交錯する二つの「今」
2015年12月 描いていた夢
「きっと新聞配達を始めたのは最近なのね。冬になると辞める配達員が多いと聞くから」
金沢を訪れた時の早朝散歩は半年ほど前から空海の日課になっていた。彼を見掛けるようになってまだひと月ほど。つまり新聞を配り始めたのもその頃からなのだろう。
青年の姿が小路に消えると、もたれていた高欄を離れて空海も右岸へ歩き始めた。
「今朝も同じだったわ、不思議な違和感。あの子と擦れ違う時にはいつもこの感じに襲われる……」
それは言葉に言い表せない感覚だった。あの青年が梅の橋を歩いている時だけ、自分を取り巻く世界が微妙にズレてしまうように空海は感じていた。気のせい、と言ってしまえば済まされるようなズレではあったが、青年に会うと必ず起きる精神的変調は、自身の健康に対して一抹の不安を抱かせた。
「疲れているのかな」
梅の橋の階段を下りながら自嘲気味につぶやく。実際、ここ数カ月の空海は多忙を極めていた。町家喫茶の企画書を何度も書き直し、東京と金沢を頻繁に往復して打ち合わせを繰り返している。立ち上がりの今が一番キツイ時期だ。空海はコートのポケットに右手を入れて中のお守りを固く握りしめた。
「ダメね、弱音を吐くなんて。疲れているなんて言ったら本当に疲れた人になってしまう」
橋を下りた空海は川沿いの道を曲がった。青年が消えて行った小路にはもう彼の姿はない。いつもそうだ。どんなに早く青年を追っても、小路に入れば必ずその姿は消えてしまっている。家がこの近くだとしても自転車すら見当たらないのは不自然だ。小路に入るや否やすぐに自転車に跨り、脱兎の如く去ってしまった、そう考えるしかない。
「よほど漕ぐのが速いのね。なんだか不思議な子だわ」
仕事帰りの青年は早く帰宅したいのだろうが、こちらは特に急ぐ理由はない。空海は小路をのんびりと歩いた。
歩きながらどうして今朝に限って青年に話し掛けてしまったのだろうと考える。これまでは擦れ違いざまに軽く頭を下げるだけだった。「おはよう」の一言さえ発したことはなかった。なのに今日は思わず声を掛けてしまった。どうしてだろう……ふと、空海は立ち止まった。ポケットの中からお守りを取り出して問い掛ける。
「ねえ、お守りさん、どうしてかしら?」
もちろんお守りは何も答えてはくれない。ふふっと笑ってお守りをポケットに入れると、空海はまた歩き始めた。
浅野川と卯辰山に挟まれた民家が並ぶ小路。観光地として有名な茶屋街から外れているとはいってもここは旧
「小京都なんて言われることもあるけど、やはり金沢は城下町。公家ではなく武家の町だわ」
十二月早朝のひんやりとした空気の中、一本道ではあるが真っ直ぐではない道を歩いていくと右側に鳥居が見えてくる。卯辰神社だ。
空海は鳥居の前で軽く頭を下げ、後ろを振り返った。三階建ての古びた町家が目の前に静かに立っている。今は誰も住んでいない空き家。けれども来年には観光客の憩いの場となるはずの空き家。自分の夢を現実にしてくれる空き家。これまで多くの人々に見守られ、これからも多くの人々を見守り続けていくであろう町家を仰ぎながら、空海はこれまでの自分を振り返った。
* * *
空海は岡山県倉敷市で育った。県庁のある岡山市に次ぐ県内第二の都市。中国地方でも三番目に人口が多い中核都市だ。大都会とは言えないまでも商業も流通もそれなりに発達し、居住地としては申し分のない土地である。
それでも空海は東京へ出たいと思った。ひとつしかない人生ならばできるだけ大きな挑戦をしてみたい、それが子供の頃からの夢だった。高校卒業と同時に空海は東京へ出た。無我夢中で働いた。金を貯め、結婚して子供を作り、念願のキッズ向けアパレルブランドを立ち上げた。
「馬車馬みたいに突っ走ってきたけど、もう三十代か。少し手綱を緩めてもいい頃かもね」
ようやく自分を振り返る時間が持てた時、空海は旅をするようになった。仕事の合間に日本各地を巡る旅、金沢に来たのもそんな旅のひとつに過ぎなかった。たまたま友人が金沢に移住したこともあり、足繁く通うようになっていたのだ。
「ここは倉敷に似ている」
大きな戦災に遭うこともなく昔ながらの家々が残る町並み。茶屋街に軒を連ねる格子窓の町家。兼六園の正面で百間掘りを見降ろす石川門のなまこ壁。それらは倉敷に今も残されている風景でもあった。
更に趣を与えるのは天候だ。瀬戸内の倉敷は晴れの日が多く雨は少ない。雪もほとんど降らない。一方日本海に面した金沢は日照時間が非常に少ない。晴れの日は少なく、特に冬はほとんどが曇り空と雨と雪。自然によって与えられる陰影が、昔ながらの町並みに古風な情緒を際立たせるのだ。
金沢を訪れれば訪れるほど、空海はこの土地の魅力に引き寄せられていった。そして親しく付き合っていた知人が金沢に店を出すと聞いた時、遂にその感情を抑えきれなくなった。
「私も店を出したい!」
それは急な思い付きなどではなく、ずっと以前から抱いていた希望だった。数年前に立ち上げたアパレルブランドに実店舗はない。それでは本当の付き合いはできない。相手と直に向き合い、直に言葉を交わしてこそ互いに理解し合える関係になれる、東京と違って何もかもがゆったりと流れていくここ金沢でなら、それに相応しい空間が作れるはず……空海の想いは日増しに強くなっていった。
金沢市は自治体自らが積極的に町家の再生、活用に取り組んでいる。町家の修復や内装改修にかかる費用の助成制度。また町家を利用した起業、創業を支援する補助金、助成制度もある。
空海も金沢での出店は町家を利用しようと考えた。友人の紹介や自分の足で希望に適う物件はないかと探し回る日々。そんなある日、浅野川から寺院群へ向かう道を歩いていた空海の前に古びた神社の鳥居が現れた。
「随分古い神社みたいね」
鳥居の脇に一対の狛犬が置かれている。口を開けた
「あら、紐が結んであるわ」
逆さ狛犬の前足に、擦り切れて色褪せた一本の紐が括り付けられている。空海は精一杯手を伸ばしてそれに触れようとした。
「あっ……」
まるで触れてくれる誰かを待っていたかのように、紐は切れて地に落ちた。空海はそれを拾った。鳥居の向こうに古い町家が見える。
「ここ……他の場所とは違うわ」
正面には年代を感じさせる三階建ての町家。道を隔てて卯辰神社の鳥居。向き合って立つ二つの存在は、互いに語り合い、励まし合い、寄り添い合っているように見えた。空海が求めてきた相手と理解し合える空間、それが今、目の前に出現したように思えた。
「こんな場所は世界にここしかない。決めたわ!」
心が固まれば行動も早くなる。出す店は町家を改修した喫茶店。すぐに企画書を作成し関係者を回った。折しもその年の三月には北陸新幹線が金沢まで開業し、東京とは二時間半で結ばれた。外国人にも人気が高い観光地なので採算は十分見込める。
「いや、これではちょっと話になりませんね」
最初の企画書はにべもなく門前払いを食らった。それでも多くの仲間の知恵を借り、協力を仰ぎ、何度も書き直すうちに、ようやく話は具体的にまとまり始めた。このまま順調に進めば来年の秋、十月頃に開店できそうな段階まで話が進んでいる。
「ここまでは大変だった。でもこれからももっと大変なはず」
空海はこれまでの経緯を思い出しながらポケットからお守りを取り出した。それはひと月ほど前、修理業者と共に町家の調査を行った時、床下点検をしていた業者が基礎と土台の隙間から見付けたものだった。袋がボロボロだったので新しい布袋と交換して持ち歩いている。
「クミ。お散歩、お疲れさま」
いきなり背後から声を掛けられ、空海の回想は一瞬で消し飛んでしまった。振り向くと子供のように無邪気な顔をした
「さっきからずっと見ていたわよ。家の前でぼーっと突っ立って、何を考えていたの」
「別に。やっとここまでたどり着けたのねって思って」
返事を聞いて椎子が笑顔になった。これまの空海の努力をずっと見守っていた彼女も、町家喫茶の開店が現実のものとなって嬉しいのだ。
「寒いから中へ入ろうよ。古屋でも外にいるよりは暖かいでしょう」
椎子に言われて二人は町家の中へ入った。日の出の時刻は過ぎているが照明のない屋内は薄暗い。
「ねえ、クミ。最終的な企画案、見たよ。結局三階は使わないんだね。なんだか勿体ないなあ。せっかくの三階建てなのに」
「そこまでスペースを広げると、サービスが行き届かなくなる不安があるし、従業員の負担も増えるから仕方ないわ。スタッフルームとして使うつもり」
「天井板は取っ払って、梁が剥き出したまま使うのよね」
「低すぎるもの。背の高い人は身を屈めないと頭を打ってしまうわ。それに建築基準法では天井の高さは最低二.一mと決められているからどうしようもないのよ。でもお城の
「そういう前向きな考え方、好きだよ」
椎子は玄関から上がって一階左奥へ進んでいく。その突き当りには新しい建材で作られたドアと土間、一目で建て増しされた部分だと分かる。
「あそこは壊しちゃうんだっけ」
「そう。玄関側と比べると別次元の建物ですもの。更地にして坪庭にするつもりなの。店の表側は神社の風景を楽しみ、裏側は坪庭の風景を楽しむ。どこに座っても風景を楽しみながら寛げるでしょう」
空海は町家の裏にある増築部分を見詰めている。その目にはすでに造園された坪庭の風景が見えているかのようだった。あそこにどんな空間を創出させるつもりなのだろう、そんなことを思いながら椎子は空海に目を向けた。
「あれ、そのお守り、まだ持ち主が分からないの?」
そう言われて空海は右手を持ち上げた。声を掛けられる前に手に取ったお守りをずっと握り締めていたのだ。
「ええ。この町家に関係のある人には声を掛けてみたのだけれど、誰も心当たりがないって」
空海はお守りの袋を開けて中身を取り出した。名前の彫られたステンレスの板。そしてすっかりヨレヨレになった名刺、それは空海自身の名刺だ。
「変ね。こんなに手掛かりがあるのに。ねえクミ、これあなたの名刺なんでしょう。誰に渡したか覚えてないの」
「渡し過ぎて忘れてしまったわ。アパレルブランドの立ち上げにも町家の企画書作りにも、沢山の人に協力してもらったのだもの。それに見て、この名刺。まるで数年、ううん数十年経っているみたいに汚れてシミが浮き出ている。こんなに早く劣化が進むものかしら」
「安物の紙とインクを使えば劣化も早くなるんじゃない」
空海の眉間に皺が寄った。椎子の毒舌はいつものことだが、今日の憎まれ口は少々毒が効き過ぎている。
「あっ、クミ、ごめん。つい口が滑っちゃった」
「口が滑るのはいいけど足を滑らせないでね、シーコ。床にホコリが積もって滑りやすいから」
今度は椎子の眉間に皺が寄った。それから二人は大声で笑った。
* * *
次の日の朝、空海は早めに椎子の家を出た。今日の午後に予定している東京での仕事に間に合うように、午前の新幹線で帰京するためだ。荷物を持って梅の橋の階段を上る。と、向こう岸のスロープを歩く青年の姿が目に入った。時計を見る。いつもより遅い時刻だ。
「どこかで寄り道でもしていたのかしら」
空海が渡り始めるのと同時に青年も渡り始めた。向こうも空海に気付いたのだろう、緊張した面持ちで歩いてくる。
「おはようございます」
突然声を掛けられて空海は足を止めた。青年のほうから話し掛けてきたのは初めてだ。昨日、会話をしたことで多少なりとも親近感を抱いたのだろう。
「おはよう。今日は遅いわね。仕事の後でホットコーヒーでも飲んでいたの」
「いえ、ちょっと寝坊をしてしまって」
青年は恥ずかしそうに苦笑いしている。本当のことを言う必要もないのに馬鹿正直に答える青年を見て空海もまた苦笑した。見掛け通り純朴な性格のようだ。
自分から話し掛けたことで気楽になったのか、青年の言葉は続く。
「今回の金沢旅行はこれで終わりですか。随分早い出発ですね」
「あら、どうして私が金沢を旅行しているって決めつけるの。これから別の土地へ旅行に出かける金沢の住民かもしれないでしょう」
「金沢の人はそんな喋り方をしません。ひょっとして東京ですか」
言い当てられて多少驚きはするが、東京には日本の人口の約一割が住んでいる。当てずっぽうに言っても十人に一人は正解なのだ。それを見越しての発言なのだろう。
「ご名答。でも育ちは岡山よ。岡山の倉敷市。そう言うあなたも金沢の人間ではないのでしょう」
「はい。ボクは隣の兵庫です」
「そう。ならあの大震災は大変だったでしょう。ちょうど今年で二十年目よね」
「えっ、大震災?」
青年は明らかに困惑した表情をしている。兵庫の人間が知らないはずがないと思いながら空海は説明する。
「そうよ。二十年前の一月十七日の地震。その日には毎年イベントも行われているでしょう」
「すみません、ちょっと記憶にありません。二十年前だとまだ二歳だし、兵庫に来たのも小学生になってからだから」
気まずそうに青年が話す。すぐには信じられなかった。幼くて覚えていなくてもテレビや新聞で毎年話題になるのだから、嫌でも目に入るはずだ。
(嘘をついているのかしら)
空海は訝し気に青年を見た。嘘をつくような人間には見えなかった。ひょっとすると話題にしたくないのかもしれない、そう考えた空海は話を切り替えた。
「兵庫から出てきているのなら借家住まいなのでしょう。どの辺りに住んでいるの」
青年に関して一番気になっている事柄だ。彼の姿はこの橋でしか見たことがない。すぐに後を追って小路に入っても一度も見付けられなかった。まずはこの謎を解明したい。
「えっと、ボクは……」
青年が言い淀んでいる。言おうか言うまいか迷っているようだ。その狼狽気味の姿を見て空海は踏み込みすぎたと感じた。
(調子に乗り過ぎたわ、この子とは初対面と言ってもいい間柄なのに。住所なんて個人情報の最たるもの。もし私が学生だったとして、見知らぬ男から『どこに住んでいるの?』と訊かれても素直に答えられるはずがない。この青年もきっと同じ気持ちのはず)
空海は自分の質問を後悔した。しかし一度口にしてしまったものは取り消せない。こうなれば先にこちらが身分を証明するのが最善の策だ。
「ああ、ごめんなさい。立ち入ったことを訊いたわね。私はこういう者よ」
空海は荷物を置くと、上着の内ポケットから名刺を取り出した。それを受け取った青年は驚きの声をあげた。
「くうかい、さん、ですか! えっと、ペンネームか何かでしょうか」
「本名よ。それによく見て。くうかいではないわよ。名前の横にふりがなが振ってあるでしょう。親が男の子を希望していてね。女だけど男みたいな名前がいいってそんな漢字にされてしまったの」
「空海と書いてクミと読むのか。失礼しました」
名刺を持ったまま頭を下げる青年。いつものことなので空海はなんとも思わない。むしろこの名前のおかげで名刺を見せた相手はすぐに覚えてくれる。今では親に感謝したいくらいだ。
「ここに通っているのは仕事なの。金沢には多くの古い町家が残っているけど、リノベーションされてゲストハウスやショップに生まれ変わっているでしょう。私も東山にある町家を喫茶店にしたくて、こうして頻繁に足を運んで、その度にあなたと会うハメになってしまっているわけ」
「町家を……喫茶店に……」
青年の顔が
「ごめんなさい、最後は余計なことを言ってしまったわね。気にしないで。ところであなたの名は?」
「あ、ボクは
「さわだ、たく……」
今度は空海が困惑する番だった。まさかと思いながら尋ねる。
「さわは金沢の沢。たは田んぼの田よね。名前のたくはどんな漢字なの」
「沢山の沢、つまり名字の沢と同じで読みだけ違うんです。上からも下からも同じに見えて面白いって理由で父が付けたみたいです」
「沢田、沢……」
空海はうわ言のようにつぶやいた。信じられなかった。こんな偶然、あるはずがないと思った。
「あ、それじゃボク行きますね。今日は一コマ目に講義があるので」
「さ、さようなら」
沢田が橋を歩いていく。スロープを下りて小路に消えていく。それを見届けた後、空海は上着のポケットに入れておいたお守りを取り出した。慎重に袋を開け、中のステンレス板を取り出す。
「この名前、まさか、こんなことって……」
親指と人差し指に挟まれた曇りのあるステンレス板。空海はまじまじとその表面を凝視した。そこには流れるような行書体で「沢田沢」と彫られていた。
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