噛み合わない二人

「今日は時間通りね」


 スロープを上り始めた沢田の姿を見て空海はにっこりと微笑んだ。これまで何度も訪れたこの橋。それはあくまでも早朝の景色を楽しむ散歩でしかなかった。しかし今朝は違う。自転車を押してこちらに向かっているあの青年、沢田と話をするためにここで待っていたのだ。


(今朝も向こうから話し掛けてくるかしら)


 空海はいつもと同じように高欄に体をもたせ掛けて川の上流を眺めていた。沢田が近付いてくる。


「クミさん、おはようございます」


 明るく元気な声。空海は心の中でほくそ笑んだ。今日は挨拶の言葉の前に名前が付いている。自分への好感度は前回より上がっていると考えて間違いない、これなら立ち入った話をしても大丈夫のはず。空海は高欄にもたれたまま、顔だけを沢田に向けて返事をした。


「おはよう、タク君。今日はこの後、何か予定が入っている?」

「予定? いえ別に」

「そう。実は話があるの。ちょっと時間を取らせてもらっていいかしら」

「あ、はい、どうぞ」


 沢田が自転車のスタンドを立てた。それを見た空海は少し落胆した。ここではなく川沿いに整備された公園のベンチで話をしようと思っていたからだ。空海の目的は沢田とお守りの関係を聞き出すことにある。立ち話で済むような話にはならないはずだ。


(だからって、いきなり場所を変えようと言い出すのも不自然ね。まずは世間話から始めましょうか)


 空海は高欄を離れて姿勢を正すと、沢田の目を真っ直ぐ見詰めて言った。


「私が町家を改修して喫茶店を開こうとしていること、覚えている?」

「ああ、その話ですか。覚えていますよ。そのために金沢と東京を往復しているんでしょう」


 言葉遣いは丁寧だが表情は曇っている。沢田にとってはあまり愉快な話題ではないようだ。


「いよいよ来年開店の予定なのだけれど、喫茶店のメニューで行き詰っているの。他の店と差別化できるような売りが決められないのよ。特色のある料理、特色のあるドリンク、特色のあるサービス。多くの人から沢山意見をもらっているけれど、これって言うのがなかなか見つからなくて。タク君、何かいい案はない?」

「えっ、そんなこといきなり言われても。ボクなんかよりその道に詳しい人は一杯いるんじゃないですか」


 前回話をしている時も困惑した顔をしていたが、今回はそれに輪を掛けた困り顔だ。いや迷惑そうな顔と言ったほうが正しいかもしれない。


「無理なことを言い出してごめんなさい。でもタク君みたいな人は私の知り合いには少ないのよ」

「少ない? ボクなんてありふれた一般人ですよ」

「そんなことないわよ。喫茶店を開く地元に住んでいる二十歳前後の男性、ここまで限定するとタク君は全然ありふれてなんかいない。観光目的の外国人やお年寄り、それに若い女性が喫茶店のメインターゲットなのだけれど、地元の人や男性旅行者にも立ち寄ってもらえるような魅力が欲しいの。お願い、知恵を貸して」


 これは空海の本音だった。話の目的はあくまでお守りではあるが、客層を広げなければ観光地で生き残るのは難しいと常々感じていた。沢田のように普段付き合いがない年齢層の男性からも多くの意見が欲しかったのだ。


「う~ん、そうだなあ」

「難しく考えなくてもいいのよ。そうね、それならタク君はどんな喫茶店に入りたい? こんな料理、こんなドリンク、こんなサービスのある喫茶店なら喜んで利用したい、そう思わせてくれるのはどんな店?」

「それは言うまでもなく安い料金で沢山食べさせてくれる店です!」

「ぷっ!」


 何の迷いもなく答えた沢田を見て空海は思わず吹き出してしまった。若い男性が一番心を魅かれるのは考えるまでもなく大食いだ。


「ふふっ、それは良い考えね。体格の立派な外国人観光客には大盛りの料理は喜ばれそう」

「でしょ。アメリカのハンバーガーなんて桁外れの大きさですから」

「でもお年寄りや若い女性にはかえって敬遠されそう。食べ残しをして申し訳ないって思われそうだし、太るから食べたくないって人もいるでしょうし」

「そうかあ、そうですよね。う~ん……」


 沢田は腕を組んで真剣に考えている。こんな質問にも真面目に取り組んでくれる姿に空海は好感を覚えた。


「それならドリンクのほうで工夫してみたらどうですか」

「ドリンクで? 何をするの?」

「カップを大きくするんです。そしてドリンクを入れた大きなポットと一緒に空のまま出すんです。お客さんは好きな量だけ注いで飲めるし、カップが空になればポットに残っていてもあまり気にならないでしょ。ドリンクなら量が二倍になっても材料費はそんなにかからないと思うし、どうですか?」


 正直、それは多くの店で行われている新味のないサービスだった。恐らく沢田はそんな店には入ったことがないのだろう。あまり参考にはならないが、それでも知恵を出してくれたことに空海は感謝した。


「いいわね。検討してみる。色々考えてくれてありがとう、それで、もうひとつ話が……」

「あっ、そうだ」


 空海が言い終わらないうちに沢田が大きな声を上げた。


「今日、洗濯したいんですよ。ホラ、ここんとこずっと雨が降っていたのに今日は珍しく晴天でしょう。天気が崩れないうちに溜まっている洗濯物を片付けなくちゃ」


 沢田が自転車のスタンドを上げた。空海は焦った。まだ本題に入っていない。


「あっ、ちょっと待って」

「まだ何か?」


 空海は迷った。ここからの話は間違いなく長くなる。だが沢田は一刻も早く帰りたい様子だ。別の時間に会うのはどうだろう、いや、この後は予定が夜まで詰まっているしその準備もある。今日は無理だ。明日にしたとしても早朝に長話は迷惑だろう。でも昼間なら……


「えっと、知恵を貸してくれたお礼をさせてくれないかな。明日のお昼、一緒に食事をしない? 私がご馳走するわ」

「ご、ご馳走してくれるんですか!」


 沢田の表情が一変した。ご馳走の山の前でお預けを食わされている飼い犬のような顔になっている。やはりこの年頃の男子は食べ物で釣るに限る。


「明日はちょうど二十四日。ランチだからクリスマスイブとは言い難いけれど、ご馳走させてちょうだい。場所は、そうね、駅前の金沢日空ホテルにしましょう。あそこのランチバイキングなら満足してもらえると思うわ。一階ロビーに十二時でどうかしら」

「金沢、日空ホテル……あのすみません、ボク、駅前はあんまり行ったことがなくて。そんなホテルあったかな」


 空海は驚いた。下宿と大学と新聞販売所を往復するだけの毎日だとしても、ここまで世間知らずだとは思ってもみなかった。


「それなら金沢駅の東口にしましょう。それなら分かるでしょう。待ち合わせ時刻は十二時でいい?」

「はい。大丈夫です。ありがとうございます」

「そうそう、もし何かあるといけないから、携帯の番号を教えてちょうだい。私の番号は名刺に書いてあるから遅れそうなら電話して」

「携帯……ですか?」


 沢田からの返事がない。まるで大学の講義を受けている小学生のように、きょとんとした顔をしている。


「携帯でなければスマホかしら。それともこんな見ず知らずの女性に電話番号を教えるのは嫌?」

「えっと、電話は下宿にしかありません。外出すれば受けるのも掛けるのも不可能になるので、教えても意味はないと思うのですが」


 空海は驚きを通り越して呆れてしまった。小学生でも携帯を持っている時代に、固定電話しか通信手段を持たない大学生がいたのだ。想定の範囲を完全に超えている。


「そ、そうなの。タク君も色々大変なのね。それでは明日正午、金沢駅の東口で会いましょう」

「了解しました。さようなら」


 沢田は速足で自転車を押していく。その姿が見えなくなってから空海は右手を上着のポケットに入れた。握り締めたお守りはひどく冷たく感じられた。


 * * *


 下宿に帰った沢田は洗濯物を抱えて一階奥の土間へ急いだ。今日のように朝から晴天の場合、ひとつしかない洗濯機は取り合いになる。早い者勝ちなのだ。


「よし、一番乗りだ。今日は朝からツイてるぞ」


 洗濯機に水が溜まるのを待ちながら沢田は橋の上の出来事を振り返った。最初、喫茶店の話を出された時には一瞬で憂鬱な気分になってしまった。本音を言えば協力なんてしたくはなかった。だが、そのご褒美はちゃんと用意されていたのだ。十二月二十四日に、ホテルで、ランチバイキング、それも女性と一緒に。


「世の中一寸先は闇って言うけど、闇の中にはお宝が隠れていることもあるんだなあ」


 沢田は右手を左胸に当てた。辛い時も嬉しいも常にそこにあるお守り。それに触れるだけで辛さは半減し、喜びは倍になるのだ。


「だけど、金沢日空ホテルなんてあったっけ」


 駅前には本当にほとんど行ったことがない。新聞配達を始めてから一度も帰省していないし、鉄道を利用する用事もないからだ。しかし金沢にはそれほど多くのホテルがあるわけではない。ランチバイキングを行っているホテルとなると尚更だ。


「大学で誰かに聞いてみるか」


 先ほど空海に用はないと言ったが、あれは嘘である。明日から始まる実験準備のために、今日は大学へ顔を出すように言われていた。もっとも研究室配属になってからは用事がなくても大学へ行っていた。学生の机が置かれている居室は冷暖房完備。夏は暑く冬は寒い下宿の部屋に比べれば天国と地獄ほどの違いがある。


「明日のランチの件、皆にも一応報告しておこう。別に自慢したいわけじゃないけど」


 そう言いながらも沢田の顔はニヤニヤが止まらなかった。


 それからはいつもの朝だ。洗濯物を窓の外に吊るし朝食を済ませて一服した後、沢田は下宿を出た。大学の研究室には昨晩夕食を共にしたメンバーが全員揃っている。


「すみません、明日なんですけど……」


 今朝、橋の上で起きた出来事を沢田が話すと、居室の中は騒然とした雰囲気になった。


「年一回の実験日に女性とランチですか。やりますね」

「すみません。本実験開始の三時頃には必ず戻りますから」

「しかし信じられんな。女性にはまったく縁のない沢田がデートとは」

「デートじゃありませんよ。単に話をするだけです。たぶん喫茶店に関する話題じゃないかな」

「町家を喫茶店にするのは反対なんだろ、沢田君は」

「そうですけど、食事をご馳走してくれるって申し出を、断ることなんてできないでしょう」


 三人が呆れた顔になった。結局のところ色気より食い気なのかと問い詰めたそうな表情だ。


「それで訊きたいんですけど、金沢日空ホテルって知っていますか。駅前にあるらしいんですけど」


 今度は三人が互いに顔を見合わせた。首を振ったり捻ったりしている。


「ないよ。そんなホテルはない」


 先ほどから黙って成り行きを見ていた教授が言った。


「沢田君、うまい話には必ず裏がある。用心したほうがいいね。さて、それでは明日の実験の最終打ち合わせをしようか」


 それからは会議室でミーティングとなった。沢田が所属する研究室では大強度電子ビームを使った研究を行っている。今回は磁場中で曲げられた電子が発する電磁波を測定する実験だ。

 電子の加速電圧は一MV。速度は光の九十四%になる。これだけ高速の電子を曲げるには強磁場が必要になるので超伝導電磁石を使う。

 超伝導コイルの冷却に使うのは液体ヘリウムだ。これは非常に高価な寒剤で、研究予算の乏しい地方大学の一研究室がおいそれと購入できるものではない。よって年に一度しか実験を行わない。冬の夜間に行うのは、ヘリウムの気化の速度が少しでも遅くなるようにとの配慮からだ。


「沢田君の仕事はヘリウムガス回収だけど、問題ないね」

「はい、頑張ります」


 ヘリウムは貴重である。リサイクル資源と言ってもよい。寒剤として使われたヘリウムは当然気体となるが、そのまま空中に放出するようなことはしない。きっちり回収して構内にある極低温研究施設のボンベに充填する。

 問題は実験室から低温研までどのようにヘリウムを運ぶかだ。それ専用の配管を作ってくれればいいのだが、年に一度の実験でそんな金のかかることはしない。


「これを使ってくれ」


 沢田が見せられたのは巨大ゴム風船とでもいうべきものである。自転車のタイヤチューブのように頑丈なゴム袋にホースが取り付けられている。このホースを超伝導コイルの気体排出口に繋ぎ、気化したヘリウムガスがある程度溜まったところで外し、肩に担いで低温研へ運び入れてボンベに充填するのだ。


「実験はどれくらい続くんでしょうか」

「ヘリウムがなくなるまで休みなくやるよ。二十四日の午後実験開始なら、まあ、クリスマスの昼までには終わるかな」


 当日の気温が高くならないかと祈りたくなる沢田である。


 ミーティングが終わって昼食をとったところで沢田は帰宅した。少しでも眠っておこうと思ったのだ。


「明日は新聞配達、ランチ、実験、そして翌朝の新聞配達。間違いなく一睡もできないな」


 それでも沢田は明日の来るのが楽しみで仕方がなかった。初めての、女性と二人きりの二十四日。初めての、女性と二人きりの食事。そして初めてのホテルバイキング。何もかも初めて尽くしだ。

 沢田は右手で左胸を触った。ふと、心に陰りができた。「そんなホテルはない」という教授の言葉が頭をよぎった。


「いや、大丈夫。待ち合わせはホテルじゃなく駅の東口、その場所はちゃんとあるんだ。この前、地震が起きた年を勘違いしたみたいに、きっと別のホテルと間違えたんだ。弘法だって筆を誤るんだから」


 右手でお守りをしっかりと握り締める。それでも心の陰りはなかなか晴れなかった。

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