擦れ違う想い

 

 翌日の正午近く、空海は金沢駅東口に立っていた。北陸新幹線金沢駅開業からまだ九カ月とあって、平日の昼にもかかわらず多くの人が行き交っている。


「冷えるわね」


 空海は白い息を吐いて空を見上げた。昨日は絶好の洗濯日和だったが、今日はどんよりとした曇り空。風も冷たい。


「きっと降ってくるわよ、雪。浮気しようとしているクミへの天罰ね」


 隣に立つ女性から茶化すような言葉を聞かされて、空海は渋い表情になった。


「いくら結婚しているからって言っても、夫以外の男と会ったら浮気だなんて決めつけないで欲しいわ。それにあなたと一緒では浮気しようがないでしょう、シーコ」

「それもそうね」


 横に立っているのは親友の椎子だ。今日の昼、お守りの持ち主らしい人物と食事をすると空海から聞かされ、仕事をキャンセルして付いて来たのだ。


「まさかあなたが一緒に来るなんて思ってもみなかったわ」

「だって今日その子が持ち主だと分かったら、お守り返しちゃうんでしょう。どんな子がどんな理由であの町家に落としたのか、置いたのか、忘れたのか、あたしだって興味津々なのよ」


 無理もない、と空海は思った。持ち主を探すために椎子にも協力を仰いでいたからだ。手掛かりすら見付からなかったお守りの謎。それが一気に解決しそうだと聞かされ居ても立ってもいられなくなったのだろう。


「まだ持ち主だと決まったわけではないのよ。名前が同じ、ただそれだけなのですもの」

「でも沢田沢なんてそうそうお目に掛かれる氏名じゃないわよ。しかもその人物は現在あの町家の近くに住んでいる、となれば決まりじゃない」


 空海もそうあって欲しいとは思う。ただひとつ気掛かりなのはステンレス板と共に袋に入っていた自分の名刺だ。あの汚れ方から考えるに、渡したのは今からかなり昔のはずだ。そして受け取った人物が沢田ではないことも確かだ。彼と初めて会ったのは今年なのだから。


「あなたが興味津々なのは理解できるわ、椎子。でも、あまり立ち入ったことは訊かないほうがいいような気がするのよ」

「えっ、どういう意味」

「名前が彫られているからって、あの子の持ち物ではないかもしれない。例えば、離婚したあの子の父が思い出に彫った品なのかもしれない。あの子からお守りを譲り受けた誰かが、あの子を忘れたくて町家に捨てたのかもしれない。そしてあの子の持ち物だったとしても、何かの思い出を消し去りたくて、あの子自身が町家に置き去りにしたのかもしれない。人には誰だって知られたくない事情がある、それを掘り返すようなことはしないほうがいい、そう思わない?」

「クミは想像力が豊かねえ。小説家の才能あるよ。今から転向してみれば」


 椎子の口調は軽い。けれども表情は真剣だ。


「ねえ、クミ。あたしだってそれくらいの気配りはできるよ。お守りを前にした時、その子がどんな反応をするか、それを見てどうするか決めればいいんじゃないのかな。あたしは口出しせずに成り行きを見ているからさ」

「ありがとう。そうしてくれると助かるわ」


 空海は時計を見た。もう正午を十分ほど過ぎている。そろそろ姿を現わしてもいい頃だ。


 それから二人は待ち続けた。二十分、三十分、しかし沢田の姿は一向に現れない。とうとう椎子が痺れを切らしてしまった。


「遅いわねえ。もしかしてホテルで待っているんじゃないの」

「そんなはずないわ。あの子、そんなホテルは知らないって言っていたし」

「あとで調べて分かったのかもよ。あたし見て来るわ」

「ちょっと、シーコ!」


 空海の言葉を待たずに椎子は駆け出した。いつも通りの猪突猛進だ。空海は引き留めなかった。そんなことをしても無駄だと分かっているし、椎子の言葉通り沢田はホテルで待っているのかもしれないという思いもあったからだ。


 それから二十分ほどして椎子は戻ってきた。浮かない顔をしている。


「どうだった……ってその様子じゃ訊くまでもないわね」

「クミ、何もしないで待っていないで、あなたも電話くらいしなさいよ」

「それが、電話番号を教えてもらってないのよ」


 椎子の表情が一段と険しくなった。時計を見ればとっくに一時を過ぎている。さすがに空海も諦めの気持ちが強くなってきた。


「きっと急用ができたんだわ。四年生なら卒論で忙しいでしょうし」

「でもそれならこっちに連絡ぐらいしてくれてもいいじゃない。名刺渡したって言っていたわよね。携帯の番号も書いてあるんでしょう」

「そうだけど……電話できないくらい忙しいのかも」


 椎子は呆れた。付き合っていられないと思った。


「もういいわ。あたし帰る。黙って約束をすっぽかすような男に興味はありません。お守りなんかもうどうなったっていいわ」


 椎子は吐き捨てるように言うと早足で東口を出て行った。空海の口から深いため息が漏れた。勝手に約束を破るような人物には見えなかっただけに、今のこの現実を素直に受け入れられなかった。


「もう少しだけ、待ってみよう」


 * * *


 沢田が研究室に姿を現わしたのは午後三時十分前だった。帰るのを待っていた研究室の面々は大いに囃し立てる。


「おっ、ようやく御帰還か」

「ギリギリの御到着とは、さぞやお楽しみだったのでしょうな」


 院生が放った皮肉交じりの言葉に沢田の反応は鈍い。何の返事もない。何かあったようだと察した助手さんが心配そうに尋ねる。


「どうした沢田。バイキングで食い過ぎて腹が痛いのか」

「いえ、食べていませんから」

「食べてない? どうしてだ」

「来なかったんです。あの女性は来てくれなかったんです」


 研究室は一瞬でお通夜のような静けさになった。誰もが言葉を失っている。その沈黙を破って教授の声が響いた。


「始めるぞ。皆、実験棟へ移動だ。沢田、昼飯抜きでは体がもたん。テーブルに夕食用の弁当と夜食のパン、スナック菓子が準備してある。何でもいいから腹に詰めて実験棟へ来なさい」

「は、はい」


 研究室の面々が出て行くのを横目で見ながら、沢田はテーブルのパンにかぶりついた。


 本実験が始まった。風船は思ったよりも大きかった。パンパンに膨らむと沢田の背丈ほどの直径になる。それを担いで百メートルほど先にある低温研の施設へ運び実験棟へ戻る、これが実験終了まで続くのだ。


「どうして来てくれなかったんだろう」


 風船を運びながら沢田の頭に浮かぶのはその疑問ばかりだ。急用ができた、それが一番あり得る答えだ。東京と金沢を往復するビジネスウーマンともなれば、突発的な予定の変更ぐらい起こっても不思議ではない。

 たまたま今日それが起こった。運が悪かった。誰が悪いのでもない、そう言って自分を納得させようとしても、沢田の心は受け入れてくれなかった。


 最初の一時間は東口でじっと待ち続けた。それでも来ないと分かるともらった名刺を見て電話を掛けた。繋がらなかった。駅前の地図で金沢日空ホテルを探した。本屋へ行った。観光案内へも行った。得られた答えはどこも同じ「そんなホテルはない」だった。


「掛からない電話。見付からないホテル。どうしてそんな嘘をついたんだろう」


 その解は思い付かない。思い付かなければ先ほど導いた「急用ができた」という解も疑わしく思えてくる。沢田の疑心暗鬼は小さくなるどころか時間と共に大きくなるばかりだ。


「ここらで飯にしよう」


 午後七時頃小休止が入った。用意していた弁当を食べる。三十分も経たずに実験が再開される。

 雪と風が強くなってきた。弱々しい街灯の光に照らされた構内の夜道、沢田は風船を持って実験棟と低温研を行き来する。素手が寒さでかじかむ。低温の物体を扱う時は手袋をしないのが原則だ。軍手かタオルを手に持ち、包むようにして掴む。


 氷点下まで冷えた金属は危険だ。冷えた鉄板を舌で舐めると張り付いて離れなくなる。軍手でも同様のことが起きる。軍手をはめたまま凍り付けば軍手から指が抜けなくなり、最悪、凍傷を負うことになる。気化したと言ってもヘリウムの温度はかなり低い。ホースと風船の継ぎ目にある金属に触れないよう細心の注意が必要だ。


「低温研の中も寒いなあ」


 ヘリウムの気化を遅らせるために実験室に暖房器具はない。そしてガスを回収する低温研の施設は、職員が全員帰ってしまっているので暖房は切れている。

 冷たくなった手をこすりながら気体の回収機を作動させる。ポンプの作動音だけが鳴り響く建屋に一人でいると、まるで世界から自分だけが取り残されたような気持ちになった。


「教授の言葉通り、うまい話には裏があったんだろうか」


 人を騙すような女性には見えなかった。それに沢田のような有り触れた学生を騙す目的も分からない。待ちくたびれてがっかりする沢田の様子を、こっそり隠れ見て楽しんでいたのだろうか。いや、そんな悪趣味な女性とは思えない。じゃあ、どうして……考えれば考えるほど沢田の思考は深みにはまっていく。


「父さん……」


 沢田は右手を左胸に当てた。お守りを強く握りしめた。こんな時こそいつもの声を聞きたい、この気持ちを救って欲しい、心からそう願った。しかしお守りは何も答えてくれなかった。自力で解決しろ、そう言われているようだった。沢田は深いため息を付いた。


 深夜を過ぎた頃から一気に疲労が押し寄せてきた。一年に一度の実験とあって、実験を主導する院生は考え付く限りの実験テーマを用意し、そのための実験装置を一年かけて作製していた。

 ヘリウムがなくなる前に可能な限りの実験をしたいということで、頻繁に実験装置の換装を行う。ヘリウムが風船に溜まるまでは仕事がない沢田も当然換装作業を手伝わされる。余計な疲労が蓄積する。


「うう、風が強い」


 更に本業の風船運びもキツさが増してきた。強風が吹くとヘリウムの入った風船は風に持って行かれそうになる。積もり始めた雪で足が滑りそうになる。心身両面を襲うストレスは沢田の疲労を倍加させた。早くヘリウムがなくならないだろうか、沢田の頭の中はそれだけで一杯になった。


「あの、そろそろバイトの時間なので」


 時計が午前三時半を指したところで沢田は助手さんに申し出た。新聞配達のために途中で実験を抜ける了解は取ってある。


「ああ、もうそんな時間か。じゃあ君、代わって。沢田、早く戻って来いよ」


 最後の一言は脅しのように聞こえた。沢田は黙ってうなずくと実験棟を出た。


 徹夜で新聞を配ることはこれまでにも何度かあった。試験期間などは寝坊を避けるために敢えて徹夜することもあった。それなりに慣れているはずだったが、今日はいつにも増して眠気に襲われた。


「風船運びより新聞配達のほうが気は休まるな」


 何度も眠りそうになりながら沢田は新聞を配る。これまで配達中に眠ったことは何度かあった。一番多いのは立ったまま眠る場合だ。はっと気が付くと道の真ん中に突っ立っているのだ。始めた頃はこの現象がよく起きた。


 二番目は歩きながら眠る場合だ。これは主に電信柱に頭をぶつけて目覚めることが多い。目覚めた場所から逆向きにポストや差し入れ口を確認して眠り始めた位置を特定し、そこから新聞を配り続けることになる。


 この技術が高度に発展すると眠りながら配るという現象が起きる。沢田もまだ一度しか体験したことのない神懸かり的技能である。

 ふっと気が付くと自分がどこに居るのか分からない、どうやってこの場所に来たのかも覚えていない。歩いて来た道を逆戻りして新聞を確認していくと、きちんと配られている。ここは確かに配達したと記憶している場所まで配られているのだ。後日図書館で調べてみると、夢遊病の一種ではないかと思われた。


「意外とストレスには弱いのかもなあ」


 声に出したその言葉が昨日の記憶を呼び覚ました。待っても待っても現れない彼女。落ち込んでいく自分の心。待ち人が来ないことなど有り触れている。それくらいで気に病むほうがおかしい、そう言い聞かせても沢田の心は納得してくれなかった。


「ただいま戻りました」


 新聞を配り終わった沢田は下宿へ戻らず直接大学へ向かった。まだ実験は続いている。


「ああ、お帰り。じゃあ頼むよ」


 バイトに出ている間、沢田の代わりを務めてくれた院生からスパナを手渡された。超伝導コイルの排気口に風船のホースを固定するために使うスパナだ。沢田は礼を言って仕事に取り掛かった。


「眠い……」


 朝日を浴びて風船を運ぶ。これだけ起き続けていたのは初めてかもしれない、沢田は自分の足がふらつくのを感じた。体の疲労は思考力を奪う。実験も昨日の約束も、どこか遠い国の出来事のような気がしてきた。


「一旦中断!」


 八時前に休憩が入った。さすがに全員疲れているようで口数が少ない。黙々とパンを食べ、コーヒーを飲んでいる。


「どうした沢田、食わないのか」


 体力だけは誰にも負けない助手さんが心配そうに話し掛けた。沢田は椅子に座りこんだまま何もせずにうな垂れている。


「はい、食欲がなくて……」


 助手さんが教授に目配せした。沢田の憔悴の原因は体の疲労だけでないことは誰もが分かっていた。教授は立ち上がると沢田の肩を叩いた。


「帰って休みなさい。メインの実験はほとんど終了した。ヘリウムも後四時間もすればなくなる。今日はここまででいい。ご苦労だったね、沢田君」

「あっ、いえ、ボクは大丈夫ですから……」

「大丈夫じゃないだろ。風船を運んでいる時に転んで怪我でもされたら迷惑なんだよ。いいから帰れ!」


 口は悪いが思い遣りのある助手さんが沢田の背中を叩く。前のめりになった体をふらつかせながら立ち上がった沢田は、

「それでは、お先に失礼します」

 と言い残して部屋を出た。


 自転車を漕ぐ足に力が入らない。歩いたほうが早いのではないかと思えるくらいだ。今は一刻も早く体と心を休ませたい。浅野川沿いの道を進む沢田の頭の中は真っ白だった。梅の橋が近づいてくる。いつものように自転車を下りスロープを上ろうとしたところで、沢田の足は止まった。


「ど、どうして、こんな時刻に……」


 腕時計を見る。八時三十分。いつもより二時間近く遅い。絶対にここにはいない時間だ。なのに橋の中央には彼女が、新谷空海が立っているのだ。


(引き返そうか……いや、だめだ。向こうもこちらに気が付いている。ボクを待っていたのだとしたら、引き返しても追い掛けてくるだろう)


 沢田は右手を左胸に当てた。声は聞こえない。彼女を見掛けるようになってから、まるでお守りの神通力が消滅したかのように、何の声も聞こえなくなってしまった。


(今の自分は自分の言葉を制御できない。身の内に獣を飼っているのと同じだ)


 沢田は次第に膨れ上がってくる心の闇を鎮めながら、ゆっくりとスロープを上り始めた。 

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