託された使命
空海は沢田の後に付いて小路を歩いていた。知っているのに知っていない、覚えているのに覚えていない、微妙に何かがズレた感覚。沢田と会う時にはいつも襲われていた違和感が、今は自分だけでなく小路全体を覆っている。
「あの、大丈夫ですか。なんだか気分が悪そうみたいですけど」
沢田が尋ねた。橋を下りてから空海の様子がおかしいのだ。いつも真っ直ぐな目をしているのに、今の空海の視線は落ち着きなく宙を彷徨っている。ここにはない何かを探しているように見える。
「平気。でも、ゆっくり歩いて」
「あ、はい」
二人は一歩一歩雪道を踏みしめて歩いた。やがて空海は自分を取り巻く空間の正体がおぼろげに分かってきた。遠景は見覚えがある。これまで自分が見てきた風景だ。しかし近景、自分から半径数十mの円内の風景は、記憶にあるそれとは微妙に異なっているのだ。
暗闇の舞台上でスポットライトが動くと、照明が当たったものは見えるようになり、照明から外れたものは見えなくなる。それと同じように空海の動きに同調して近景の風景も変わっていくのだ。
(きっと橋の上にいた時も私の周囲数十mの風景は変わっていたのだわ。でもその範囲にあるのは橋と川だけ。建物がなかったから気付けなかったのね)
何が起きているのか少しだけ理解できて空海はひとまず安心した。たがまだその理由が分からない。手掛かりはお守りだ。考えてみれば橋の上で沢田を見掛けるようになったのは、帯に挟んでいるお守りを町家で見付けた時からだ。それまでは一度も沢田に会ったことはない。
「ねえ、タク君、新聞配達を始めたのはいつ? 最近のこと?」
「いいえ。大学一年の初冬からずっと続けています。もう三年になりますね」
「販売所へ通う時はいつも梅の橋を渡るの?」
「はい。あの橋が好きで大学へ行く時も通っています。最近は通っていませんでしたけど」
空海は半年前から早朝の散歩を続けている。ならば沢田とも半年前から会っているはずだ。だが彼の姿を見掛けるようになったのは十一月頃、お守りを手にした頃からだ。
(間違いないわ。このお守りが私たち二人を引き合わせたのだわ)
「神社が見えてきましたよ」
沢田が指差す先には卯辰神社の鳥居が立っている。手前に小さな鳥居、その先に大きな鳥居。二人は大きな鳥居の前に立ち、社殿に向かってお辞儀をした。
「せっかくだからお参りしていきましょう」
空海に言われて沢田も鳥居をくぐる。神社の目の前に住んでいながらこれまで初詣など一度もしたことがない。神社や仏閣は好きだが神も仏も信じていないのだから仕方がない。
竜神様の手水舎で身を清め、空海の真似をして参拝をする。簡単な動作に過ぎないが心の埃が払われたような気分になる。再び鳥居へ向かうと空海が声を上げた。
「あら、あの狛犬の足、紐が結んであるわね」
空海は逆さ狛犬に近付くと結ばれている紐に手を伸ばした。慌てて沢田が引き留める。
「クミさん、待ってください。その紐を解かないでください」
空海は伸ばしていた手を引っ込め、怪訝な顔で沢田を見た。
「どうして? 何か理由があるの」
「その紐を結んだのはボクなんです」
悪戯がばれた子供のような顔をして沢田が言った。佐藤の言葉「狛犬の足を括ると失せ物が出る」最初はただの迷信だと思って気にも留めなかった。しかし苦しい時の神頼み、どんなに探しても見付からない焦りから、沢田はその迷信にもすがってしまったのだ。
「狛犬の足を括ると失くした物が見付かるって教えてもらって、おまじないのつもりで結んでみたんです」
「そうなの」
空海は結ばれている紐を見た。見覚えがある。初めてこの神社へ来た時、逆さ狛犬の足に結び付けられていた紐。触れた瞬間に解けて落ちた古びた紐。この紐は真新しくしっかりしているがあの時の紐によく似ている。
「タク君、今、失くし物って言ったわよね。何を失くしたの」
「お守りです。父の形見なんです」
空海の頭で何かが弾けた。これまで断片的でしかなかった手掛かり。それが今、繋がり始めようとしている。
「つまり今、タク君はお守りを持っていないのね」
「はい」
念を押された沢田は首を傾げた。失くしたと言っているのだから持っていないに決まっている。やはり今日の空海はどこかおかしい。
「私と橋の上で会った時には必ず持っていたの?」
「はい。命の次に大切なお守りですから、肌身離さず持っていました」
「この前、橋の上で言い合った時も持っていたのね」
「はい」
空海は考えた。お守りの消滅を確認したのは前回だけだが、恐らく自分のお守りは沢田に会うたびに消えていたに違いない。だが今は消えていない。沢田と会っているのにどうして今回だけ消えないのか。
(今のこの子はお守りを持っていないからだわ。二人が会う時、その空間には常にひとつのお守りしか存在できない、そう考えるしかない……)
「タク君、それってどんなお守り? 特徴は?」
「ボクが生まれた時に父が手作りしたものらしいんです。材質はステレンスで表面にボクの名前が彫ってあります。あ、それから言いにくいんですけど、お守りと一緒にクミさんの名刺を袋に入れてあったので、それも失くしてしまいました。四月から社会人なのに名刺を紛失してしまうなんて、まだ学生気分が抜けないみたいです。すみません」
空海は帯の上からお守りに触れた。やはりこれは沢田の失くしたお守りに間違いない。だが、ひとつ腑に落ちない点がある。名刺だ。沢田に名刺を渡したのは先月。しかしお守りを町家から見つけたのは数カ月前。時間的に辻褄が合わない。それに名刺は数カ月前のものとは思えぬほどに劣化していた。この謎だけはどうしても分からない。
(空海さん、さっきから何を考えているんだろう)
黙ったままじっと動かない空海を見て、沢田は少し心配になってきた。明らかに様子がいつもとは違う。それにどうしてこれほどまでにお守りにこだわるのかも分からない。沢田は空海の顔色を伺いながら恐る恐る尋ねた。
「えっと、それでクミさん。ボクが住んでいるのはあの町家なんですけど、クミさんの言っている町家もそうなんですか。それとも違うんですか」
「見せて」
「えっ?」
「町家の中を見せてちょうだい」
沢田に訊かれる前から二人の意味する町家が同一であることは分かっていた。ただ、今、目の前にある町家はこれまで空海が見てきた町家とは違っている。玄関前に置かれている自転車、湯気で曇った一階の窓ガラス、二階の窓から透けて見える本棚。沢田の言葉通りここは下宿なのだろう。中に入ってそれを確信したい、空海はそう思った。
「分かりました。納得できるまで存分に見てください」
二人は境内を出て町家の中へ入った。空海は玄関に立ち、屋内をぐるりと見回した。大人しく寝そべっている足元の犬。ガラス戸の向こうに見える老夫婦。毎日踏みつけられている床板、階段。灯りがぶら下がった天井。ここには人の息吹がある。自分が知っている町家とは違う生きている町家だ。
「どうですか」
頃合いを見て沢田が訊いた。空海はまだ満足していない。
「タク君はどこに住んでいるの?」
「ボクは二階の南側の部屋です」
「そこも見せて」
「えっ!」
空海の言葉は完全に沢田の想定外だった。この三年間、自分の部屋へ他人が足を踏み入れたことは一度もない。当然ながら散らかり放題だ。そもそも五畳しかない部屋に勉強机とコタツが置いてあるのだ。片付けようがない。
「えっと、とても人様にお見せできるような場所ではないのですが」
「それなら私が掃除してあげるわ。さあ、行きましょう」
「あ、待って」
靴を脱いだ空海は、沢田の制止を無視してさっさっと階段を登り始めた。まるでここは我が家だとでも言わんばかりの態度だ。沢田は急いで階段を駆け登り、空海を追い抜いて自室の戸の前へ行くと、鍵を開けて空海に言った。
「ちょっとだけ待ってください。見苦しくない程度に整理整頓しますから」
戸を閉めて部屋に入る。脱ぎっ放しの衣服を強引に物入れへ押し込み、無造作に置かれている本を本棚へ戻し、散らかったゴミを袋に詰める。
「どうぞ」
沢田に招かれて空海は部屋へ入った。手が届きそうなくらい低い天井と横に並んだ五枚の畳。そして部屋の隅に積まれている新聞紙。
「ずいぶん溜め込んだわね、新聞紙」
「年末にちり紙交換に出すのを忘れてしまって。卒業までには整理します」
空海は近付いて新聞を手に取った。知らない広告が載っている。知らない記事が紙面を埋めている。日付を見る。一九九二年一月一日。
「一九九二年……」
幻を見ているのかと空海は思った。いや、ここにいること自体が幻なのではないかと思った。が、自分は確かにここにいて新聞を読んでいる、二十四年前の新聞を。そしてそれが現実なのだとしたら、これまでの全てが説明できる。
「ふふふ……」
空海の口から笑い声が漏れた。可笑しくて仕方がなかった。沢田と会う時にはいつも自転車の前カゴに朝刊が入っていた。それを見れば何が起きていたか簡単に気付けたのだ。なんて遠回りをしてしまったのだろう。
「そう、そうだったのね。ここは二十四年前の町家。話が合わなくて当たり前だわ。待ち人が来るはずがないわ。電話が繋がらなくて当然だわ。生きている時代が違うのですもの。ふふふふ」
「クミさん、どうかしたんですか」
新聞を持ったまま笑い出した空海を見て、一瞬彼女の気が触れたのかと沢田は思った。それくらい空海の様子は尋常ではなかった。だがそうではなかった。
空海はようやく全てを理解したのだ。沢田が失くした父のお守り。持ち主の手を離れてから二十四年間、再び沢田の元へ戻ることを願い続けて、このお守りは町家の床下で静かに待ち続けていたのだ。
「分かったわ。すべてが理解できた。どうしてこのお守りがこの時代に私を送り込んだのか。タク君、あなたを守りたかったのよ。このお守りはあなたのお父さんそのもの。あなたに対するお父さんの想いがこんな奇跡を生んだのよ。そうだわ、ちょっと待って」
空海は部屋の外へ出た。沢田に背を向けて何かをしている。言葉を掛けることもできず突っ立ったまま待つしかない沢田。やがて空海はこちらを向いた。手には小さな袋を持っている。
「クミさん、その袋は何ですか」
「これでしょう、あなたが失くしたお守り」
空海が袋の口を開けてステンレスの板を取り出した。沢田の目が大きく見開かれた。両手が自然に空海へと伸びていく。
「そうです、それです。クミさんが見付けてくれたんですか、どこにあったんですか。いつ見付けたんですか。あっ、でもどうして袋が違うんですか」
「ごめんなさい。袋はボロボロだったから新しいのと交換したの」
「ボロボロ?」
人に踏まれたり車に轢かれたりしたのだろうか。ならば下宿ではなく街の中で失くしたことになる。よく見付かったものだ。沢田は感激のあまり涙が出そうになった。
「ありがとうございます。ありがとうございます。どれだけお礼を言っても言い足りないくらいです。お守りに書かれているボクの名前を見て、お正月にもかかわらず、わざわざ持ってきてくれたんですね。橋の上であんなに酷いことを言ったボクなんかのために、本当に、なんてお礼を言えばいいのか……」
沢田は言葉を詰まらせた。その姿を見て彼がどれだけこのお守りを大切にしていたか、空海にはよく理解できた。
「ううん、これをここに届けたのは私の力ではないわ。あなたのお父さんの力。私はそのお使いをしただけのこと。さあ、受け取って」
空海が差し出したお守り袋を沢田は両手でしっかりと握り締めた。
「二度と失くしてはだめよ。大切にしてね」
「はい。お守りに誓って!」
空海が微笑んだ。その手が沢田から離れた。滑るように部屋を出て、昼でも薄暗い廊下を、一歩一歩、後ずさりしていく。
「あなたにお守りを返す、私の役目は終わったわ。タク君、今のあなたはもう私には会えない。今のあなたと今の私が言葉を交わせる時は二度とやって来ない。でも、それはお別れではないわ、だからさよならは言わない」
「えっ、クミさん、何を言って……」
沢田はその先の言葉を続けられなかった。空海の姿が徐々に薄れ始めたからだ。
「クミさん!」
沢田は駆け寄って腕を掴もうとした。が、できなかった。まるで気化した冷却材のように手応えがない。
「言ったでしょう。私の役目は終わったの。お守りを手放した私は二度とここには来られない。でも、忘れないで。いつか必ずもう一度、私たちは会える。その時まで私を、この町家を、忘れないでいて……」
「クミさんっ!」
沢田が叫び終わった時、目の前には見慣れた廊下だけがあった。先ほどまでそこに立っていた清楚な和服姿の女性は、町家の薄闇に飲まれるように消えてしまった。
「夢でも見ていたんだろうか。考えてみればクミさんがボクの部屋なんかに来るわけがない」
しかしその考えは即座に否定しなければならなかった。沢田の右手にはしっかりとお守り袋が握られていたからだ。紛失する前に身に付けていたものとは違う真新しい袋。沢田は袋の口を開けて中身を取り出した。
「変だな。この名刺、どうしてこんなに古くなっているんだろう」
貰ってからまだひと月ほどしか経っていないのに、名刺は汚れ、変色して、手触りも悪くなっている。沢田は何気なく裏を返した。そこには走り書きのメモが残されていた。
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