金は持てるようになった。でも、それは見掛けだけ。心の中は少しも立派じゃない。こんな素晴らしい料理を口にしても私の心は以前のような喜びを感じてくれない。昔の私のほうがよほど立派だった。黒糖の耳パンを見付けた時の喜び。お婆さんと一緒に食パンを食べた時の喜び。素直に喜べたあの頃の私は、二十五年前に置き去りにされたままなんだ。変わってしまったのは町家だけじゃない。私自身も変わってしまったんだ」


 空海は思い出していた。自転車を押して歩いていく後姿。何でも正直に言葉にする照れくさそうな声。怒りを露わにして上気している頬。そして自分を引き留めようと伸ばされた手。あの頃の面影は今でもまだ残っている。しかし二十五年はあまりにも長すぎた。外見だけでなく内面にまで、沢田の老いは着実に忍び込んでいる。


「ごゆっくりなさってください」


 空海は席を立った。あの頃から少しも変わっていない自分の姿を、これ以上沢田に見せるのは辛かった。あの時代に残したりせず一緒にこの時代へ連れてきてあげたかった、それが無理な願いだと分かっていても……

 空海は下駄箱の前で後ろを振り向いた。あの日、自分を捕まえようと腕を伸ばしていた沢田は、今、こちらに背を向けて静かにパンケーキを食べていた。

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