それぞれの岸辺へ

「ありがとうございました」


 二階から下りてきた沢田にスタッフが声を掛けた。先ほど見せていた落ち込んだ様子はない。ここへ来た時と変わらぬ明るさを取り戻している。


「はい、どうも。ところでクミさん」


 釣りを受け取った沢田はレジの横に立っている空海に話し掛けた。


「その、もしよろしけば、少し付き合ってくれませんか。梅の橋の辺りまでで結構ですから」


 照れくさそうに話す姿は、互いの誤解を解くために神社に誘った二十五年前とそっくりだ。言い知れぬ懐かしさが空海の胸中に広がった。


「初詣デートは逆のコースですね。ご一緒させてください。ごめんなさい、すぐ戻るわ」


 スタッフに声を掛けて空海は外へ出た。二人が向かう西の空は赤く色づき始めている。ひがし茶屋街にある店の閉店時刻はほとんどが午後五時から六時。観光客で賑わっていたこの界隈が普通の住宅街に戻る時刻だ。人通りの絶えた小路を二人は並んで歩く。


「父のお守りがどうしてあれほど私の元へ戻りたかったか、クミさんの名刺を見てすぐに分かったよ」


 沢田は歩きながら透明な樹脂の板を取り出した。間に挟まれているのは薄汚れた名刺。そして名刺の裏には「二〇一六年十月八日町家喫茶卯辰開店」とメモ書きされている。


「このメモのおかげで私は命を救われたんだ。橋の上で初めて私から話し掛けた時、あなたは二十年前の大震災の話をした。そして町家喫茶は来年開店するとも話した。来年が二〇一六年……もしやクミさんは未来から、二〇一五年から来たのではないか。もしそうなら不可解な話も、待ち合わせに来なかったことも全ての辻褄が合う。あなたが去った後、私はそう考えるようになった」


 メモだけでなく口で真実を話すべきだったのではないか……それはあの日から今日まで空海がずっと抱いていた懸念でもあった。だが、あの状況でそんなSFじみた話をしたところで、沢田に信じてもらえるとは思えなかった。それどころか橋の上で見せたような怒りを買い、再び嘘つきと罵られる恐れさえあった。最低限の情報を与え、後は沢田の判断に委ねよう、空海はそう考えてメモ書きを残したのだ。


「けれども私はまだ疑心暗鬼だった。金沢を去り兵庫の会社に就職してもまだ確信は持てなかった。私は何度も父のお守りに問い掛けた。しかしあなたに会って以降、お守りは完全に沈黙していた。やがて私はあなたが言っていた大震災という言葉を思い出した。二〇一五年が二十年目に当たるなら、一九九五年の一月十七日に地震が起きる。あなたが本当に未来から来たのなら、それが現実になるはず。私はその日年休を取り、母を連れて東京へ行った。もちろん親しい友人や親せきにもなるべく兵庫を離れるよう遠回しに勧めた。何の根拠もない話である以上、それが私にできる限界だった。そしてその結果はご覧の通りだ。あまりの被害の大きさに私は愕然となった。こうなることを知っていた、その気になれば救える命もあった。なのに私は救わなかった。それは私の心に大きな影を落とした。同時に父の意思にもようやく気付けたんだ。これを見てくれないか」


 沢田はお守り袋からステンレスの板を取り出した。真っ二つに折れている。


「大震災のあった日、父のお守りは折れてしまった。まるで私の無事を見届けて満足したかのようだった。きっと私には別の運命があったんだと思う。私が紛失した後も、このお守りは町家の床下でずっと私を見ていたんだ。お守りをなくしたまま大震災に巻き込まれ命を落とした私の姿も。そんな私を何としても救いたかった、だからその役目をあなたに託した。残されている全ての力を使って、あなたを二十四年前へ、私がお守りを失くした一九九一年へ送り、私の命を救おうとしたんだ」


「そうね。私も最初は何も分からなかった。全てを悟ったのはあなたの部屋で新聞を目にした時。あの時、ようやくお父様の願いが分かったの。だから名刺の裏にメモを残した。あなたに気付いてもらうために。そしてもう一度ここへ会いに来てもらうために」


 話しながら歩く二人の姿を西日が赤く照らす。小路を抜け、梅の橋の階段を上がり、橋の中央に来たところで二人は止まった。


「礼を言わせてもらうよ。クミさんは私の命の恩人だ」

「礼を言うのは私へではなく、あなたのお父様へでしょう」

「いいや、やはり一番の恩人はクミさんだよ。大震災の後、私は全てを失った。実家も会社も倒壊し、ショックを受けた母は一年もしないうちに他界してしまった。あの頃の私は酷いものだった。これまでの人生で一番すさんでいただろうな。自暴自棄になって全てを憎んでいた。社会や世の中だけでなく、知っていたのに何もしようとしなかった自分自身をも憎んでいた」


 沢田はもう一度樹脂の板を取り出した。これ以上名刺が劣化しないように特別に手作りしたものだ。透明な二枚のアクリル板の間に色褪せた名刺が丁寧に挟んである。


「父のお守りは折れ、母は亡くなり、職場も無くなった。何もかも失ってしまった私に残されたのはこの名刺だけだった。あなたの残してくれたメモ書き、二〇一六年十月八日。その時まで私は生き続けたいと思った。このメモを残したあなたに必ず会いたいと思った。あなたに会っても恥ずかしくないような人間でいたいと思った。その想いだけに縋って私は今日まで生きてきた」

「そして今日、その想いは叶えられたのですね」

「胸を張って自慢できるような生き方ではなかったよ。それでも人並みの収入で人並みの生活をしている。人嫌いのせいで未だに独り身だけどね」


 沢田は橋の上から懐かしい風景を眺めた。来ようと思えばここに来ることはできた。だが、今日の日のために敢えてこの地を訪れようとはしなかった。二十五年ぶりに見る浅野川の流れは昔と少しも変わらない。そして自分の前に立つ空海もまた、あの日と同じ姿だ。


「ひとつ訊いてもいいかな。クミさんはいつもあのお守りを身に着けていたのかい」


 空海が頷く。


「それなら、もし私が紛失する前にそのお守りを私に渡したら、どうなっていたのだろう。私は二個のお守りを持つことになったのかな」

「それはあり得ないわ。私も最初は気付かなかったけれど、あなたに会う時、私のお守りは消えていたの。覚えていない? あなたに見せようとして上着やバッグを探していた私の姿。あれは消えてしまった私のお守りを探していたのよ」

「ああ、そう言えば……」


 沢田は思い出した。激しく言い合いをしている最中、確かに空海は何かを探していた。あれはお守りを探していたのだ。


「すると私が町家の床下に落としてしまったお守りは、あなたが私にお守りを手渡した時に……」

「消滅してしまったのだと思うわ。あるいは二つのお守りが一つになったか。いずれにしてもその瞬間、大震災で命を落とすあなたは消え、こうして私に会いに来るあなたになったのよ」

「そうか。いや、これでスッキリした。ずっと考え続けていたんだ」


 二十五年越しの謎が解けて、沢田はようやく心の重荷を下ろせたような気がした。安堵する沢田の姿を見て空海も明るい顔になる。


「ねえ、今度はこちらから訊いてもいいかしら」

「どうぞ」

「あなたは町家を改修して喫茶店にすることをずっと反対していた。今日、実際に訪れてみても、その考えは変わらない?」

「もちろん変わらない。町家はあるべき姿のままで愛でるのが一番だ」


 即答されて空海は可笑しくなった。頑固なところは昔のままだ。


「でも、それはあなたの我儘だわ」

「我儘? どうして?」

「だって、あなたは自分で言ったでしょう。変わったのは町家だけでなく自分自身もだって。自分が変わっておきながら町家には変わって欲しくないなんて、それは我儘ってものよ」

「あっ……」


 沢田は口を開けたまま絶句した。そして笑い出した。空海も笑う。


「ははは、切り返しの鋭さは変わらないな。クミさんには永遠に勝てそうな気がしないよ」

「ふふふ、いつでもお相手しますわ。遠慮なく挑んできてください」


 懐かしい笑顔だ、と沢田は思った。二十五年前、寝不足と疲労で空海に対して酷い言葉を吐いた数日後、自分の言葉を使って見事に反論された、あの時と同じ笑顔だ。


「変わったのは町家やあなただけではないわ。みんな変わっていく。私だってあの頃のままではない。でも、それは自分が望んだ変わり方だから少しの不満もない。沢田さんだってそうよ。今の姿に不満があるのならどんな風にも変えていけるはず。町家は人の手を借りなければ変われないけれど、人は自分の力だけで変われるのですもの」


「クミ、いつまで油を売っているつもり!」


 橋のたもとで女性が叫んでいる。椎子だ。


「すぐ戻るわ。心配しないで、シーコ」

「またあの時みたいに二時間行方不明なんてよしてちょうだいね。早く戻って来てよ」


 お邪魔だと思ったのか、文句はほどほどにして椎子が小路に消えていく。沢田は尋ねた。


「今の女性、ひょっとするとランチの約束をした時、駅前で一緒に待っていたとかいう友人なのでは」

「はい。あの時、あなたがちっとも姿を現わさないので、彼女、怒って先に帰ってしまったのよ」

「それは気の毒なことをした。あの人もお守りと私について知っているのかね」

「いいえ。真実を話しても信じてもらえないでしょうから。彼女には『結局お守りは警察に届けた』とだけ話しました。持ち主が現れても現れなくても連絡不要の扱いにしたので、その後どうなったのか不明、ということになっています」


 ふと、何かに気が付いたように空海は袖に手をやった。腕時計を見ている。


「ごめんなさい。大切なお客様がいらっしゃる時間だわ。私はこれで失礼します」

「ああ、今日はありがとう。私たちの物語はこの橋から始まった。物語を終えるのもこの橋にしよう」


 沢田が右手を差し出す。空海がそれを握る。


「今度こそ本当のお別れね。さようなら、タク君」

「さようなら、クミさん」


 手を離した空海が右岸に歩いて行く。何もかも逆だと沢田は思った。あの時は空海が年上で自分が年下だった。そして別れる時は歩いて行く沢田をいつも空海が見送っていた。


「それが二十五年の歳月なのか……」


 高欄に手をついて浅野川を見る。この風景だけは変わらない、沢田はそう思っていた。だが違うのだ。変わらないものなどない。同じに見える川の流れは常に変わり続けている。遠くに霞む山々も、その背後にある空も、二度と同じ姿を見せはしない。自分が同じ姿ではいられないように。


「まだまだ自分は変えられる。後ろではなく前を見て歩かなくては」


 沢田は空海が消えた東山の町並みを眺めた。再び足を踏み入れることはないだろう。その地は沢田にとっての後ろなのだから。


「仏道とは彼岸と此岸をつなぐ道。迷いを捨てて進まれよ」


 生きている限り二度と彼岸には戻らない。精一杯の自分を此岸で生かし続けよう……沢田は高欄を離れると、沈む夕日を追い掛けるように橋の上を歩き始めた。

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