寮の仕事をやるがいね
「おはようございます」
挨拶の言葉と一緒に沢田は販売所の中へ入った。ムッとする暖気。灯油ストーブに置かれたやかんの蒸気が沢田の眼鏡を曇らせる。
「おはよう」
販売所のあちこちから返事が聞こえる。沢田以外の従業員はすでに仕事を始めているのだ。壁時計を見る。午前四時五分。五分の遅刻。しかし新聞配達に遅刻の概念はない。初めてここを訪れた時、
「午前四時くらいに来てくれればいいから」
と言われたのでこの時刻に来ているだけだ。六時までに配り終えられるなら何時から始めようと特に文句は言われない。
沢田はジャンパーを脱いでチラシの挟み込みを始めた。折り畳まれたチラシを一部ずつ新聞に挟んでいく作業だ。
「今日は新聞も薄いしチラシも少ないさけ、しなしなやりまっし」
販売所の所長さんの奥さんはいつも優しく明るい。朝刊配達を始めて間もない頃、試験勉強で寝不足が続き大寝坊をしたことがあった。当然、所長さんには烈火の如く叱られたが、このご婦人は「試験中だから」と取り成してくれた。あの一言のおかげで今日まで続けられた、と今の沢田は思っている。
「行ってきます」
準備のできた者が早々と外へ出て行く。一般の配達員が受け持つ部数は約三百部。三時頃には出勤して仕事を始めている。沢田は学生ということもあり二百を少し超える部数。しかも配達地域は販売所に近い。所長さんもまた沢田には気を遣ってくれているのだ。
「沢田君、最後の年末年始やね。よう頑張ったねえ」
沢田は大学四年。来年卒業だ。朝刊配達は二月末で辞めるとすでに告げてある。このバイトも残り二カ月半。本当によく続けられたものだ。沢田はチラシを挟みながら、初めてこの地を訪れた日の自分を振り返った。
* * *
沢田の実家は兵庫にある。家の経済状態を考えれば、下宿はもちろん進学さえも難しい状況だったので、当初の希望は地元の大学だった。
「寮費七百円! そんなに安いんだ」
考えが変わったのは大学の情報誌を読んでからだ。地元の大学と言っても自転車で通学できる距離ではない。どうしても交通機関を利用せざるを得ない。親が定期券代を出してくれるはずがないので自分で稼がなくてはならない。
寮費が七百円で済むのなら、生活費を大幅に圧縮すれば実家住まいの場合と比べ必要経費はさほど変わらないだろう、沢田はそう考えたのだ。
「となれば、ここ、金沢だな」
神社、仏閣、城郭、そう言った歴史的建造物が沢田は好きだった。城跡に建てられた大学、それだけで興味を引くには十分だった。しかも数年後には別の場所への移転が決まっている。城跡での最後の姿を見ておいてくれ、大学がそう呼び掛けているように沢田は思えた。
「そう言えば、部長もここの大学だったな」
沢田が所属していた課外クラブの部長が、昨年この大学に進学していた。学部も学科も沢田の希望と同じだ。たった一人でも見知らぬ土地に知人がいれば何かと心強い。沢田の心は決まった。
「沢田、二〇四号室!」
「うわー、おまえ寮長の部屋だぞー」
寮生活は最悪の状態で始まった。部屋を決める抽選で寮長と相部屋になってしまったのだ。寮長ともなれば寮内で知らぬ者は一人もいない。当然、人の出入りが半端なく多い。中には同室の沢田へ説教を垂れる者もいる。
「沢田君、どうして執行部に入らないの。寮長と同室の寮生が何の仕事もしないなんてこと、許されると思っているの」
「えっ、いえ、でもボク、そういった活動には興味がないので」
「ねえ、考えてみなよ。どうして月七百円なんて安い寮費で済んでいるのか。それは寮の仕事をみんなが分担してやっているからでしょ。それなのに自分は寮運営に一切携わろうとせず、他の人が絞り出した甘い汁だけを吸おうとしている。虫が良すぎるんじゃないかな」
そう言われては反論もできない。仕方なく沢田は
「仕事は簡単です。毎日寮食名簿をチェックして、食べない者の名札を下げ、食べる者の名札を上げる。それだけです」
しかしそれだけではなかった。寮食名簿の摂食数から寮生一人一人の食費を計算して会計部へ報告する仕事。また、食品標準成分表と仕入れた食材の種類と量から一食ごとの栄養成分と熱量を算出し、栄養バランスに偏りがないかをチェックする仕事もある。
さらに毎月開かれる各部会、執行部会への参加。全寮大会や大学当局との懇談会準備。さらに執行部に入った以上、寮が企画するイベントには強制的に参加させられる。本職は大学生なのか寮生なのか分からなくなってくる。自分の時間を大幅に削られて沢田の不満は日を追うごとに募っていった。
「安くないなあ」
毎月寮に支払う金額が思ったほど安くないのも沢田にとっては不満だった。水道光熱費、風呂やスチーム暖房のボイラー費、食費、これらが寮費七百円に上乗せされ、夕食をフルに頼めば一万円を超えることもザラだった。
しかも風呂は二日に一度。北陸は寒いというイメージがあるが、夏場はフェーン現象が発生し熱風が吹き荒れることもある。冬はともかく夏は毎日風呂に入りたいので銭湯へ行く。その費用も上乗せされる。
「みんな、もっと節約してくれればいいのに」
これらの経費は全て頭割りである。廊下の電灯やボイラー費などは仕方ないが、各部屋で使われる電気代、寮生用の共同炊事場のガス代なども、使った使わないに関わらず頭割りとなる。どれだけ自分が節約しても他人が浪費すれば何の意味もない。沢田の不満は募る一方だ。
「もっと節約しないと駄目だな」
授業料は全額免除されていたので滞納による退学の心配はなかった。しかし生活費を稼がなくては生きていけない。小遣いとお年玉をコツコツ貯めてきた貯金は徐々に残高を減らしていく。仕送りはない。奨学金は借金なので受けたくなかった。平日のバイトは学業に支障をきたしそうなのでやりたくなかった。
結局、日曜や祝日に単発のバイトを入れて金を稼ぐしかなかった。夏休みはバイトで埋め尽くすつもりだ。サークル活動など以ての外だ。金と時間がもったいない。
「おっ、今日は水曜日だ。忘れるところだった」
時刻は午後六時になろうとしている。沢田は慌てて自室を飛び出した。一階にある売店へと急ぐ。生活費の中で絶対に欠かせず、かつ、最も大きな割合を占めるのは食費だ。この出費を抑えることが節約生活最大の課題である。寮に入って良かったと沢田が思えた唯一のモノ、それは毎週水曜日、寮内の売店で売り出される一袋十円のパンの耳である。
「さすが沢田君。花の蜜に引き寄せられる蝶のように、水曜日は必ず売店にやって来ますね」
開店間近の売店の前には賄部の部長始め、すでに数名の寮生が待機している。耳パンは個数限定かつ人気商品なので開店数分後には売り切れてしまうのだ。
「はい、お店開けますよ」
「おばちゃん、耳パン一袋!」
そして今日も耳パンはあっという間になくなってしまった。出遅れて買えなかった寮生は口惜しそうに帰っていく。袋の中には約十枚の平たい耳パンが入っている。時には食パンからサンドイッチを作る時に発生する細長い棒状の耳パンが入っていることもあった。どちらにしても十円で食べられるのだから有難い話だ。
「これで一週間の朝と昼は確保できたな」
朝は自室で白湯を飲みながら耳パンを食べる。昼は大学へ耳パンを持参し、給茶室で無料のお茶と共に耳パンを食べる。こうすれば平日の食費は夕食費だけで済む。日曜は単発のバイトを入れるので、少し豪勢な食事にする。
「仕送りなしでもなんとかやっていけそうだ」
沢田は右手を左胸に当てた。その仕草はもう癖になっている。父の形見のお守り。嬉しい時や楽しい時は喜びを倍にし、悲しい時や辛い時は苦しみを半分にしてくれるお守り。これさえあればどんな困難にも打ち勝てるはず……それは今の沢田にとって疑う余地がない確固たる信念であった。
手探り状態で始まった沢田の大学生活は、夏休みを終える頃には泰然自若たるものになっていた。その一番の理由は経済的余裕だ。
大学に入って初めての夏休み、沢田は住み込みで西瓜収穫のバイトに勤しんだ。三食風呂付きなので食費も銭湯代も心配無用。忙しい時は朝四時半から午後六時まで畑で働かされる。無駄遣いをする余裕も気力もない。金も筋肉も貯め放題である。
「これだけ貯めればしばらく大丈夫だろう」
約一カ月で沢田が手にしたのは単発バイト三十日分の金。経済的余裕は心の余裕を生み出す。同時に沢田はかねてより描いていた「退寮そして下宿生活」のプランを真剣に検討し始めた。
「沢田~、ノート貸してえ~」
寮生活に不満を感じつつも、下宿より安い経費と耳パンは、辛うじて沢田を寮に繋ぎとめていた。しかし試験期間に入ったところで不満が爆発した。まるでそれが当たり前のように同期の学生が講義ノートを借りに来るのだ。
「厚かましいなあ」
と思っても口には出せない。嫌々ながらノートを貸してしまうのが沢田である。そもそも沢田は人付き合いが嫌いだ。友人は要らないと本気で思っている。経済的理由がなければ寮になど絶対に入らなかった。
しかし寮生の中にはその逆も多い。友人を作るのが目的で寮を選択する者もまたいるのだ。そしてそんな考えの持ち主の多くは他人も自分と同じだと思っている。友人など欲しくないのに友人になろうとしてくる寮生に沢田は心底うんざりしていた。
「とにかく当面の引っ越し資金はできた。しかしこれだけでは不安だな」
下宿に移るとなれば資金面での負担は確実に増大するはずだ。単発のバイトではなく恒常的に収入を見込めるバイトがしたい。真っ先に思いつくのは家庭教師だ。が、沢田は人に接する仕事は嫌だった。しかも家庭教師として働く時間帯は、これまで自分が勉強してきた時間帯と完全に重なる。この時間帯を仕事に奪われるのも嫌だった。
「何かいいバイトはないかな」
まだ残暑が残る頃から、沢田は大学が提供するバイト斡旋コーナーへ毎日足を運んだ。日曜祝日の単発バイトの多くはここで申し込んでいる。それに加えて毎日数時間だけで済む長期のバイトを探し始めたのだ。
「沢田君、バイト探しとるそうやな」
ある夜、沢田が寮の食堂で夕食をとっていると四回生の寮生が声を掛けてきた。
「はい。短時間で毎日できる仕事を探しています」
「ええのがあるで。焼き芋売らへんか」
「焼き芋、ですか」
興味を持った沢田は話を聞くことにした。その寮生が語るところによれば、この寮には先輩たちから受け継がれてきた石焼き芋リヤカーなるものが存在するのだそうだ。リヤカーに専用窯を乗せ、窯に詰めた石にサツマイモを埋め、薪を燃やして売り歩く。移動販売所のようなものだ。
「用意するのは芋と薪だけ。売れ残ったら食事代わりに自分で食えばええ。どや、やってみいへんか」
「リヤカーを引いて住宅街を歩くって疲れませんか。それに子供たちにからかわれそうだしなあ」
「ちゃうよ。相手にするのは一般住民やない。観光客や酔っ払いや。百聞は一見に如かず。次の週末、どんな仕事か見せたるわ」
少し強引だが親切心は感じられる。沢田は付き合うことにした。
土曜日の夜、仕込みの終わったリヤカーを引いて、その寮生と沢田は寮を出た。向かうのは金沢一の繁華街、片町だ。
「今日はここにするか」
リヤカーを止める。場所は重要だ。他の店舗の前ではなく、人や車の通行の邪魔にならず、さりとてそこそこ通行量の多い場所。商売の成否は場所選びでほとんど決まると言ってよい。
(売れるのかな)
その寮生は何もしない。呼び込みも客寄せもせず、リヤカーに積んできた椅子を下ろして座っているだけだ。沢田も余計な口出しはせず立っている。やがてひとり、ふたりと芋を買っていく者が現れた。寮生の顔見知りらしい者も買っていってくれる。大売れとまではいかないがそこそこ売れている。沢田は感心した。
(なるほど。長年寮生たちに引き継がれてきただけのことはある。これはいい商売だな)
この調子なら日付けが変わるくらいまで粘れば全て売り尽くせるかもしれない、沢田がそんなふうに思い始めた時、寮生が立ち上がった。
「そろそろ帰るで」
驚いた。ここに来てまだ二時間も経っていない。
「どうしてですか。芋はまだ残っているし、人通りが少なくなってきたとは言っても売れる見込みはあるでしょう」
「あんまり売れすぎると要らん嫉妬を買うたりする。何事もほどほどが肝心なんや」
その口調からなんとなく事情が飲み込めた。沢田の頭に「縄張り」とか「ショバ代」とか「怖いお兄さん」などの言葉がちらつく。学生は学生らしく小遣い稼ぎ程度に抑えておくのが、上手に世渡りしていくコツなのだろう。
「どや、それほどキツくないし稼ぎも悪くない、ええ商売やろ。やってみいへんか」
リヤカーを引きながら寮生が話す。正直、沢田も心が動かされた。しかしバイトを探す目的はあくまでも退寮して下宿生活を始めるためだ。このバイトは在寮していなくてはできない。
「実は……」
沢田は正直に話した。寮生の顔が曇る。
「なんや、寮を出るためにバイト探しとったんか。そんなら無理やな。まあええわ。他の奴を誘ってみるか」
この寮生は四回生。来年卒業するので後継者を探していたのだろう。最初に話しておけばよかったと沢田は後悔した。
「ところでこの芋はどこで買ったんですか。まだ寮には二箱残っていますよね。生協ですか」
「あれれ、沢田君、賄部やのに知らんの。君んとこの部長に頼んで、食堂で使う食材と一緒に仕入れてもらったんや」
そんな話は聞いていなかった。もちろん下っ端の一回生にいちいち報告するようなことでもないので、聞いていなくても当然かもしれないが、沢田の頭に余計な妄想が浮かんできた。
(まさかこの芋の代金、食費に上乗せして寮生に請求しているんじゃないだろうな)
「沢田君、なに怖い顔しとんの。ほれ、芋食べえや」
差し出された芋を食べる沢田。寮生がにんまり笑う。
「これで沢田君も共犯やね」
芋が喉に詰まりそうになる。やはりこのバイトには手を出さない方がいい、沢田はしみじみそう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます