重なり合う二つの「今」
ひとりだけの年末年始
大晦日の昼前、沢田は新聞販売所にいた。正月の新聞を二十五部ずつ束ねる作業に精を出していた。
「沢田君、昼はカツ丼でええがやね」
「はい、お願いします」
正月の新聞は分厚い。まず折込チラシが多い。正月休みを当て込んでここぞとばかりに大量のチラシが入る。そして新聞自体も分厚い。いつもは五十部入る配達鞄をぎゅうぎゅう詰めにしても二十五部が限界だ。そのため前送の束も二十五部ずつになる。
「四回目となれば慣れたもんやわいね」
「はい。一人前になれた頃に卒業です」
正月の新聞配達は通常とは手順が違う。この新聞社だけの独自ルールなのかもしれないが、大晦日の夜八時を過ぎれば元日の新聞を配り始めてもいいことになっている。
もっとも通常の記事が掲載されている新聞はその時刻にはまだ刷り上がっていないので、配りたくても配れない。しかし、付録と言ってもいい正月特別号の新聞は数日前から刷られて販売所内に山のように積まれている。大晦日の夜八時からはチラシと一緒にその新聞を配るのだ。そして通常の元日の新聞はいつも通り早朝に配る。
二度手間になるわけだが重量の大部分は正月特別号なので、先にそれを配っておけば元旦の配達は非常に楽である。年内に済ませられる仕事は済ましておこうという、非常に前向きなやり方だと言えなくもない。
昼になった。出前のカツ丼を食べながらしばし休憩だ。いつも松乃家の生カツ丼を食べている沢田は、卵とじのカツ丼が逆に新鮮に思えてしまう。
「沢田君、最近元気ないね。風邪ひいとらん?」
「ご心配なく。健康そのものです」
作り笑いをしながら沢田は答えた。高校三年間無遅刻無欠席無欠課で皆勤賞を授与された身体は頑健そのものだ。しかしその内面は使い古したボロ雑巾のように満身創痍な状態だった。
(結局、見付からなかったか)
お守りを紛失したあの日から、沢田はバイトの時以外は自転車を使わなくなった。道端に落ちているかもしれないお守りを探すためだ。そして暇さえあれば飲み屋から下宿までの道を歩いた。
もちろん警察には届けた。研究室の仲間にも協力を仰いだ。下宿の大家さん、間借りしている学生にも事情を説明した。そうして今日で一週間近くが経ったが、お守りは依然として見付かっていない。
(諦めるしかないのかな)
こればかりは自業自得だった。空海の信頼喪失は自分だけでなく相手にも原因がある。しかしお守りの紛失は完全に自分の過失だ。誰も責めることはできない。
(きっとこの地を去るまでお守り探しは続くんだろうな)
「さあ、そろそろ始めまいか」
昼の休憩は終了だ。沢田は作業に戻った。
新聞の束分けが終わると前送だ。自転車には到底積み切れない量なので車を出してくれる。それが済めば一旦帰宅し夜八時から配り始める。この時の配達は普段とは違う寂しさがあった。早朝の配達では静まり返っている家々から、賑やかな笑い声やテレビの音声、夕餉の匂いなどが漏れてくる。今の沢田にはない家庭の幸福を嫌でも実感させられるのだ。
「これまでは一人じゃなかったのに……」
分厚い新聞をポストに押し込みながら沢田は左胸を触る。そこにあったはずの固い手ごたえ。どれだけ孤独を感じても沢田は一人ではなかった。常に父が身近にいてくれた。親友も恋人も要らなかった。お守りさえあればそれでよかった。が、今、それは失われてしまった。恐らく永遠に……
「寂しい正月になりそうだな」
家々の灯りが窓から漏れる大晦日の住宅街を沢田は黙々と歩いた。
「ただいま」
配達が終わって帰宅した沢田は下宿の戸を開けた。午後九時はとっくに回っている。が、鍵は掛かっていない。普段は早寝の老夫婦も大晦日の夜は別だ。火鉢に当たり、
「こちらはカップ麺でも食べますか」
流しのガスコンロで湯を沸かす。数時間後にはまた出勤だ。年末年始には付き物の酒も配達が終わるまでは我慢である。いや、あれだけの失態を演じたのだから今年は酒なしでもいいだろう。沢田はカップ麺をすすりながら、金沢最後の正月をどう過ごそうかと思いを巡らした。
年が明け、元旦の新聞配達を終えて下宿に戻った沢田は、結局、自室に籠りっきりで寝たり食べたりしながら元日を過ごしてしまった。それまで毎日外出してお守りを探していたので、その反動が出てしまったようだ。
下宿している他の学生たちは全員帰省してしまっている。日中でも静かな下宿は思う存分惰眠を貪れた。明日は新聞休刊日だ。このまま三日の朝まで眠り続けることだってできる。沢田にとっては文字通りの寝正月となった。
「今日は晴れか」
次の日、思いっ切り朝寝坊を楽しんだ沢田が目を覚ますと、窓ガラスが明るさを反映していた。窓から顔を出すと積もった雪が目に眩しい。
「腹が減ったな」
炊飯器で餅を炊く。正月用にスーパーで買った餅だ。かなり遅めの朝食を済ませた沢田はジャンパーを羽織った。
「明日から配達が始まるし、少し体を動かさないと」
外へ出る。陽光を反射した雪がキラキラと輝く。吹雪いたり積もったりすると邪魔者にしかならない雪だが、こんな風景を見るとやはり雪国に来てよかったと思える。
「大学のほうへでも行ってみるか」
特に目的もなく沢田はブラブラと小路を歩いた。長靴の下で音を立てる雪の感触が心地好い。雪に彩られた金沢の正月、それを見るのもこれが最後だ。寂しさを感じながらも、ようやく苦しい学生生活を終えられるという解放感も湧き上がって来る。
「長くて短かい四年間だったな」
沢田は小路を抜けて梅の橋のたもとへ出た。スロープを上ろうとして足が止まった。橋の中央に着物姿の女性が立っている。一瞬、茶屋街の芸妓さんかと思った。が、違った。空海だった。沢田は腕時計を見た。午前九時を過ぎている。これまで一度も彼女と会ったことのない時刻だ。
(どうしてこんな時刻に。しかも正月二日なんかに)
お守りを失くして以来、沢田は梅の橋を使わなくなっていた。空海に会うのが辛かったからだ。バイトも通学も買い物も下流の浅野川大橋を渡っていた。だが、今朝は来てしまった。正月のこんな時間に会うはずがない、そんな油断が沢田の中に確かにあった。
(タク君……)
それは空海も同じだった。今日、ここに来たのは沢田に会うためではない。純粋に正月二日早朝の金沢を楽しむためだ。そしてこんな時間に来たのも、沢田との接触をできれば避けたいという気持ちからだった。そんな二人の想いを嘲笑うかのように、天は二人を出会わせた。
沢田は歩いた。スロープを渡り掛けた以上引き返せない。空海は顔を上流に向けて知らん振りをしている。沢田が橋の中央へと歩いて行く。二人とも何も言わない。沢田が空海の後ろを通り過ぎる。このまま何もせずに行ってしまうのかと思われた時、沢田は歩みを止めた。
「あの、あけましておめでとうございます」
「おめでとう」
空海の返事を聞いて沢田の緊張は幾分和らいだ。今はもう前回会った時のような怒りの感情は持っていない。むしろ口汚く相手を罵った自分を嫌悪しているくらいだ。
「えっと、前にここで話をした時、随分酷いことを言いました。あの日、実験が一晩続いて、それで全然寝ていなくて、それから新聞配達で疲れていて、頭がどうかしていたんだと思います。許してもらわなくてもいいですけど、それだけは分かってください。すみませんでした」
言い終えて沢田は深くお辞儀をした。今日も少し頭がどうかしているようだ、言葉がたどたどしい。
空海は可笑しくなった。それは自分も同じだと思った。あの日、沢田も駅前で待っていたこと、電話もホテルも沢田にとっては存在しないものだったこと、そんな理解不能な事柄を突き付けられ、空海もまたいつもの冷静さを欠いていたのだ。
「タク君、前に言ったでしょう。謝る必要はないって。それどころか、私、あなたにお礼をしたいのよ」
「お礼? 何に対するお礼ですか」
沢田は頭を上げた。間近で見る和装の空海はいつにも増して奇麗に見える。直視できずに思わず目を伏せる。
「タク君、最後に言ったでしょう。ここに店を開く意味をもう一度考えて欲しいって。私、一所懸命考えたの」
「すみません。生意気なことを言いました」
また頭を下げる沢田。空海は笑っている。
「東京と金沢を往復しながらの道楽仕事、それで本当に金沢を大切にしていると言えるのか。タク君はそうも言った。でもね、東京と金沢を往復していたのは私だけではないわ」
「えっ?」
「気が付かない? それは加賀藩の歴代藩主よ。二代藩主
「そ、それは……」
思い掛けない反論に沢田は言葉を失った。藩主が国許を大切に思わないわけがない。住んでいる場所と大切にしたい場所を結び付けて意見した沢田の主張は、完全にひっくり返されてしまった。
「それにこうも言ったわね。東京人が好き勝手に金沢を変えていくのを見るのは口惜しいって。でも金沢を変えたのは私だけではない。藩祖利家だって同じことをしたわ。彼は出身地尾張国の尾の字を使って金沢城を尾山城と改名した。更に、尾張から多数の商人を呼び寄せて住まわせ、その町を尾張町と名付けた。さすがに尾山城はやり過ぎたと思ったのか、元の金沢城に戻したけれど、尾張町は今でも町名として残っている。タク君は尾張の人間が好き勝手に金沢の町名を変えても口惜しいとは思わないの?」
「うっ……」
あの時の自分が如何に感情に任せて喋っていたか、沢田は思い知らされたような気がした。こうして反論されると自分の抗議は単なる言い掛かりに過ぎなかったことがよく分かる。
「そして金沢をお金儲けのためだけに利用しているという非難。確かにお金は必要よ。稼がなくてはお店を維持できないのだから。でも、私の本当の目的はお金ではなく人と人との触れ合い。実店舗を持ちたいと思った動機もそこにあるの。それで決めたのよ。時々ワークショップを開こうって。その道のスペシャリストを町家に招いて、お客様と双方向の遣り取りを楽しんでもらう、そんな場所が作れたらいいなって思うの」
完敗だ、と沢田は感じた。怒りに任せて適当に言い放った自分の言葉に対して、ここまで真剣に考え、その答えを用意してくるとは想像だにしていなかった。それはまた裏を返せば、空海がどれだけ真面目に町家喫茶に取り組んでいるかを示すものでもあった。
「ねえ、タク君。人や時代が変わっていくように、街だって変わっていくものよ。古いものを大切にしたいあなたの気持ちはとてもよく分かる。でも、今の時代に合わないまま取り残されてしまったら、町家は本当に幸せだと感じるかしら。今の時代にも役立つように変えてあげることが、町家にとっての本当の幸せなのではないかしら。一度考えてみてくれない」
沢田の言葉を使って話を締めた空海は口元に笑みを浮かべた。去年沢田に押し付けられた借りを、今、ようやく返せた、そんな満足感が身の内に広がる。
沢田は苦笑した。闇夜で返り討ちにあったような気分だ。が、それは心地好い闇討ちであった。胸の内にわだかまっていた暗雲は一刀両断にされ、今は雲の隙間から晴れ間が顔を覗かせている。
「クミさんの言葉、よく分かりました。正直、ボクはまだ町家の改修には賛成できかねるんです。それにクミさんのことを全面的に信用しているわけでもありません」
「タク君は慎重派なのね」
それも仕方がない、と空海は感じた。電話番号の件もホテルの件も、まだ解明されていないのだから。
「でもボクはクミさんが人を騙すような人間にはどうしても思えない、思いたくないんです。これまでボクらは橋の上だけで話をして、相手の言葉だけで判断してきました。それが互いの誤解を招いた原因だと思うんです。それで、これはボクからの提案なのですが」
ここで沢田は言葉を切った。さすがにこの続きを話すのは勇気が要る。
「何の提案?」
空海に促され、思い切って言葉にする。
「あの、その、これからボクと、卯辰神社まで一緒に歩いてくれませんか」
「神社まで? ああ、初詣デートをしたいのね」
「違いますっ!」
これまでまったく縁のなかったデートなどという単語を聞かされ、沢田は慌てふためきながら話を続けた。
「神社の前の町家を見て欲しいんです。クミさんは空き家だと主張し、ボクはまだ人が住む下宿だと主張する町家。こんな場所で言い争っていないで実際に見てみればいいんですよ。そうでしょう」
空海は心の中で拍手をしたくなった。沢田の言う通りだ。なぜこんな単純なことに気が付かなかったのだろう。正常な判断力を欠いて言い合いをしていたあの時の自分を叱り付けたくなった。
「それは良い提案だわ。さっそく行きましょう」
「はい」
空海が快く受け入れてくれたので沢田は一安心だ。空海の前に立ち、後ろを気にしながら歩き始めた。空海はそろりそろりと付いて来る。それほど積もっているわけではないが、和服で雪道は歩きにくいのだろう、沢田もペースを落としてゆっくり歩く。
「あっ!」
空海が声を上げた。沢田は立ち止まって振り返る。
「どうかしましたか」
「……いえ」
と言いながらも空海はすぐには歩き出せなかった。つい先ほどまで橋のたもとに見えていた徳田秋聲記念館が一瞬で消えてしまったからだ。
(何が起きたの)
空海は周囲を見回した。それはいつも見慣れているはずの梅の橋からの風景……そう、遠景は確かにそうだ。だが近景、自分たちが向かっている浅野川右岸はこれまで見たことのない風景に変わっている。
(どうして、どうしてこんなことが……)
空海の心が怯えた。自分が向かおうとしているのは明らかに自分の知らない場所だ。無意識のうちに空海は帯に手を触れた。確かな手応えがあった。前回、沢田に見せようとして消えてしまったお守り。今、帯に挟んでおいたお守りは消えることなく、帯の下からしっかりとその存在を主張していた。
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