目覚ましは二個にしまっし

 十二月の夜明けは遅い。沢田は街灯も月明りも届かない軒先に自転車を止めた。荷台に括り付けた紐をほどいて新聞の束を持ち上げ、音を立てないように注意しながらそっと置く。これで三カ所目。前送終了だ。


「こんな何でもない作業でも苦情が入ったりするからなあ」


 一人で配り始めた頃は注意を受けてばかりいた。あらかじめ了解を取ってある家の軒先に新聞の束を置かせてもらうのだが、最初、沢田は無造作に放り投げて置いていた。

 すると置く音がうるさいと販売所に苦情の電話が入る。寝ているから聞こえないだろうと考えるのは間違いで、寝ているからこそ小さな音でも聞こえてしまうのだろう。


「すみません。丁寧に置くようにします」


 忍者のように闇の中を音もなく行動するのが、正しい朝刊配達員の姿と言えるようだ。


「さて、今日も頑張るか」


 沢田はスーパーの駐輪場に自転車を置いた。前かごに入れた配達鞄を肩に掛ける。鞄の中には五十部の新聞紙。その他に折り畳み傘やタオル、ビニール袋、薄手のカッパが入っている。急な雨にも対応できるようにだ。

 新聞は極端に雨に弱い。少し濡れただけで文字がにじんだり破れたりする。ひどい雨の時はあらかじめ新聞をビニールに入れたりもするが、配達中、急に降ってこられてはそれもできない。鞄全体を大きなビニールで包み、傘で雨避けをし、濡れた手をタオルで拭きながら配るのだ。


「今日は大丈夫だと思うけどな」


 いつものように配り始める。左肩に掛けた鞄から右手で一部抜き取り、素早く両手で折り曲げポストに入れる。差し入れ口に落とし込む。戸の隙間に挟む。そうして沢田はまたも思い出す。一人で配り始めた時は本当に失敗の連続だった。


 * * *


「沢田君、ちょっと」


 一人で配り始めてから十日ほど経ったある日、配達から帰った沢田は所長さんに呼び止められた。


「なんですか」

「この家ながやけど……」


 それは配り方についての苦情だった。戸の差し入れ口に新聞を配達する場合、沢田は戸の向こう側に新聞を落とし込んでいた。それをやめて欲しいと言うのだ。理由を聞くと、玄関は濡れていることが多いので、下に落とさず半分差し込んだ状態にして欲しいとのことだった。


「なるほど。雨や雪が多い土地だからな。差し込んだままのほうが喜ばれるわけか」


 そう考えた沢田は全ての差し込み口に対して、新聞を下に落とさず半分ほど差し込んだ状態で配達した。すると今度は別の家から、雨が降ったら濡れるし誰かに盗まれるかもしれないので、新聞は完全に差し込んで下に落として欲しいと連絡が入る。先ほどの家とは真逆の要請だ。


「なるほど。新聞配達という実に単純な仕事でも、これだけのサービスに応えないといけないのか」


 沢田は帳面を開いて連絡のあった家の名の横に配達方法を書き込んだ。そしてこれが日本流なのだなと痛感した。昔、アメリカの映画で新聞配達のシーンを見たことがある。確か車の窓から放り投げていたような気がする。日本で同じことをしたら販売所の電話が鳴りっ放しになるに違いない。


「きっと他の業種でも似たようなことはあるんだろうな」


 店も客もこの程度のサービスは当たり前だという意識なのだからどうしようもない。見習いで男性と一緒に歩いていた時には、さすがにそこまで気が回らなかった。配達時に手元までは見ていなかったし、沢田が配っていた四日間、男性から配達方法に関する指示はなかった。


「配達箇所を早く覚えて欲しくて、敢えて細かい指示は出さなかったんだろうな。あるいは細かい指示に嫌気が差して、仕事を辞められるのを嫌ったか……」


 どちらにしても、教えてくれなかったあの男性に悪気はないはずだ。家を覚えるのが精一杯の状態で更に配り方まで指定されたら頭が混乱するだけだ。郷に入っては郷に従え。命令通りに業務を遂行するのが従業員の義務である。沢田は言われるままに仕事をこなしていった。


 ひと月もすると苦情はなくなった。年が明ける頃には教えてもらった男性と遜色ない速さで配れるようになった。ようやく一人前に配れるようになったかと沢田は安堵した。が、すぐ次の難題が降りかかってきた。雪である。


「これはまずいな」


 降り続く雪を寮の窓から眺めながら沢田はつぶやいた。一月の中旬頃から積雪量が多くなってきている。幹線道路は融雪装置が二十四時間稼働しているのでさして問題はない。困るのはそこから外れた生活道路だ。自転車が使い物にならなくなるのだ。

 凍った路面は滑って危険だし、積もった雪の中を強引に進もうとすると、タイヤと泥除けの間に雪が挟まり漕ぐ労力が二倍になる。そのまま放置すると完全に凍ってしまい、タイヤはまったく動かなくなる。


「明日もいつもより早めに行くしかないか」


 雪が積もるにつれ寮から販売所までの通勤時間が長くなっていた。雪道を歩いての配達もいつもより時間がかかっている。六時に配達完了するには早く寮を出るしかない。


「今朝はひどいな」


 その朝はドカ雪と言っていいほどの降り方だった。住宅街に入ると自転車はほとんど使い物にならない。自転車を降りて歩いて販売所へ向かうと、もう出発準備ができたのだろう、配達員が新聞の束を外へ運び出している。沢田は目を疑った。新聞の束を積んでいるのは自転車ではなくプラスチックの板である。


「ああ、沢田君、おはよう。今日は自転車が使えんさけ、ソリで行くわいや」


 いつも最初に販売所を出て行く初老の男性がそう言う。よく見るとプラスチックの板は子供が雪遊びで使う紐付きの赤いソリだ。この雪の中、転倒とスリップの危険がある自転車より、多少時間がかかってもソリを引っ張って歩いて前送した方が安全かつ効率的との判断なのだろう。当然、配達員全員がこの方法を選択させられるはずだ。


「そうですか、分かりました」


 その日から配達前にソリを引っ張って前送する仕事が始まった。これは大きな負担だった。積もった雪のために通常の配達でさえ難儀している状態なのだ。これに別形態の業務を付加されるのだから、費やされる時間と労力は嫌でも増大する。


「本格的な冬が来る前に辞めたくなる気持ちがようやく分かった。一度体験すれば二度とやりたくないだろうなあ」


 もちろん沢田は辞めるつもりはない。販売所には何年もこの仕事を続けている者がいるのだ。主婦であったり自営業であったり職種は様々だが、沢田と同じく副業としてこの仕事をしている。沢田の本業は学生、一般の社会人に比べれば遥かに恵まれた境遇と言える。弱音を吐くなどという恥ずかしい真似はできない。


「この冬を乗り切れば自信もつくはずだ。とにかく頑張ろう」


 だが更なる試練が沢田に襲い掛かってきた。後期試験が始まったのだ。授業料免除の要件として、経済的困窮者の他に学業成績優秀者という文言も記されている以上、それなりの成績を収めないと来期はどうなるか知れたものではない。手を抜くわけにはいかないのだ。

 試験勉強、寮の執行部の仕事、雪中朝刊配達の三重苦によって沢田の精神と肉体は徐々に疲弊していった。そしてある朝、


「はっ!」


 目を開けた沢田は震えあがった。周囲は闇ではなかった。窓の外には薄明がある。目覚ましに手を伸ばすがない。ベッドを起きて部屋を探すと、隣のベッドの上に転がっている。同室の寮長はもちろんいない。今日も寮内のどこかの部屋で夜を過ごしているのだろう。


「う、嘘だろ!」


 時計の針は六時近くを指している。完全な寝坊だ。沢田は慌てて服を着替え、外に出て自転車に飛び乗った。幹線道路を走りながら、雪の積もった裏道で自転車を押しながら、混乱した頭で考える。


(どうして起きられなかったんだ。目覚ましをかけていたのに。鳴らなかった? いや、そんなはずはない。鳴ったんだ。鳴り続ける時計を無意識で止めて隣のベッドへ投げつけたんだ。何も覚えていないがそれしか考えられない)


 販売所に着く。中には誰もいない。沢田が配るはずの新聞もない。空の鞄を持って配達区域へ走る。いた。所長さんが歩いて配っている。走り寄るとこちらに気付いたのだろう、足を止めて大声を上げた。


「なんしとらいね! ヤル気がないなら辞めてくれんけ!」


 謝る暇もなく恫喝された。これほどまでに怒る所長さんの姿は初めてだった。沢田は右手で左胸を押さえた。固い感触。父のお守り。それは今の沢田にとって唯一の味方だ。


「あの……」


 弁解したかった。試験勉強が続いて寝不足だった、寮の食堂の仕事で疲れていた、そう言いたかった。が、そんな言葉を打ち消すように懐かしい声が聞こえてきた。


 ――謝りなさい。そして働きなさい。


 父の声だった。左胸のお守りから右手を通じて直接語り掛けてきたのだ。沢田は頭を下げた。


「ごめんなさい。遅れてすみませんでした。配ります」


 今は言い合いをしている場合ではない。配達完了時刻の六時はとっくに過ぎている。一刻も早く配り終えるのが先決だ。話はその後でいい。

 沢田は所長さんの鞄に手を掛けた。しかし所長さんの手がそれを拒んだ。


「これはわしが配る。沢田君は残りをやり」

「はい」


 ここは最初の前送場所を過ぎた地点。つまりまだ二束、百部の新聞がこの先の軒先に置かれていることになる。沢田は二つ目の前送場所へ行くと新聞を鞄に詰めて走り出した。走って配るのは初めてだった。人がチラホラ見える。冬の北国の朝は早い。玄関の雪かきをしたり、自動車に積もった雪を落とすために早起きをするからだ。


「遅れてすみません。すみません」


 声を掛けながら配るのも初めてだった。頭の中が真っ白なまま何とか配達を終えて販売所に戻ると、所長さんと奥さんが事務室で待っていた。


「飲みまっし」


 奥さんがお茶を出してくれた。沢田は椅子に座ると礼を言って一口飲んだ。


「無理なら辞めてもらって構わんよ。その方がこっちも有難いし」


 所長さんにそう言われて返す言葉もない。身を縮こまらせて黙っていると奥さんが口を挟んだ。


「試験期間やさけ、寝坊もするわいね。今が一番きつい時ながやろ」


 所長さんがむっとした表情になる。しかしもう怒りは収まったのだろう、何も言わない。

 沢田は無言で頷いた。自分の心を代弁してくれた奥さんの気遣いが嬉しかった。と同時にそれが遅刻の理由にならないことも分かっていた。


「とにかく、これからは気ぃつけてな」

「はい」


 販売所から寮へ帰る沢田の心は重かった。これほどの失敗をしたのは人生で初めてだった。情けなさと悔しさが込み上げてくる。なにより販売所の人たちの信頼を裏切ったのが一番辛かった。


「なんだかんだ言っても、まだ学生だという甘えがあったんだろうな」


 試験勉強、寮の仕事、それらは確かに大変だ。しかし大変なのは沢田だけではない。毎日子供や夫のために家事や雑事をこなしている女性、自営業で夜遅くまで働いている男性、そんな人たちも新聞を配っている。

 彼らの苦労やストレスは沢田の比ではないはずだ。にもかかわらずもう何年も新聞を配り続けているのだ。今更ながらに自分の覚悟のなさが嫌になってくる。


「よし、今日は大学の生協で目覚まし時計を買って来よう」


 目覚ましを二個に増やす、これが沢田の考えた取り敢えずの覚悟であった。


 取り敢えずの覚悟であったが、これは意外と効果があった。目覚ましの配置は枕元ではなく、窓際の勉強机と廊下側の物入れにした。セットする時刻は五分ほどずらす。アラームが鳴れば布団から出ないと止められない。そして布団に戻らなければ寒くて眠れない。これを二度繰り返すのだから目が覚めないはずがない。


「二度と同じ失敗はしない。沢田、気合いを入れろ!」


 それからは毎日が闘いだった。試験期間は無事通り過ぎた。寒い二月もなんとか乗り切った。初めての金沢の冬はほろ苦いものとなったが、とにかく沢田は三月を迎えた。同時に大学生活最初の一年間も終わった。


「なんとかやっていけそうだな」


 今では支出より収入が上回っている。この土地にも大学生活にもすっかり慣れた。これでいつでも退寮できる、後は実行に移すだけだ。春休みを迎えた沢田は自信に満ち溢れていた。


 * * *


「あれから三年近くが過ぎたか。我ながら随分図太くなったもんだ」


 沢田は新聞を配りながら、初めて所長さんに叱られたあの日のことを懐かしく回想した。二度と遅刻はしない、そう、確かにあの時はそう心に誓った。しかし退寮して一人暮らしを始めた後、沢田は何度も寝坊をした。さすがに六時過ぎ出勤という大寝坊をやらかしたことはなかったものの、一時間ほど寝坊することは何度もあった。


「結局、販売所の人たちには甘えっ放しだったわけだ」


 沢田が寝坊しても所長さんは二度と叱らなかった。烈火の如く怒ったのは、あの最初の一度だけだ。それ以降はどんなに遅れても何も言わない。もちろん配達を手伝ってくれることもない。

 寝坊した沢田が息を切らして販売所の戸を開けると、ストーブの火が消えた薄暗い所内に、チラシを挟み終わった新聞が置かれているだけだ。「自分一人で配れ、遅配の謝罪も自分だけでしろ」そう言われているようだった。


「あの時の所長さんの激怒は、試用期間から本採用への試験みたいなものだったんだろうな」


 寝坊したり連絡なしに休んだりする配達員は、これまで何人もいたのだろう。沢田もまたそういったやからの一人なのかどうかを見極めるために敢えて怒鳴ったのではないか。そして責任を持って任せられると判断したから、それ以降は寝坊しても口を出さず、手を貸さず、好きにさせているのではないか。今の沢田はそう考えている。


「こうして今日まで続けられたのも、あの時の叱咤激励があればこそ、か」


 所長さんの鞭と奥さんの飴、本当に良い職場で働かせてもらったものだと感謝しながら、沢田は今日最後の新聞を受け箱に差し込んだ。

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