1991年12月 奪われていく夢

 沢田の胸の鼓動はまだ鎮まらなかった。自転車を漕ぎながら先ほどの自分を思い出す。女性と会話をしていた。販売所の奥さんではなく、大学の窓口係ではなく、スーパーの店員でもなく、自分とは何の関係もなくきっとこれからも何の関係もないはずの女性、そんな人と話を、それも昨日に続いて今日も話をしていた自分。


「有り得べからざる事態が起きてしまったな」


 玄関に自転車を置き、新聞と雨具一式の入った袋を前カゴから取り出す。一直線に部屋へ駆け込み、右手を左胸に当てる。まだ胸の高鳴りは収まらない。


「昨日は挨拶だけだった。今日は自己紹介をしてしまった。次はどこまで行くんだろう。ふっふっ」


 思わず笑いが漏れる。しかし沢田自身、彼女との仲はこれ以上発展しようがないことは分かっていた。橋の上でもらった名刺を取り出す。「新谷空海」の横に旧姓が併記されている。沢田の直感は正しかった。空海は既婚者だ。


「今日は間近で見たから分かる。きっと三十代だろうな。子供がいてもおかしくない感じだ」


 それでも沢田の落胆はさして大きなものではなかった。仮に相手が未婚者だったとしても今の状況と変わるはずがないからだ。

 自分は安い下宿に住み、なんとか食っているだけの収入しかない貧乏学生。相手は東京に住み、名刺を持ち歩くほどの立派な肩書を持ち、更には金沢で喫茶店をオープンさせようとしている実業家。そんな女性と会話ができただけでも御の字だ。


「才色兼備という言葉がピッタリな人だな。性格も優しそうだし。あ、そう言えば意味不明なことを喋っていたっけ。大震災って何だろう」


 沢田には思い当たる節はなかった。記憶に新しいところでは百人以上の死者が出た日本海中部地震だが、発生は八十年代のはずだ。


「きっと十年前と言い間違えたんだろうな。あんな聡明な感じの人でも間違えることはあるだろう。弘法にも筆の誤りってやつだな。名前が空海だけに……ふっ」


 自分でツッコンでおいて悲しくなる沢田である。


「でも町家をビジネスの対象にするのはちょっと承服しかねるな」


 沢田の表情が険しくなった。町家を改修して喫茶店にする、その考えだけは受け入れられないのだ。

 沢田は古いもの、時代を感じさせるものが好きだ。好きなものはそのまま残しておきたい、現代人の手を加えたりせず昔のままの姿をずっと留めておいて欲しい。花瓶に活けられ形を整えられた華麗な生け花を愛でるのではなく、日の光を浴び風に吹かれる野の花を愛でるように、この金沢という街もこのままの姿で眺めていたい、そう思うのだ。


「まあ部外者だからこそ言える要望なんだろうけどね」


 自分の思考が完全に観光客の立場からの視点であることは沢田も重々承知していた。金沢に定住している者にとっては、いつまでも古色蒼然とした環境で暮らしていくわけにはいかない。古いものは修理し、壊し、新しく作り直さなくては不便で仕方がない。

 沢田は右手を左胸に当てた。お守りは何も言わない。胸ポケットから取り出して袋の口を開く。


「生まれて初めてもらった名刺だ。一緒に入れておこう。さてメシにするか」


 朝食は白米だ。近くの米屋で売られている米が驚くほど安かったので、炊飯器を購入し、朝と夜のご飯を一緒に炊く。パンより安上がりである。おかずは具のない味噌汁と漬物、ぜいたくして納豆。その程度で十分だ。


 タイマー式の炊飯器なので既に炊き上がっている。コタツに足を突っ込んで丼飯を掻きこむ。このコタツは退寮したと聞いた母がわざわざ買って送ってくれたものだ。部屋の奥には勉強机もある。冬は滅多に使わない。コタツのほうが暖かいからだ。


「あの勉強机は大失敗だったな」


 沢田はポットの白湯を飲んで一息入れると、この部屋に住むことになった当時の自分を振り返った。


 * * *


 月六千円、それは三階の部屋の家賃である。当初、沢田は現在住んでいる二階の部屋ではなく、三階の北側の部屋を借りたのだ。

 退寮に当たって三回生にして寮長の同室人から「考え直せ」と説得されるのではないかと心配したが、


「へえ~、体に気を付けてな」


 としか言われなかった。賄部の部長も同じような反応である。その理由は寮の食堂にぶら下がっている、学年ごとに色分けされた寮生の名札を見れば一目瞭然だった。

 一番多いのが一回生。二回生はその半分以下。三回生は更に少なく、四回生は希少価値となり、それ以上は絶滅危惧種である。つまり一回生が一年で退寮するのは至極当たり前の現象なのだ。


「やはり机がいるな」


 寮には机、ベッド、本棚、物入れの四点は備え付けられている。従って実家からはそれらの家具を運んでこなかった。三階の部屋への引っ越しが完了した沢田の目の前にあるのは布団、服、本、その他だけである。

 読書するだけなら畳に寝っ転がったままでもよいが、レポートを書いたり、試験勉強をするのに畳で寝っ転がったままでは集中力の維持が難しい。なにより書きにくい。実家にある机を送ってくれと頼んでもいいが送料がバカにならない。しかもこちらから頼めば間違いなく着払いで送ってくるはずだ。


「なんとか安い机はないものか」


 春休みもバイトを入れていたが、新聞配達による経済状況の好転によって毎日やる必要はなかった。空きの日にはあちこちの古道具屋を探し歩いた。金沢は古本屋も多いが古道具屋も多い。ほどなく沢田は手ごろな勉強机を見付けた。


「うん、いい感じだ」


 かなり古い。全体的に色褪せている、と言うか変色している。もちろん傷も多い。天板はザラザラしている。もはやアンティークというより粗大ゴミと言った方が正しい。しかし沢田は古いものが好きだ。一目で気に入ってしまった。


「問題は値段か」


 値札は付いていない。交渉次第ということなのだろう。引き出しを開けたり、上から見たり下から見たり、散々迷った挙句、沢田は古道具屋の主人に値段を尋ねた。


「椅子と一緒なら二千円でええよ」

「買います!」


 即決である。が、この店から下宿までは数キロある。さすがに担いでいくには遠すぎる。それを古道具屋の主人に話すと、


「なら、リヤカーを貸してやる」


 と言う。石川県の観光パンフレットには「能登は優しや土までも」と書かれていたりするが、加賀の人もなかなかに親切である。

 沢田は金を払って礼を言い、リヤカーに机を乗せて下宿まで運んだ。二階まで運び、さて三階に上げようとした時、


「大きすぎる……」


 二階から三階への階段が予想以上に狭く机が通らないのだ。横にしたり、縦にしたり、斜めにしたりして、なんとか机を通そうとしても無理だった。

 しくじった、と沢田は思った。ここは現代建築物ではなく築百年は経とうという古民家。当時の町家としては珍しかった三階への階段が極端に狭いのは、考えるまでもないことだ。机が部屋に運べる大きさかどうか、事前に寸法を測っておかなかったのは大失態であった。


「どうしなさった」


 二階の階段で奮闘する沢田に気付いたのか、お婆さんが一階から上がってきた。お爺さんも上がってくる。事情を説明する。お爺さんはしばらく考えた末に言った。


「二階の部屋に移ってはどうやがねぇ」


 そして紹介されたのが、現在沢田が住んでいる畳五畳の部屋である。恐らく居室ではなく納戸として使われていたのだろう。南に窓はあるが日当たりは良くない。風通しも悪い。通りに面して大きな窓がある三階の部屋に比べると居住環境は比較にならないほど劣悪だ。

 しかし五畳なので家賃は五千円でいいと言う。月千円節約できるのは大きいし、この部屋に住むのが一番簡単な解決策である。沢田は仕方なく了承した。


「その後にコタツが来たんだよな」


 沢田の後悔は更に続いた。実家からコタツが届いたのだ。もちろん新品ではない。明らかに使い古しのコタツと布団である。きっと親類から譲り受けたものだろう。古いものを大切にするのは沢田家の家訓である。


「あ~、そうかあ。コタツでよかったんだ」


 送られたコタツを使い始めて沢田はその万能性に気が付いた。食卓、勉強机、冬季の暖房器具、仮眠用布団、これがあれば勉強机など要らなかった。


「余計な買い物をしてしまったなあ」


 二千円を出していい勉強をさせてもらった、沢田はそう考えて自分を慰めた。


 * * *


「でもまあ、夏はあの机で勉強していたわけだし、二千円分の価値はあったんじゃないかな」


 食後の白湯を飲みながらこの机と共に過ごした三年間を思い出す。卒業後は大学の研究室に引き取ってもらうことになっている。勉強机としてでなく作業台として余生を送れるはずだ。


 食事を済ませた沢田は大学へ向かった。今は十二月。就職先は決まった。卒業に必要な単位はほとんど取れている。卒論も目途が付いてきた。この時期は講義室で過ごす時間より配属された研究室で過ごす時間の方が長い。院生が取り組んでいる実験の手伝いをしながら夜遅くまで大学に残る。


 食事もそろって食べに行く。メンバーは教員である助手さん一名、院生二名と沢田の四人。昼は学食で済ませることが多いが、夕食は学外へ出ることが多かった。経済的余裕ができた今の沢田は、そんな贅沢ができるほどに食生活が改善していたのだ。

 沢田のお気に入りは歩いて数分の場所にある食堂松乃屋の生カツ丼だ。


「えっ、手抜きでしょ、これ」


 初めて見た時はそう叫んでしまった。ご飯の上に乗っているのはソースをかけたトンカツ、そして殻を割っただけの生卵、それだけだ。


「味付けを個人の裁量に任した、非常に自由度の高い料理と言えよう」


 という院生の食べ方を真似て沢田もいただく。卵掛け御飯とトンカツを一緒に食べているような味わいだ。トンカツにかかっているのは普通のソースだが、ご飯には甘い醤油だれがかかっている。思ったよりも美味い。

 それ以来、沢田はこの店ではこの料理しか頼まなくなった。その日の気分で味を変えられる点が気に入ったのだ。もちろん今日もそれを注文した。


「来年には移転か。そうなるとこの店にも来られなくなるな」


 院生が寂しそうに言う。沢田が入学する前から大学の移転は決定事項だった。既に二年前、二の丸にあった文系三学部は浅野川上流への移転を完了していた。

 沢田が属する学部が移転するのは来年。その頃には卒業してしまっているので沢田には関係のない話だが、四年間学んだ校舎がなくなると思うと物寂しい気持ちになる。


「大学を移転させて更地にした後は、城門や櫓を復元して観光客誘致の材料にするつもりなんだろうな」

「新幹線も今年の九月には長野までの工事が始まったし、いつになるか分からんが金沢まで来るのは確実だからな。それまでに観光資源を整えておきたいのさ」

「まあ、それで北陸の小都市が賑やかになれば市民も喜ぶのではないですか」


 話を聞いているうちに沢田はもやもやとしてきた。今朝聞かされた町家を喫茶店にする話。今聞かされている大学を追い出して観光地にする話。いずれも沢田の信条には相容れない内容だ。


「ボクは城の復元には反対です。古い物を新しくして誰が喜ぶんですか。城跡しか残っていないならそのままを見せればいい。古民家だって安全性が保てる程度の補修に留めて、古いまま残せばいいんです。そういったものを楽しむのが本当の観光じゃないんですか」

「古民家? おいおい沢田、誰もそんな話はしていないぞ」


 正面に座っている貫禄たっぷりの助手さんにたしなめられて、沢田は馬鹿なことを口走ったと後悔した。そんな主張をさせたくなるくらい、今朝の町家喫茶の話は沢田の神経を逆撫でしていたのだ。


「無口な沢田君にしては珍しい物言いだね。さては何かあったのかな」


 院生にそう言われて、今朝、橋の上で空海から聞かされた話をする。会話した相手が三十代の美女ということで夕食の場は一気に盛り上がったが、既婚者だと分かると水を打ったように静かになった。


「まあ何と言いますか、古いもの好きの沢田君には辛いかもしれないけど、町家を活用するのは悪くないと思いますよ」

「そもそも古いものなんてどんどん姿を消しているじゃないか。高層ビル、マンション、大型ショッピングセンター。以前にそこにあったはずの建物なんて、知らないうちに影も形も無くなっている。それに比べたら町家を改修して使おうとするのは、むしろ歓迎されるべきなんじゃないか。部分的にしろ昔の姿を残して利用しているんだから」

「……そうですよね」


 沢田は右手で左胸のお守りを握り締めた。何も教えてくれない。教える必要がないからだ。沢田自身も分かっているのだ。正しいのは自分ではなくあの女性であることを。自分の考えは単なる我儘に過ぎないことを。だが、それでも言わずにはいられないのだ。


「ところで、いいか。来週はいよいよ実験だからな。体調を整えておいてくれよ。風邪などひかないようにな」


 それから話題は現在取り組んでいる研究内容一色になった。沢田は口出しせず黙って生カツ丼を掻きこんだ。



 数日後の早朝、配達を終えた沢田は新聞一部を前カゴに乗せて自転車を走らせていた。

 年に一度の実験は明日、二十四日の午後開始だ。噂通り徹夜になるのは間違いないようだ。今日一日と明日の午前中は実験に備えてじっくりと休養を取ろう、そう考えながら梅の橋のたもとで自転車を下りた沢田の血圧が一気に上昇した。橋の中央に立ってこちらをじっと見詰めている女性、新谷空海の姿を認めたからだ。

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