住めば都と言うやろいね
最後の新聞を配り終えた沢田はスーパーの駐輪場へ向かった。そこに置いてある自転車に乗って販売所へ戻り、袋や鞄を片付ければ本日の仕事は終了だ。
「雨に降られなくてよかった」
歩きながら鞄の中に手を入れる。新聞が一部だけ残っている。配り忘れではない。ひどく濡れたり破れたりした時のために、常に一部だけ余分に持たされているのだ。そして配達後はそのまま持ち帰ってよいことになっている。現物支給のバイト代と言ってもいいだろう。
沢田の部屋の隅には持ち帰った新聞が積まれている。ある程度たまると縛ってチリ紙交換に出す。ティッシュペーパーは買うものではなく、新聞と交換するか、町で配布しているお姉さんから貰うものである、というのが沢田の持論だ。
「ただいま帰りました」
「ご苦労さん」
販売所のロッカーに配達鞄を入れて足早に外へ出る。頼めば事務室でお茶を飲ませてくれるが、ここでゆっくりするより部屋で寛いだほうが気が休まるので滅多に飲むことはない。
帰途に就いた沢田は自転車を漕ぎながら思う。職場を大学の近くにしたのは正解だったと。
寮にいた時は犀川を渡って通勤していた。今は浅野川を渡って通勤している。職場がこの場所にあったからこそ、下宿を選択できる幅が広がったのだ。もし寮の近くに職場があったら今の場所に住もうとは考えなかったに違いない。これもまた運命付けられたひとつ流れのように沢田は感じていた。
「あんな下宿がよく見つかったものだな」
浅野川沿いに自転車を走らせながら沢田は思い出す。初めてあの建物を訪れた時の衝撃は今でも忘れない。
* * *
大学ではバイトの斡旋の他に下宿物件の紹介も行っている。窓口は同じだ。これまでは長期バイトを探すためにそこへ通っていた沢田は、後期試験が終わった二月頃からは下宿を探すために通うようになった。
今は卒業と同時に入学の時期でもある。出回る物件は多くなるが、うかうかしていると新入生に好条件の物件を取られてしまう。先手必勝だ。
「いいのがないな」
物件の情報が綴じられたファイルをめくりながらつぶやく。沢田が求める条件は言うまでもない。賃料が安い物件だ。立地が大学と新聞販売所の両方に近ければ更に良いが、そこまでは求めない。居住に関する経費を徹底的に抑えられるのなら、下宿、間借り、アパートなど形態にもこだわらない。そこまで選択の幅を広げて探していると、意外に呆気なく見つかった。
「間借りで六千円。結構お値打ちじゃないか」
そのファイルを見た瞬間、沢田の胸は高鳴った。目を引いたのは賃料の安さだけではない。場所もいい。住所は東山町。浅野川を渡った卯辰山のふもとだ。建物は三階建、築年数不明、「古屋」との注意書きまである。
「この物件、紹介してください」
朝刊配達の時と同じく即決だ。ぐずぐずしていると誰かに奪われてしまう。それに今は春休み。講義はないしバイトも入れていないので自由な時間が存分にある。職員に連絡をしてもらい、沢田はその日の午後、目当ての場所へ足を運んだ。
「やはりここは良い場所だな」
浅野川大橋から眺める景色は古都と呼ぶに相応しい風情がある。沢田は歴史を感じさせるものが好きだ。進学先として金沢を選んだのも、大学が城跡にあるという、ただそれだけの理由からだった。
当然東山界隈にも足を運んだことがある。市街を一望できる卯辰山山頂、そのふもとにある寺院群。そして金沢三大茶屋街の中で最大のひがし茶屋街。紅殻格子の
「少し寄り道していくか」
浅野川大橋を渡り終えた沢田は、川沿いから一本北の小路に入った。住居を決める時にはその物件だけでなく周囲の環境も重要だ。この辺りで歩いたのはひがし茶屋街だけ。そこから外れた小路はまったく知らない。賃貸契約した後で「近所にこんな場所があったのか、早まったあ」と後悔しないように、この一帯を見ておこうと考えたのだ。
「へえ、米屋があるのか」
自炊を考えていた沢田にとっては好都合だ。この場所なら自転車を使わなくても歩いて運べる。スーパーで売られている米の値段と遜色なければ、ここで買うことにしよう。
「あれ、銭湯があったのか」
茶屋街の一角と言ってもよい場所に「東山湯」と書かれた看板がある。見上げれば煙突まで立っている。ここには一度来ているはず、しかし全然気が付かなかった。
「興味がないものは見えていても記憶に残らないってわけか。正面の自由亭は覚えているのに」
茶屋街には少しばかり異質な洋風の四角い建物、それがレストラン自由亭だ。この建物だけはしっかりと沢田の記憶に残っている。カツ丼の値段があり得ないほど高かったからだ。
「ここで食事をすることは決してあるまい。少なくとも学生のうちは」
店頭ディスプレイのサンプルと価格を見て、沢田は改めてそうつぶやいた。
その後はひがし茶屋街の中を歩いた。何度歩いても独特の雰囲気がある。間もなくこの近くに住むのだと考えるだけで沢田の心は弾んだ。
一番丁を奥まで歩き、折り返して二番丁を歩き、また折り返して三番丁を歩く。そのまま見覚えのあるうどん屋を右に曲がって、沢田は神社の鳥居の前に立った。
「卯辰神社、いい雰囲気だな」
この神社も記憶にある。卯辰山界隈には寺は多くあるものの神社は少ない。山門ではなく鳥居が目に入れば嫌でも覚えてしまう。
特に鳥居の脇に立つ狛犬は一目で頭に刻まれてしまった。しゃちほこのように両足を上げて逆立ちしているのだ。加賀逆さ、金沢逆さなどと呼ばれているらしい。
「そして、こちらが例の物件か」
境内から鳥居越しに眺めれば、道を挟んで三階建ての古びた町家が立っている。その姿はまったく沢田の記憶になかった。この神社を知っているのだから正面に立つこの町家を見ていないはずがないのだが、沢田にとっては初めて見る三階建ての町家だった。
「さっきの銭湯と同じだな。神社に意識を取られ過ぎてしまったんだろう」
だがこれからは嫌でも脳裏に刻み込まれるはずだ。自分の住処となる建物なのだから。沢田は卯辰神社の境内を出て町家の前に立った。
「こんにちは」
声を掛けて返事を待つ。何も聞こえて来ない。呼び鈴はないかと探すがそれらしきものはない。隙間風の入りそうな古びた引き戸を手で叩き、もう一度声を掛ける。中で犬の鳴き声がする。人の声は聞こえてこない。
「おかしいな、留守なのかな。いや、大学から連絡を入れて午後に行くと伝えてあるんだ。留守のはずがない」
沢田は引き戸に手を掛けた。開いた。土間に犬。その向こうに草履を履こうとしているお婆さんがいる。勝手に開けたのでバツが悪い。沢田は急いで挨拶をした。
「あっ、こ、こんにちは。大学の紹介で来ました、沢田と申します」
「はいはい、ようおいであそばせました」
一目でかなりの年齢と分かる。しかし言葉遣いはしっかりしている。
沢田は靴を脱いで上がると家の中を見回した。右側に狭い階段。左側はガラス戸。中にお爺さんが座っている。そこが老夫婦の居室なのだろう。
低い天井、頼りない廊下の板、湿っぽい空気、この空間にある全てのものから時間の重みを感じ取れる。沢田は一瞬で気に入ってしまった。
「お話はこちらで」
お婆さんに言われてガラス戸を開ける。灯油ストーブの熱気に眼鏡が曇る。火鉢に手を当てていたお爺さんがこちらを向いた。
「これからお世話になります。沢田です」
既に気分はここの住人である。
それから沢田はお爺さんから簡単な説明を受けた。家賃は毎月手渡しで払う。その時、各部屋に取り付けた電気メーターの数値から電気使用料を計算し一緒に払うこと。共同のトイレは一階の西側、洗濯機や洗面台もそこにあるので自由に使ってよい。二階には流し台とコイン式ガスコンロがある。水道料金は払わなくてよい。九時ごろに玄関の鍵を掛けるのそれまでに帰ること。
「あの、私は新聞配達をやっていて毎朝四時前に出かけるのですが、問題ないでしょうか」
「はっ?」
お爺さんが手を耳に当てて沢田に向けた。どうやらかなり耳が遠いようだ。お婆さんが大声で説明する。お爺さんが頷く。
「なんも。朝はわしらも早いさけ、四時ごろに鍵が開いてもじゃまないよ」
「犬もおるしね」
老夫婦の返答を聞いてひとまず安心する。考えてみれば玄関の引き戸は結構ガタがきている。その気になれば鍵が掛ったままレールから外すこともできそうだ。鍵より犬の方が遥かに信頼できる。
「わしは若い頃、勉強したくてもできんかった。そやさけ少しでも学生さんのお役に立てばと、安い家賃で間貸しさせてもらっとるやちゃ」
「はあ、そうですか」
一通り説明が終わったところでお爺さんが自分語りを始めた。老人の昔話は長くなるぞと覚悟を決めて沢田は耳を傾ける。夫婦はともに八十代で、ここには二人だけで住んでいるようだ。何かあったらどうしようかと沢田は少し不安になった。
「おあがりまし」
話の途中でお婆さんが皿を差し出した。食パンが一枚乗っている。沢田はしげしげとそれを見た。ただの食パンだ。焼いているわけでも何かが塗られているわけでもない。本当にそのままの食パンだ。皿の横には湯気を立てる湯呑みも置かれている。
「こっちは砂糖湯。パンを浸して食べまっし」
お婆さんは手本を示すかのように、パンをちぎって湯呑みに浸し、口に運んでいる。お爺さんは食べたくないのか火鉢に手をかざしたままだ。
「あ、はい……」
沢田は躊躇した。これまで何度も食パンを食べたが、コップの砂糖水に浸して食べたことは一度もない。食事の作法としては少々お行儀の悪い食べ方だ。それに客を持て成すお茶菓子として、食パンは相応しいと言えるだろうか。
「遠慮せず、食べまし食べまし」
「はあ……」
お婆さんに勧められても、正直あまり食べたいとは思わない。しかし手を付けないのは相手に悪い。宙を漂う沢田の右手は知らぬ間に左胸に当てられていた。
(食パンと砂糖水って。いくらなんでも粗末すぎるよなあ)
そう心の中でつぶやいた時、左胸から端然とした言葉が伝わってきた。
――昨年のおまえを思い出しなさい。
「はっ!」
父の声を聞かされた沢田は服の上からお守りを握り締めた。そうだ、忘れていた。以前はもっと粗末な食事をしていたのだ。寮の売店で買ったパンの耳、それを無料のお茶と一緒に食べていたのではなかったか。
(だが、あの頃の自分はもういない。今の自分は別人なんだ)
新聞配達によって経済的余裕ができると、沢田は学食で昼食をとるようになった。朝食も耳パンではなくスーパーで買ってきた食パンだ。それを寮長から借りたオーブントースターで焼き、ジャムを塗ったりチーズを挟んだりして食べていた。飲み物は白湯ではなくティーパックの紅茶。耳パンを齧っていた頃の沢田は、とっくに過去の存在となっていた。
(なんてことだ。せっかくの持て成しを粗末だと感じてしまうなんて。自分のほうがもっと貧相な食事をしていたくせに。金が心を堕落させたのだ。有難いと思う気持ちを奪ってしまったのだ)
沢田は恥ずかしくなった。この食パンを粗末と感じることは、あの頃の自分を粗末と感じるのと同じだ。
お婆さんは顔を綻ばせて食パンを食べている。自分が美味しいと思っているから人に勧めたのだ。喜んでもらえると思ったからこそ、沢田に食パンと砂糖湯を出してくれたのだ。大切なのは物ではなく心、人を喜ばせようとする心。それを忘れていた自分を沢田は恥ずかしく思った。
「いただきます」
沢田は食パンをちぎって砂糖湯に浸し、口に入れた。
「うまいけ?」
「はい。美味しいです」
それは沢田の偽らざる本心だった。
* * *
「人は一度贅沢に慣れるとなかなか元には戻らないからな」
沢田は浅野川沿いに自転車を走らせながら、お婆さんが持て成してくれた食パンを思い出した。
あの町家に移ってからの三年間、沢田の食生活は改善されたままだった。月々支払う電気料金は数百円程度。毎日銭湯に通っても、住居にかかる経費は寮にいる時とほとんど変わらなかった。その余剰分を食費に当てれば、一般の大学生と変わらない食生活が送れたのだ。
「本当に居心地のいい下宿だった」
老夫婦が学生たちに文句を言うことはなかった。水道料金無料の気軽さから、全自動ではない洗濯機のすすぎの水を出しっ放しにすることもあった。が、そんな時でも注意されたりはしなかった。
新聞販売所の所長さんと奥さん、下宿の大家さん、本当に良い人たちに恵まれた、沢田はそう思いながら自転車を下りた。梅の橋、そこを渡る時にはいつも自転車を下りるのだ。
(あの人だ!)
スロープを上り切って対岸を向いたところで沢田の足は止まった。橋の中央に女性がひとり立っている。厚手のロングコートとブーツ。うなじが見えるショートヘア。切れ長の眼が川の上流に向けられている。
(今朝は散歩の日だったのか)
沢田はその女性を知っていた。名前や住所は知らない。知っているのはこの女性が早朝のこの時刻、しばしば梅の橋に来て景色を眺めているという、ただそれだけだ。
(会うのはこれで何回目だろう。この近くに住んでいるのかな)
初めて見掛けたのは十一月頃だ。そして新聞配達から帰宅するこの時刻、この梅の橋の上でしか会ったことがない。年齢は二十代後半から三十代辺りだろうか。人妻を感じさせる色気もある。女性との付き合いが皆無な沢田にとっては、声を掛けるのはもちろん近寄ることすら遠慮してしまいたくなる雰囲気をまとっている。
「……」
女性の少し手前で沢田は会釈をした。これまで何度も会って顔を覚えている。当然相手も沢田の顔を覚えているはずだ。無視して通り過ぎるのは失礼である。
「新聞配達?」
その言葉を耳にした途端、沢田の体が震えた。足が止まる。
(嘘だろ。まさか声を掛けてくるなんて)
女性の声を聞いたのは初めてだ。思わず右手を左胸に当てる。固いお守りの下で心臓が激しく脈打っている。沢田はドギマギしながら答えた。
「はい。でもどうしてボクが新聞配達をしているって知っているんですか」
「会うたびに自転車の前カゴに新聞を入れている。そしてこんな早朝に出歩いているとなれば、名探偵でなくてもそれくらい分かるわよ」
他人の正体というものは案外簡単に見破られるものだ。明日からは前カゴに布でも被せておこうと沢田は思った。
「ひょっとしてあなたも新聞配達の仕事を?」
「そう見える?」
沢田をからかうように女性は両手を広げた。どう考えても新聞配達の格好ではない。馬鹿な質問をしたものだと沢田は後悔する。
「いえ。変なことを訊いてすみません」
これ以上話を続けていると更にからかわれそうだ。沢田は軽く頭を下げて歩き始めた。
「学生さん? 頑張ってね」
「はい」
梅の橋を渡り、スロープを下り、民家が立ち並ぶ小路に入ったところで沢田は立ち止まった。右手で左胸のお守りを握る。何も聞こえてこない。自分で解決しろと無言で忠告されているようだ。
「向こう岸に渡るのか。それともこちらに来るのだろうか」
急に女性のことが気になった。言葉を交わしたことでただの他人とは思えなくなっていた。沢田は向きを変えると元来た道を戻り始めた。こんなことをしようと思ったのは初めてだ。
「えっ……」
川沿いの道に出た時、沢田は我が目を疑った。橋の上に女性の姿はなかった。どこにもいなかった。橋のたもとにも、川沿いの道にも、沢田が見ている風景の中に女性は存在していなかった。
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