誤解されたままの結論

 沢田が神妙な面持ちでこちらに近付いてくる。空海は深呼吸をした。心の中のわだかまりはまだ解け切ってはいない。沢田を非難したい気持ちも残っている。

 だが、全ては終わったことだ。過去の失敗をあげつらったところで意味がないし、相手にも言い分はあるはず。まずはそれをしっかり聞いて広い心で受け止めてあげよう、そう思いながら穏やかな声で沢田に話し掛けた。


「おはよう、タク君。今日はずいぶん遅いのね。どこかで道草でも食っていたの?」


 声を掛けられて立ち止まった沢田の表情が硬い。悪戯をして叱られている子供のような顔だ。


「あの、それは……」


 どう答えようか迷っているのが分かる。自転車を支えているのが辛いのだろう、沢田はスタンドを立てて橋の高欄に身を預けた。よく見ると顔色が悪い。ひどく疲れているようだ。


「昨日から実験をしていて、配達も、大学から直接行き来していたので……」


 途切れ途切れの力ない言葉だ。昨日から実験が続いているのなら徹夜したに違いない。空海はようやく事情が飲み込めた。


「そう。ごめんなさい。考えてみれば前日に食事に誘うなんて無作法過ぎたわね。あなたの予定を訊かずに自分の都合ばかり押し付けて、悪かったと思っている。気にしないでちょうだい。私も昨日のことは全然気にしていないから、謝ったりする必要はないのよ」


 沢田の目付きが鋭くなった。顔を上げ、空海を睨み付けている。


「謝る? 謝るのはボクのほうだと言いたいんですか」

「違うわ。謝らなくてもいいと言ったのよ。急用が入るなんてこと珍しくもないし。でも連絡くらいして欲しかったわ」


 言い終わってから空海はしくじったと思った。相手を責める言動は慎もうと決めていたのに、つい口に出してしまった。沢田の体が小刻みに震えている。最後の一言が琴線に触れたのだろう、絞り出すような声で答えた。


「連絡しました。あなたの名刺に書かれていた電話番号に掛けました。でも通じませんでした。東京の番号も、モバイルと書かれていた番号も、どちらも使用されていない電話番号だったんです!」


 次第に語気が強くなる沢田の言葉に空海は衝撃を受けた。


「そんな……」


 急いでスマホを取り出して着信履歴を調べる。それらしい履歴は見当たらない。昨日の自分を思い出してもスマホが鳴った記憶はなかった。


「ねえ、タク君」


 沢田が偽りを言っているのは明らかだ。空海はもう一度深呼吸をして気を落ちつかせると、諭すように言った。


「どうしてそんな嘘をつくの。昨日のことは気にしていないって言っているでしょう。学生のうちはそれで済ませられるかもしれない。けれど、社会に出ればそんな弁解じみた嘘は通用しないわ。私が昨日どんな気持ちで待っていたか、少しは考えてみて。嘘なんかつかないでもっと素直に……」

「嘘を言っているのはあなたでしょう!」


 沢田が大声を上げた。その怒声と激昂した顔はもはやこれまでの沢田ではなかった。言葉を遮られた空海は微かな怯えを感じながら沢田の言葉を聞いた。


「何もかも嘘だ。電話番号も食事もホテルも。あなたは嘘ばかりついている。ばれていないとでも思っているんですか。昨日、東口であなたを待っている間、金沢日空ホテルの場所を調べたんです。電話帳にも地図にも本屋の宿泊ガイドにも載っていない。最後は駅の観光案内でも訊いてみました。答えは同じ、そんなホテルはない、です。あなたは最初からボクと食事をするつもりなんかなかったんだ。ボクをからかったんでしょう。誰も来ない相手を馬鹿みたいに待っているボクを、物陰から眺めて嘲笑あざわらっていたんでしょう」

「ちょ、ちょっと待って!」


 荒れ狂う激流に飛び込むような覚悟で空海は口を差し挟んだ。


「タク君、あなた、東口で待っていたって言ったわよね。昨日は実験で来られなかったのではないの?」

「実験はありました。でもランチに行くことは許してもらえたんです。十一時半から二時半までボクは待ちました。でもあなたは来なかった。謝るのはあなたのほうじゃないですか」


 空海は沢田を見た。嘘をついているようには見えない。嘘をつける人物ではないのだ。言葉通り昨日は駅で待っていたのだろう。ならばどうして会えなかったのか、それが空海には分からなかった。


「東口と西口を間違えていたってことはない?」

「待っている途中で西口にも行きました。でも、あなたはいなかった」

「私、昨日は一人ではなく友人と二人で待っていたの。そのために私だと分からなかったってことはない?」

「待っていた? あなたも駅で待っていたって言うんですか」


 少し収まっていた沢田の怒りが再び表情に現れ始めた。最初に会った時に見せていた疲労の色は完全に消え、上気した頬と早口の喋り方が沢田の興奮を如実に感じさせる。


「たとえ二人で待っていたとしても見間違えるわけがないでしょう。あなたこそいつまでそんな嘘をつき続けるつもりですか。学生だからって甘く見ないでください」


 空海は何と答えればいいのか分からなかった。沢田も自分も嘘は言っていない。二人とも昨日の昼は駅の東口で待っていたのだ。なのに会えなかった……どうして……


「分かったわ。タク君の言い分は分かった。ええっと、そうね、たぶん、何か行き違いがあったのよ。私もあなたのことを誤解していたみたい。謝るわ。だから、もうこの話はやめましょう。今更昨日のことをほじくり返しても、昨日が帰ってくるわけではないもの」


 沢田は黙っている。空海から謝罪の言葉を聞けたので怒りも少し収まったようだ。しかし空海への信用度は明らかに低下している。二度と口を利きたくない、そんな顔をしている。


(今ここで聞き出すしかないわ。改めて話し合いの場を設けようと言っても受けてくれるはずがない。お守りのことを訊くのは今しかない)


 空海は決心した。立ち話でも何でもいい。とにかくお守りの疑問だけはきちんと決着をつけておかなくては一生悔いが残るだろう。


「話は終わりましたか。なら帰ります」


 沢田が自転車のハンドルを掴んだ。空海は慌てて引き留める。


「待って、タク君。実は訊きたいことがあるの。昨日、あなたをランチに誘ったのも本当はそれが目的だったのよ」

「訊きたいこと? 何です」

「これよ」


 空海は上着のポケットに手を入れた。お守りはいつもそこに入れている。当然、今もそこにあるはずだった。が、


(えっ、どうして!)


 心の中で悲鳴が上がった。ない。あるはずのお守りがない。ポケットの中をどれだけまさぐっても、固いステンレスの感触は見いだせない。


「どうしたんですか」

「それが……無いのよ」

「何が無いんですか」


 答えられない。あなたの名が書かれたお守りを持っていたのに失くしてしまった、そう口で説明したところで今の沢田が信用してくれるとは思えない。また嘘をつくのかと怒り出すのが関の山だ。

 上着やショルダーバッグを必死で探し続ける空海の様子を沢田は冷ややかな目で眺めていた。やがて呆れたような口調で言った。


「答えてくれないんですね。もうそんな見苦しい演技はやめてください。どうせまたボクを騙そうとしているんでしょう。頻繁に金沢を訪れているって話も怪しいもんだ。町家喫茶の件もボクの興味を引くためのエサに過ぎなかったんじゃないんですか」

「いいえ、本当よ。東京から来ているのも、町家を改修して喫茶店にする話も、誓って嘘ではないわ」

「それならどこの町家を改修するつもりなのか教えてください。あなたからその話を聞いた後、ボクは東山界隈を歩いてみたんです。でも喫茶店にできそうな空き家なんて見つからなかった。嘘ではないと言うのなら町家の住所を教えてください」

「分かったわ。喫茶店にする町家の住所は……」


 空海はゆっくりと、そしてはっきりした声で町名と番地を言った。沢田の表情が凍り付いたように固まった。怒りが驚きに変わっている。やがてそれは笑いになった。沢田は大声で笑い始めた。


「な、何がおかしいの」

「ははは、おかしいですよ。おかしいに決まっています。だってそれはボクの下宿の住所なんですから」


 訳が分からなかった。どうしてここまで話がこじれるのか、空海には理解できなかった。


「そんなはずないわ。この住所の町家は空き家よ。誰も住んでなんかいない。私自身の目で確かめたのだから間違いないわ」

「そんな言い訳は結構です。やっと全てが納得できました。どうしてあなたがボクに近付いたのか、仲良くなろうとしたのか、全て分かりました」

「何が分かったと言うの」

「あの下宿を手に入れる、それがあなた本当の目的。しかし老夫婦に売却を迫っても頑として売ろうとしない。そこであなたは下宿人に目を付けた。下宿人が説得すれば老夫婦の心も揺らぐはず、そう考えたあなたはボクを懐柔して仲間に引き入れようとした。ボクを使ってあの町家を自分の物にするためにね。あなたは最初からボクがあの町家に住んでいるのを知っていた。知っていて近付いたんだ。そうでしょう」

「誤解だわ。本当にこの住所の町家は空き家なのよ。タク君、あなたは勘違いをしている。きっと同じ番地の別の家と……」

「いい加減にしてください!」


 それは野生の咆哮を思わせる叫びだった。沢田は心底自分を嫌っている、空海はそう思わずにはいられなかった。


「ボクは最初からあなたが気に入らなかったんです。古い町家を改修して喫茶店として蘇らせる。確かに聞こえはいい。でもそれは町家を単なる金儲けの道具として扱うのと同じじゃないですか。金沢の歴史も文化も、金を稼ぐために利用しようとしているだけなんじゃないですか」

「それは違う。私は町家を愛している。金沢という土地も文化も純粋に好きなだけ。喫茶店にするのはお金のためではないわ。町家を使ってこの街を活性化させられたら、訪れる人々に非日常的な憩いを与えられたら、そう思って始めただけ。決してお金のためなんかじゃないわ」

「奇麗ごとを言うのはやめてください。本当に町家を愛しているのなら、今のままの姿を残し続けるべきです。作り変えられた町家なんかにどれだけの価値があると言うんですか。どんなに老朽化して見すぼらしくなっても、本当に愛する心があるのなら、その姿だけで人々の心は癒されるはず。喫茶店にする必要なんてないんです」


 分かり合えない、と空海は感じた。人の愛し方は千差万別。野に咲き風に揺れる素朴な花への愛も、花瓶に活けられ華やかな照明を浴びた花への愛も、どちらも正しい愛なのだ。

 沢田の言いたいことはよく分かる。しかし自分には自分の愛し方がある。これ以上の話し合いは無駄だと空海は感じた。


「残念だわ。タク君とは良いお友達になれると思ったのだけれど」

「ボクも残念ですよ。あなたが金儲けにしか興味がない人間だと分かって。さっき金沢を純粋に好きだと言いましたけど、それもどうですかね。ここに喫茶店を開いたとしても、金沢に住むわけではないんでしょう」

「それは、そうね」


 東京には既に生活の基盤ができている。今の空海に移住は無理だ。


「それこそ町家を金儲けの道具にしか見ていない証しじゃないですか。店の仕事は他人任せ。毎朝の雪かきも夕暮れの水打ちもしないで、自分は便利な東京暮らし。喫茶店経営なんて片手間の趣味みたいなものなんでしょう。それで町家を愛しているなんて、金沢が好きだなんて、よくも言えたものですね。東京人の好き勝手に金沢が変えられていくのを見るのは口惜しくて仕方ないんです」

「そんな言い方……ひどすぎるわ」

「気に障ったのならすみません。でもどうしてここに喫茶店を開きたいのか、その理由をよく考えてみてください。東京と金沢を往復しながらでもできるような道楽気分で始めるのならボクは賛成できません。町家が可哀想です」

「……」


 沢田が自転車のスタンドを上げた。空海はもう引き留めなかった。言葉が出なかった。決して遊び気分でしているのではない、真剣に取り組んでいる、それは誰に対しても自信を持って言える。けれども今の沢田を説得できるだけの言葉が空海には見付からなかった。


「喫茶店を開く理由……ここが好きだから、ではダメなのかな」


 スロープを下りた沢田が小路へ消えていく。結局お守りの謎は分からず仕舞いだ。きっと自分とは二度と口を利いてくれないだろう。空海はため息をつくと川の下流に視線を向けた。


「えっ!」


 驚いた。さっきまで沢田がいたその場所に、女性が背を向けて立っていた。後姿でも誰かは分かる。椎子だ。


「シーコ、あなたどうしてここに」

「んっ、あれ、クミじゃない。いつ来たのよ」


 椎子もまたこちらに気付いていなかったようだ。奇妙だった。話をしている間、通行人は一人もいなかった。もちろん椎子もだ。まるで空からいきなり降ってきたかのような現れ方だ。


「あなたこそいつ来たのよ。もしかして私たちの話、聞いていた?」

「話? クミこそ何を言っているのよ。あなたはたった今ここに来たばかりでしょう。今までどこを散歩していたのよ。家を出て二時間経っても帰ってこないから、心配してこうして橋の上から探していたんじゃない」

「探していた? 橋の上にいたのはどれくらいなの」

「十分くらいかしらね」


 話が合わない。空海は二時間以上前から橋の上に立っているのだ。十分前に椎子がここに来たのなら気付くはずだ。


「どういうこと……」


 空海は無意識のうちに右手を上着のポケットに入れた。感触がある。握って静かに引き抜く。お守りだ。あの時どれだけ探しても見付からなかったお守りが、まるで沢田が橋から去るのを待っていたかのように姿を現わしたのだ。


「あなた、いったい何者なの?」


 空海はお守りに問い掛けた。返事はなかった。

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