希望は朝刊配達け?
「行ってきます」
作業台の下に入れておいたジャンパーを羽織った沢田は、配達鞄を肩に掛けて販売所の外へ出た。
「気ぃつけてね」
背中に声が掛かる。所長さんの奥さんだ。何気ない一言ではあるが応援団が発する声援と同じ効果を持っている。これだけで沢田のヤル気に火が灯るのだ。
「雨の心配はなさそうだな」
外に出た沢田は夜空を見上げた。弁当忘れても傘忘れるなの土地である。空模様は常に気にしていなくてはならない。
沢田は配達鞄を自転車の前かごに乗せた。鞄には最初に配る新聞五十部が、そして後ろの荷台には新聞五十部を入れた袋が三束括り付けてある。
新聞は歩いて配る。沢田が配っている北國新聞は地元紙。ほとんどの家が購読しているので徒歩による配達が最も早いのだ。しかし配達鞄には五十部ほどしか入らない。そこで配達の前に自転車で配達区域を回り、五十部ずつ家の軒先などに置いておく。鞄の新聞を配り切るたびに前送しておいた五十部を補給し、配達を続けるのである。
「この自転車も随分役に立ったな」
夜明け前の路地を自転車で走る。夏休みの西瓜収穫のバイトが終了し、沢田にとって大金とも言えるバイト代を手にした時、真っ先に購入したのがこの自転車だ。
それまで沢田は自転車を所有したことがなかった。小学生の時、近所の遊び仲間の自転車を借りて練習したので乗ることはできたが、中学も高校も徒歩通学だったので自転車は必要なかったのだ。
「これは楽だなあ」
十年近く乗っていなかった自転車を走らせた時、その爽快感と利便性に沢田は感動した。一万円程度のママチャリではあったが、通学もバイトも買い物も時間を大幅に節約できる。そして今はこうして新聞配達の仕事で大いに役立ってくれている。
「自転車を購入した時点で、このバイトを始めることは運命付けられていたのかもしれないな」
沢田は自転車を漕ぎながら、あの日の自分を振り返った。
* * *
それは短い夏が去り、最初の定期試験が終わり、冷たい晩秋の風が吹き始めたある日のことだった。手頃な長期の仕事を見付けようと通っていた大学のバイト斡旋コーナーで、沢田は歓声を上げた。
「これだ!」
沢田の目はその求人募集に釘付けになった。朝刊配達員募集。朝六時までの実働二~三時間。長期歓迎。
「探している条件にピッタリじゃないか」
働く時間帯は常人ならば眠っている時刻。大学の講義と重なる心配は微塵もない。しかも人との接触がほとんどない業務。配達と言っても宅配のようにハンコをもらう必要はない、黙って新聞をポストに放り込んでいくだけだ。人付き合いが苦手な沢田には申し分のないバイトだ。
「この仕事、紹介してください」
職員に連絡を取ってもらい、その日の夕方、沢田はさっそく新聞販売所へ出向いた。場所は高岡町。大学からは目と鼻の先だが寮からだと徒歩で三十分はかかる。早朝の三十分はかなり貴重だ。自転車がなければ如何に好条件でも躊躇する場所だったに違いない。
「こんばんは」
高鳴る胸の鼓動を感じながら沢田は販売所の戸を開けた。ちょうど夕刊業務が終わったところなのだろう、所内には数名がいるだけだった。
自己紹介の後で大まかな仕事の説明を受ける。新聞の前送で自転車を使うと聞かされ、思い切って購入したのは正解だったと沢田は感じた。西瓜収穫バイトから、自転車購入、新聞配達までの一連の流れは、まるで最初から決定されていたかのようだ。
「ほんでぇ、詳しい仕事の内容やけど……」
具体的な説明を聞く。配る部数は二百部ほど。本来なら三百部が標準なのだが学生なので少なめにすると言う。もちろんその分バイト代も減る。月五万円ほどになる。
(五万円! 多すぎるくらいだ)
心の中で沢田は叫んだ。日曜日の単発バイトは職種にもよるが一回約六千円。週四回働いて二万五千円。これに祝日のバイトと貯金からの切り崩しを加えて、月四万円以下でやりくりしているのだ。五万円も貰えるなら寮を出ても余裕でやっていけるだろう。
やがて話が終わると当然のような顔をして所長さんが言った。
「ほんならぁ、明日から来られるがけ?」
「あ、明日からですか」
これには沢田も面食らった。心の準備ができていないのはもちろん、明朝午前三時半に起きられる自信もない。
「無理け?」
「い、いえ。明日から働かせていただきます」
頼まれると断れないのが沢田の弱点である。それに後日改めてという返事をして、その間に別の人物にこのバイトを横取りされるのも嫌だった。明日から早起きするのも一週間後から早起きするのもさして違いはない。沢田は覚悟を決めた。
「今日は早寝をして明朝に備えよう。それよりも問題は同室の先輩だな」
学生寮は原則二人部屋だ。現在、入寮者数は定員割れしているので一人で部屋を独占している学生もいるが、沢田は三回生にして寮長である学生と同じ部屋で暮らしている。
朝の三時半に起床しようと思ったら目覚まし時計に叩き起こしてもらうしかない。それは隣のベッドで寝ている三回生にして寮長である人物をも叩き起こすことを意味する。しかも毎朝である。いかに温厚な人物であっても簡単に承諾できる内容ではないはずだ。
「さて、どうやって先輩の了解を得たものか……」
悶々としながら寮へ向かって自転車を走らせる。名案は思い付かない。寮へ入り部屋を開ける。三回生にして寮長の同室者は珍しく机に向かっている。沢田は取り敢えずありのままを話すことにした。
「あの、ちょっといいですか。お話があるんですけど」
「どうぞ」
「明日から朝刊配達を始めることにしました」
「へえ~、凄いじゃん」
「起床は朝三時半頃です。目覚ましの音がうるさいかもしれません。極力小さな音にしますので我慢していただけませんか」
「朝三時半か。じゃあその時間は部屋に戻らず別の場所にいるよ」
「えっ? あっ、そうなんですか。それは助かります」
「他に話は?」
「ないです」
「まあ、頑張れ」
呆気ないほど簡単に三回生にして寮長の先輩は承諾してくれた。
考えてみればこの先輩がこの部屋にいることはほとんどなかった。寮には和室が数部屋用意されている。他大学の学生や寮生の親などが宿泊できるように設けられているのだが、執行部の部会を開いたり、少人数で歓迎会を催す時にも使われる。もちろん宿泊者のための布団も用意されている。きっと先輩はそこで過ごしていることが多いのだろう。
「あそこは掃除が行き届いているからなあ。それに寮内で知らない者がいない寮長ともなれば、毎日違う一人部屋を訪問して一晩過ごすのも容易なんだろうな」
寮長の居室はこの一部屋だけでなく寮全体と言っていいだろう。同室人が寮長であることを初めて感謝したくなった沢田である。
とにかくこれで新聞配達に関する懸念はなくなった。あとは自分がどれだけ頑張れるかだ。その夜は九時に寝床に入った。
「おはよう。しばらくは見習いで」
翌朝、四時前に販売所に着いた沢田は所長さんからそう言われた。さすがに初日から新聞を配るわけではないようだ。年配の男性を紹介される。
「沢田君はこの人のあとをやってもらうさけ、色々教えてもらいまし」
所長さんの奥さんにそう言われ、意味もなくヤル気が出てくる。普段女性と話す機会がほとんどない沢田にとっては、話し掛けられるだけで嬉しくなるのだ。加えて奥さんはお世辞抜きで美人だった。
(本当に多いんだよなあ、奇麗な人が)
この地へ来て沢田が最初に気付いたのは女性の美人率の高さである。受験のために宿泊した旅館、寮の風呂が休みの時に行く銭湯の番台に座っている女性、スーパーのレジ打ち、所長さんの奥さん、全て美人である。
この認識は何も沢田に限ったことではない。ある地学の教授も同様の考えを抱いたらしい。
日本三大美人と言われる秋田、京、博多。これらの土地はいずれも日本海に面している。裏日本は日照が少ないため肌が白く、湿度が高いため肌に潤いがあり結果として美人に見える、というのが広く世に流布されている通説だ。
しかし、この教授はその理由を地質学的に解明しようとした。そして三大美人の産地と金沢に共通する地質学的特徴を見出した。これらの土地ではある岩石の分布率が他の地域より高いのである。その成分を含む水や作物を摂取しているので美人になる、というのだ。
(まあ、この話をしてくれたのが酔っ払った寮の院生だったから、そのまま鵜呑みにはできないけど、面白い説ではあるな)
「沢田君、見習いやからってぼさっとしとってはいかんよ」
「はい、すみません」
相手が美人だと怒られてもヤル気が出てくる。このバイトにして本当によかったと沢田は心から思った。
初日は完全に見ているだけだった。沢田が販売所に着いた時にはチラシ挟みも新聞の前送も終わっていた。配達区域まで自転車で行き、そこから年配の男性の後を付いて歩くだけの仕事だ。
黙って歩くのが退屈なのかボソボソと話をしてくれる。新聞社では一定の人数の配達応援要員を揃えていて、どうしても必要人員が確保できない販売所へ、配達員を派遣させる制度があるらしい。この男性はその応援要員で、沢田に業務を引き継いだ後はまた別の販売所へ行くのだそうだ。
「冬が近づくと辞める配達員が増える。君もすぐ辞めたりせんようにな」
その言葉には実感がこもっていた。この土地の冬の生活を沢田はまだ経験していない。しかし受験の時に訪れた光景は冬の大変さを感じさせるの十分だった。
あちこちに積み上げられた雪の塊。スケートリンクのように滑る凍結した裏道の路面。早朝ともなれば積もった雪を掻き分けて配達しなければならないだろう。
しかも冬だからと言って特に手当てが出るわけでもない。支給されるバイト代は夏と同じである。辞めたくなる気持ちは十分理解できるし、人が集まらない事情も飲み込める。だからこそ大学へも求人の募集が来たのだ。
「このバイトは卒業まで続けるつもりです」
沢田は答えた。冬の配達がどれほど大変か実際に経験してみなくては分からない。が、声に出して宣言すれば困難に負けずに続けられるような気がした。
「どれにする」
新聞を配り終えた男性は自販機の前で沢田に尋ねた。おごってくれるのだろう。有難く頂戴する。
(他の配達員に比べると受け持つ部数は少なく出勤時刻も遅い。そして配達後の一杯まで飲ませてくれる。ここまで気を遣ってくれるのだから冬の配達はかなり厳しいのだろうな)
これから体験するであろう北国の冬に言い知れぬ不安を感じる。買ってもらったホットココアを飲み干した沢田は右手を左胸に当てた。手の平に伝わる固い感触。父のお守り。これがここにある限りどんなことでも上手くいくはずだ、沢田は自分にそう言い聞かせた。
二日目は帳面を持たされた。裏が白紙のチラシを短冊形に切って紐で綴じたものだ。一枚一枚に苗字が書かれている。言うまでもなく新聞を配達する家の名だ。
帳面と家の表札を確認しながら後を付いて歩く。しかし冬の午前四時とあってはまだ暗い。街灯の光が届かない場所では表札どころか足元も覚束ない。
「暗くて名前がよく見えないなあ」
「覚えるのは表札ではなく家の特徴だ。この家はポスト、この家は差し入れ口、この家は戸の隙間から差し込む、そうやって覚えた方が早い」
さすがはこの道のプロだ。帳面の名前の横に家の特徴でも書き込んでおこう。そう考えた沢田は翌日大学の講義を終えると、帰寮する前に自分の配達区域へ向かった。
夕方の住宅街は明るい。早朝の風景とは全く違う印象だ。これまで見えなかった家々の細部が見える。人が歩いている。声や音が聞こえる。
「これはまずいな。不審人物と間違われそうだ」
さすがにこの状況で一軒一軒家を回って特徴を書き込むだけの勇気はない。それでもせっかくここまで来たのだ。沢田は帳面を見ながら表札だけを確認して歩くことにした。
実にやり易い。ポストや差し入れ口の位置もすぐに分かる。この明るさで仕事ができれば家を覚えるくらい雑作もないことだ。暗闇の中で働かねばならない朝刊配達はそれだけ難易度の高い仕事と言えるだろう。
「もっとも早朝は滅多に人と会わないから、気を遣わなくても済むけどな」
どんな仕事も一長一短があるものだ。
三日目からは配達鞄を持たされた。沢田が前を歩き、後ろを歩く男性が「そこ、次そこ」と指示を出す。指示に従って新聞を配るのだ。
帳面を見ている余裕はない。見たとしても月明かりや街灯がなければほとんど読めない。言われるままに体を動かしているうちに最後の新聞を配り終えてしまった。
男性の後に付いて歩いているだけの時は長く感じられたが、自分が配っていると時間の経つのが早い。あっと言う間だ。それなのに終了時刻はいつもより遅い。
「どうだ、できそうか」
「家を覚えるまでは時間がかかりそうです」
二百軒をいちいち帳面を見ながら配っていたら時間がかかって仕方が無い。一軒当たり十秒短縮できれば二百軒で三十分短縮できる。如何に早く家を覚えられるか、当面の課題はこれだ。
それから沢田は大学の講義が終わると、寮へ帰る前に自分の配達区域を歩いて家を覚えた。四日目、五日目と日を重ねるうちに男性の指示は少なくなっていく。六日目には記憶と帳面だけで配れるようになった。そして一週間が経過した日、
「今日からひとりでやりまっし」
所長さんの奥さんからそう言われた。販売所にあの男性の姿はなかった。大学卒業まで続く沢田の朝刊配達の日々はこうして始まったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます