見失ったもの

 沢田は部屋の隅に畳んでおいた布団を敷くと、服を着たまま倒れ込んだ。先ほどまでの怒りは影も形もなくなっていた。目の前は真っ白だった。何もかも疲れていた。体も頭も心も、動力源を喪失した機械のように全ての動きを停止していた。


「どうしてあんなひどい言葉を吐いてしまったんだろう」


 沢田は自分が信じられなかった。先ほどの橋上での出来事はまるで夢の中で観た映画の一シーンのように思われた。眠りながら新聞を配達していた時と同じく、自分の意思には関係のない振る舞いのように思われた。そう思いたかった。だが、自分で自分は誤魔化せない。夢でも無意識の行動でもないことは沢田自身分かっていた。


「あれは間違いなく自分の言葉、自分の本心だ」


 疲労と寝不足が自制心を弱らせ、本能の欲するままに暴言を吐いた、そんな弁解が心に浮かぶ。見苦しい弁解だ。大寝坊をして販売所の所長さんに怒られた時、試験勉強で寝坊をしたと言い訳したくなった、あの時と同じ、通用しない弁解だ。


「何もかも終わってしまったな」


 自分の言葉が間違っていたとは思っていない。悪いことをしたとも思っていない。だが、目を閉じれば浮かんでくる空海の悲しそうな顔、涙に潤んだ目、震えながら発せられた声。それらの記憶は沢田の後悔を一層深めた。

 全ての非が彼女にあるとしても、どうしてもっと優しく接してあげられなかったのか。あんな酷い態度を取ってしまったのか。少なくとも彼女は分かり合おうとしていた。壊れた関係を修復しようとしていた。なのに自分は彼女の歩み寄りを全て撥ね退けてしまった。


 沢田は右手を左胸に当てた。何も聞こえない。これまでずっと沢田を支えてきてくれた父の形見のお守り。だが橋の上で空海を見掛けるようになってからは、まるで別の何かに力を使っているかのように、お守りは沈黙し続けている。


「これでよかったんだろうな。あの人と仲違いをしなかったとしても、卒業すれば二度と会うことはなかったんだし。別れの時が数カ月早まった、それだけのことだ」


 そう考えると諦めがつく。深い睡魔が襲ってきた。沢田は眠った。


 目覚めたのは夕刻近くだ。まだ寝足りなかったがそれ以上に腹が減っている。最後に何か口にしたのは真夜中の菓子パン一個。半日以上何も食べていないのだから空腹で目が覚めるのも当然だ。


「大学へ行くか」


 徹夜の実験の後とは言っても今日は平日だ。一応研究室に顔を出しておいたほうがいいだろう。沢田は二階の流しで顔を洗うと一階に下りた。お婆さんが廊下を歩いている。ふと、今朝の空海の言葉が頭に浮かんだ。


 ――分かったわ。喫茶店にする町家の住所は……


 この下宿の住所を聞かされた時、沢田は頭ごなしに否定した。少なくとも空き家というのは嘘だ。こうして住人がいるのだから。しかしそれ以外はどうだろう。自分の知らないうちにそんな話が持ち上がっていたという可能性はないだろうか。


「お婆さん、すみません。ちょっと話があるんですけど」


 老夫婦の居室に入った沢田はこの町家をどうするつもりか尋ねてみた。親類の手を借りて下宿を続けるのか、それとも自分たちの代で終わるつもりなのか。残念ながら返ってきた答えは後者だった。


「大学の移転が始まったさけねえ。もう新しい下宿人は取っとらんがよ」

「ではこの町家を売却するという話もあるんですか」

「それはまだないがやけど、いずれそうなるかもしれんねえ」

「そうですか」


 沢田は話を打ち切って部屋を出た。考えるまでもなく当たり前の話だった。この下宿の利点は二つ。安さと近さだ。大学までは徒歩で約十五分。実際、沢田は大雨や暴風、そして雪の日は歩いて通学していた。そのほうが楽だし自転車を使うのとさして時間が変わらないからだ。


 だが新しい大学の移転先はここから五km先の山の中。しかも最後二kmは延々と登りが続く。雪の日でなくても自転車はキツイ。バスや原付では金がかかって安い家賃のメリットがなくなる。大学の移転が完了する三年後には、この町家を下宿に選ぶメリットは消滅すると言っても過言ではない。


「クミさんの言葉……今は嘘でも、近い将来本当になるのかもしれないなあ」


 そう考えると、あれほどまでに彼女に歯向かった自分が愚かに思えて仕方がなかった。外に出て自転車のスタンドを上げようとしたがやめた。なんとなく歩いて行きたい気分だった。

 小路を抜け梅の橋の階段を上る。沢田は小走りで橋を渡った。今朝の苦い風景が見えてくるような気がしたのだ。


「沢田君、遅いよ」


 大学の研究室には昨晩のメンバーが全員揃っていた。実験は昼頃まで続いていたはずだから、仮眠を取ったとしても四、五時間だ。どれだけタフなんだと少し呆れる。


「すみません、熟睡していました」


 沢田が頭を下げると、院生が勢いよく立ち上がった。


「さて全員揃ったところで大切なお知らせです。今夜は教授主催の飲み会を挙行することとなりました。いわゆる聖夜祭というやつですね」

「おい、聖夜祭はイブのパーティのことだぞ」

「おや、そうですか。ではクリスマスの日のパーティは何と言うのかな」

「知らん」


 彼らの会話を聞いていて、今日はクリスマスであることを沢田は思い出した。バレンタインデーと同じく沢田には全く無縁の日である。小学生くらいまではケーキを食べていた記憶があるが、サンタが実在しないと判明した年からは何の変哲もない日となった。


「沢田君も参加するよね」

「いえ、ボクは……」


 口ごもる。基本的に沢田はコンパや飲み会には参加しない。経済的理由もあるが、一番の理由はそういった会合が好きではないからだ。酒を飲むにしても一人で静かに飲むのが好きだった。


「なあ、沢田、今日は付き合えよ」


 いつも明るい助手さんが大きな体を寄せてきた。


「いえ、疲れているので」

「疲れているからだよ。酒を飲んで、みんなで騒いで、疲れていることも嫌なことも、全部吹き飛ばしてしまえばいいさ」

「嫌なことも……」


 その言葉で沢田は気が付いた。突然こんなことを言い出したのは自分のためなのだ。ここにいる者全員、昨日沢田に何が起きたか薄々感付いているはずだ。落ち込む沢田を励ますために、飲み会を開こうとしてくれているのだ。


「ありがとうございます。行きます。でもお腹が空いているので、なるべく早めに始めてくれませんか」


 沢田の言葉を聞いて一同声を上げて笑った。沢田も笑った。


 その夜は大いに飲んだ。一晩でこれほど飲むのは初めてではないかと言ってもいいくらい沢田は酒を飲んだ。


「よし、次へ行くぞ」


 二軒目に入ったところまでは覚えている。が、その後は断片的な記憶しかない。意識を取り戻したのは暗い部屋の中だ。


「はっ!」

 沢田は無意識に手を伸ばした。掴む。見る。午前四時。

「寝過ごした!」


 目覚ましを放り出して部屋を飛び出した。いつの間にか下宿へ戻っていたのだ。いつもは持参するタオルや雨具も持たずに、沢田は外へ出て自転車に飛び乗った。


「あれだけ飲んでよく目が覚めたもんだ。これも三年間の修練の賜物か」


 自転車を漕ぎながら昨日の記憶をたどる。下宿に帰ったのは間違いなく門限の九時過ぎだ。どうやって中に入ったのだろう。


「誰かに開けてもらったのか……ああ、そう言えば」


 かすかに記憶が蘇る。玄関の戸を叩く自分。開いた戸の向こうに立つ男。笑顔と共に「あの時のお礼ですよ」と聞こえてきた言葉。


「そうか、佐藤さんに開けてもらったんだ。情けは人の為ならずって言うけど本当だな。それにしても、なんだか匂うな」


 沢田は深く息を吸った。酒臭いのは当然だが、その他にもチーズを感じさせる酸っぱい匂いもする。気になるが今はそれどころではない。考えるのは配達を終えてからにしよう、そう自分に言い聞かせて沢田は販売所へ急いだ。


「遅れました」


 中へ入る。ほとんどの配達員が出発準備に取り掛かっている。沢田はすぐにチラシを挟み込む作業に入った。


「あ、はい、おはよう」


 いつも明るい販売所の奥さんの声が弱々しい。嫌がっているように聞こえる。やはり相当匂うのだろう。だからと言ってどうしようもない。心なしか他の配達員も自分を避けているような気がしてならない。


(販売所の皆さん、すみません、すみません。これからは飲み過ぎないよう気を付けます)


 心の中で詫びながら沢田は作業を続けた。


 やがて準備が完了した。販売所を出る。前送を済ませて配り始める。その頃には半分眠っていた頭と体もようやく覚醒した。と同時に気分が悪くなってきた。歩けば歩くほど吐き気が込み上げてくる。ついに耐えられなくなった沢田は道端の側溝にしゃがみ込んで吐いた。


「おかしいな。胃液しか出ない」


 昨晩はたらふく飲んで食ったはず、なのに吐いたのは液体だけだ。幾らなんでも消化が早すぎる。不思議に思いながら配達を終え下宿に帰った沢田は、自分の部屋の惨状を見て驚いた。


「うわ、やっちまった!」


 畳の上には吐瀉物がぶちまけられていた。眠っている間に吐いてしまったのだ。これまで酒を飲んで吐いた経験のなかった沢田には大きなショックだった。


「なるほど。これなら胃液しか出ないのは当たり前だ。やはり飲み過ぎはよくないな。嘔吐物が喉に詰まって窒息死とかシャレにならないからなあ」


 沢田は雑巾を絞って畳を拭き始めた。運のいいことに汚れていたのは畳の上だけだった。布団から大きくはみ出して寝ていたのが幸いしたのだろう。

 それなりに畳の掃除を済ませると、沢田は一階に下りて洗濯機横の洗面台で顔を洗った。鏡を見ると髪の毛が変な形をしている。しかも何かこびりついている。手で取ってまじまじと見れば小さなチーズの塊だ。どうやら嘔吐物に顔を埋めて寝ていたらしい。


「妙に匂うと思っていたら原因はこれか。吐いた物を頭にくっ付けて仕事していたら、そりゃ販売所の人たちも引くだろうなあ」


 情けない気持ちになりながら沢田は洗顔を済ませた。ついでに着替えもしておこうと右手を左胸に当てた。


「えっ!」


 着替えをするにはお守りを取り出さなくてはならない。胸ポケットからお守りを取り出す動作は無意識で行えるくらい自然なものになっている。が、今の沢田にはそれができなかった。左胸には何の手応えもなかったからだ。


「そ、そんな、馬鹿な……」


 沢田の声が震えた。体も震えている。これまで肌身離さず持ち歩いていたお守り。胸ポケットがない時はズボンのポケットに入れ、ポケットが全くない服装の時は紐で首からぶら下げて、命の次に大切にしてきたお守り、それを失くしてしまったのだ。


「どこだ、どこに落としたんだ!」


 沢田は探し回った。一階のトイレ、廊下、玄関、階段、二階の廊下、自室、流し、必死になって探し回った。しかし見付からない。沢田は自室の隣にある佐藤の部屋の戸を叩いた。


「佐藤さん、佐藤さん、起きてください」

「う~ん、何ですか、沢田君」

「昨晩、玄関の鍵を開けてくれたのは佐藤さんでしょう」

「そうですよ。ああ、お礼は要りません。前回のお礼です」

「いえ、違うんです。実はお守りを失くしてしまったんです」

「お守り?」


 それから沢田は事の次第を説明した。失くしたのはステンレス板が入った手の平に乗るお守り袋。気付いたのはつい先ほど。意識がほとんどない飲み屋から自室へ帰るまでの間に落としたと思われる、などなど。


「昨晩、ボクはどんな状態でしたか。何かお守りを失くすような行動をしていませんでしたか」

「う~ん、君、結構酔っていましたからねえ。一階のトイレの前で寝ようとしたり、意味もなく壁を削ろうとしたり、廊下の床板の隙間に指を突っ込もうとしたり。君を部屋まで連れて行くのは一苦労でしたよ」


 聞いていて恥ずかしさが込み上げてきた。前後不覚になるまで酒を飲むような真似は二度とすまい、沢田は心に誓った。


「ご迷惑をお掛けしてすみません。それでお守りについて、何か分かりませんか」

「お守りは記憶にありません。そこまでしっかり君を観察していませんでしたからねえ。それに飲み屋を出た後から覚えていないのならば、下宿の外で失くした可能性が極めて高いと言えるでしょう。よしんば下宿の中だったとしても、壁の穴や床板の隙間に落ち込んでしまったとすれば、家を解体でもしない限り入手は無理。どちらにしても沢田君が再びお守りを取り戻すのは絶望的と言えそうですね」


 滝壺に叩き落とされたような気がした。佐藤の口調はあくまでも穏やかだが、話している内容は死刑宣告と同じくらい熾烈である。沢田はその場に崩れ落ちそうになった。


「気を落としてはいけませんよ、沢田君。いいことを教えてあげましょう。狛犬の足をくくると失せ物が出る、というおまじないがあります。正面の卯辰神社にも狛犬がありますから、試しにやってみてはどうですか」

「はあ、ありがとうございます」


 沢田が礼を言うと佐藤はにっこり笑って部屋の戸を閉めた。結局何の手掛かりも得られなかった。もし外で失くしたとしたらまず見付からないだろう。下宿で失くしたとしてもこれだけ探して見付からないのだから、ひょっこり出て来るとは考えにくい。沢田は自室へ戻ると布団の上に突っ伏した。


「ああ、なんてことをしてしまったんだ。大切な父さんの形見を失くすなんて。ボクは大馬鹿者だ。アホだ。だらぶちやあ!」


 空海との仲が完全に破たんしただけでなく、己の分身とも言えるお守りまで失くしてしまった。やり切れない想いが胸に渦巻いて闇に飲み込まれそうだ。沢田は右手を左胸に当てた。伝わってくるのは弱々しい心臓の音だけだった。

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