1991年12月の朝刊配達

出勤は闇の中ぞいや

 沢田は目を開けた。闇の中にほんのりと白い天井が浮かんでいる。布団から右手を出して目覚まし時計を引き寄せる。午前三時三十五分。ほっと息を吐いて時計のアラームをオフにする。


「まだ三百秒ある。寝よう」


 さらに手を伸ばしてコタツのスイッチをオンにして目を閉じる。もちろん本格的に眠るつもりはない。これからバイトなのだ。二度寝すれば確実に遅刻する。これは暖かい布団から抜け出すために気合いを溜める五分間であり、まだ眠っている体に活を入れる五分間なのだ。


「アラーム無しで起きられるほどに体が慣れたのに、あと数カ月で卒業か。四年間なんてあっという間だな」


 沢田は大学生。親元を離れて石川県金沢市で間借り生活をしている。住んでいる町家の部屋数は五。三階に二部屋、二階に三部屋。沢田の部屋は二階の真ん中だ。

 築百年ほどの古民家とあって防音対策などはまったく施されていない。部屋の壁は薄く、話し声はもちろん日常の物音も筒抜けだ。音量を最小にしていても目覚ましの音は二階だけでなく上下の階にも響き渡る。しかも午前四時前だ。

 文句を言われたことは一度もなかったが住人にとってはさぞかし迷惑に違いない。物事には無頓着な性格の沢田であっても、この部屋に引っ越して来た時から、目覚ましの音は大きな気掛かりのひとつだった。


「目覚ましに頼らず起床できるようになろう」


 沢田は決心した。決心はしたが早く寝ようとはしない。眠くならないのだから仕方がない。町家に来るまでの生活を変える気はなく、単に「午前四時に起きよう」と思うだけである。


 それでも人の体は不思議なものだ。毎日同じ時刻に起きているうちに慣れてしまったのか、一年も経たないうちに目覚ましはほとんど不要になった。例外は、酒を飲み過ぎたり試験期間で寝不足が続いた時など。それに関してはやむを得ないものとして諦めている。


「起きるか」


 沢田は布団をはねのけて立ち上がった。天井からぶら下がっている裸電球のスイッチをパチンとひねる。オレンジ色の光がほとばしり狭い部屋を照らし出す。それだけで十二月の冷えた空気が暖かくなるような気がする。


「う~、寒い寒い」


 気がするだけで寒いことに変わりはない。布団を出るとすぐにコタツへ足を突っ込む。五分前にスイッチを入れておいたので暖かい。中に潜らせておいた服やズボンも適度に温まっている。手早く着替えて耳を澄ます。


「雨は降っていないようだな」


 隙間だらけの窓からはどんな小雨でも降れば必ず雨音が聞こえてくる。外で働くバイトにとって雨は一番の大敵、それがないのなら今日の仕事は気持ちよく終えられるだろう。

 いつものようにポットの湯を湯呑に注いで飲む。働く前の一杯だ。ぬるくなった白湯が胃に染みていくのを感じながら、裸電球の弱々しい光に照らし出された自室を見回す。


「ここに来て間もなく三年か」


 東から西に畳が横に五枚並んだ廊下のような部屋。天井は低い。手を伸ばせば余裕で届く。江戸時代の庶民の家屋は天井が六尺、百八十センチほどしかなかったそうだ。きっとこの部屋もそれに準拠しているのだろう。

 小窓は南にあるが開ければ隣家の壁が目前に迫っている。日はほとんど入らない。東側には古道具屋で購入した勉強机と椅子、その横に本棚。親が提供してくれたコタツと布団。南側に物入れのような押入れ。そして部屋の西側に積み上げられた新聞紙。それが沢田と共に三年間を暮らしてきた空間だ。


「行くか」


 白湯を飲み干して立ち上がる。タオルとカッパと折り畳み傘の入った袋を持ち、部屋の北側にある滑りの悪い引き戸をガタガタ言わせて開ける。

 その引き戸には戸締り用の掛け金、これは各部屋に付いている。入居者は各々が用意した南京錠を掛けて外出するわけだが、掛け金などドライバー一本あれば一分もかからずに取り外せる。鍵を掛けたところでほとんど意味はない。

 が、部屋に金目のものなどあるはずがないことは入居者全員わかっているので、誰もそんな行為には及ばない。そもそも学生向けのアパートではなく、こんな不便で住みにくい築百年の古民家を下宿先に選んた時点で、本人自ら「我は貧乏なり」と宣言しているに等しいのだ。


「これでよし」


 それでも一応鍵は掛ける。外出する時の礼儀のようなものだ。

 廊下は暗い。毎朝のことなので照明を点けずに進み、北にある階段を下りる。一階は大家さんの居住空間だ。夏などはこの時間でも起きていることがあるが、さすがに十二月の午前四時はまだ眠っているようだ。ひっそりとしている。


「おはよう」


 玄関で寝そべっている番犬に声を掛ける。学生がいなくなる日中、老夫婦だけになったこの古民家を守る忠実なる用心棒だ。さりとて飼い主同様、こちらもかなりの老犬である。吠え声はそれなりに迫力があるものの、合間にゼーゼーと苦しい息遣いが聞こえてくるのが哀れを誘う。


「……」


 沢田が挨拶をしても忠実なる番犬は完全に無反応。毎朝のことなのですっかり慣れ切ってしまっているのだ。

 沢田は靴を履き、玄関の鍵に手をかける。昔ながらのネジ締め錠、ネジを引き戸の穴に突っ込み、回転させて錠を掛けるタイブの鍵だ。早く回すとキシリ音がするのでゆっくりと回す。ネジを抜いて引き戸を開ける。


「うわっ!」


 沢田は思わず声を上げてしまった。玄関の外に男が立っていたからだ。


「だ、誰……」


 三年近くこの古民家に住んでいるが、こんな経験は初めてだった。夏の早朝ならまだしも、雪が降り始める十二月の午前四時前に、鍵の締まった玄関の前に立っているなど尋常な人間のやることではない。寝起きでぼんやりとしていた沢田の頭は一瞬にして活性化してしまった。


「お仕事、ご苦労様です」


 男が明るい声で言った。活性化した沢田の頭が落ち着きを取り戻す。声を聞いて正体がわかったのだ。


「なんだ、佐藤さんですか。どうしてこんな時間に玄関の外に立っているんですか」


 男は沢田の隣室に住む院生の佐藤だ。沢田が来た時にはすでにこの古民家に住んでいた、現在最古参の住人である。直接顔を合わせることは滅多にないが、隣室から漏れてくる話し声を毎日聞かされているので、声を聞いただけでわかったのだ。


「そろそろ出かける時間かと思いましてね、早くカギを開けてくれないかと外で待っていたのですよ」


 沢田のほうが年下なのに丁寧な口調で話すのが佐藤の特徴だ。噂では幼稚園児にも敬語を使っているらしい。


「うっ、酒臭い。飲んでますね」

「今日は土曜日。飲まないでどうしますか。サタデーナイトフィーバー!」


 いや、日付が変わって今日はもう日曜日だとツッコミたくなったが、酔っ払い相手にそんな意見をしても仕方がない。


「ボクを待ったりせず友達のアパートに泊めてもらえばよかったんじゃないですか。どうせ誰かと一緒に飲んでいたんでしょ」

「そうですよ。一緒に飲んでいたのですよ。ついさっきまでね」


 口を開くたびに酒臭い匂いが漂ってくる。十二月に入れば忘年会と称して酒を飲みまくるのが学生というものだ。佐藤もまた昨晩はしこたま飲んで門限の午後九時を過ぎてしまったのだろう。


「だとしてもこんな時刻に外にいたら風邪をひくでしょう」

「子供は風の子。大人は風邪の子、ヒック」


 だんだん話が噛み合わなくなってきた。沢田は佐藤の横をすり抜けて外に出た。これ以上の会話は時間の無駄だ。それにぐずぐずしているとバイトに遅れてしまう。佐藤の背中を押して玄関の中に入れると一言注意を付け加える。


「じゃあ、ボクは行きますけど、くれぐれも戸のカギは掛けないでくださいね。今度はこちらが入れなくなりますから」

「お仕事、ご苦労様です!」


 どうやら沢田の言葉をきちんと理解していないようだ。最初と同じセリフを繰り返している。

 頼りない佐藤の答えに沢田は若干不安になるが、バイトが終わって帰宅する頃には老夫婦も起きているはず。カギを掛けられてしまっても、気兼ねなく外から呼んで開けてもらえばよい。


「犬、佐藤さんを頼んだぞ」


 忠実なる番犬は我関せずとばかりに寝そべったままだ。目を覚ましてはいるようだが二人とも見知った人物なので特に警戒もしていないのだろう。沢田は戸を閉め、外に置いてある自転車のスタンドを上げた。


「佐藤さん、大丈夫かな。あのまま玄関の上がり口で寝なきゃいいんだけど」


 いくら同じ屋根の下に住んでいるとは言っても、酔っ払いを部屋まで連れて行ってやるほどの人情は持ち合わせていない。沢田は門扉を開けて敷地の外へ出ながらつくづく不便な下宿先だと痛感した。


「午後九時の門限か。このバイトで良かったな。他のみんなはどんな生活をしているんだろう」


 大学の講義は五限まである。その終了時刻は午後六時。それから夕食をとったり、サークル活動をしたり、バイトをしたりすれば、午後九時などあっという間に来てしまう。大学生にとってはかなりつらい門限と言える。


 午後九時に設定されている理由は簡単だ。大家である老夫婦がこの時刻に戸締りをして就寝してしまうからだ。そして戸締りをされてしまうと家の中には入れない。玄関も裏の勝手口も部屋や廊下の窓も、内側から掛けるタイプの鍵ばかりで外側からは開けられないのだ。

 どうしても中に入りたい時は玄関の戸を叩いて大声で誰かを呼ぶしかない。さりとて沢田を含めてそんな醜態を晒した下宿人はこれまで見たことがなかった。間に合わないと分かれば無理に帰ろうとせず、友人の下宿先へでも転がり込むのが常だったからだ。それだけに今朝の佐藤の行動は思い掛けないものだった。


「酒のせいだろうな。気を付けよう」


 貧乏暮らしゆえ自腹で酒を飲むことは滅多にない沢田であったが、飲む時は深酒をしてしまう悪癖があった。いつか自分も今の佐藤のような失態を演じないとも限らない。

 自転車を通りに出した後、門扉を閉めて道の向こう側を見る。曇天の夜空の下、街灯の光に照らしだされた卯辰神社の鳥居が、邪鬼を踏みつける多聞天のようにこちらを睨み付けている。


「あの鳥居、酒には溺れるなと忠告しているみたいだ」


 玄関を出れば嫌でも目に入る卯辰神社の鳥居は沢田のお気に入りだ。バイトへ行くのが億劫な時、気が滅入る講義が待っている時、そんな言われもない倦怠感に心を支配されている時でも、玄関を出てこの鳥居を見るだけで、それまで落ち込んでいた気分がまるで誰かに尻を叩かれたように回復するのだ。


「この神社がなければ他の下宿にしていたかもな」


 家賃が安い、これが下宿先決定の最大の理由であることに異議は唱えない。が、もし正面に神社があるという条件が欠けていたならば、即決せずにもう少し時間をかけて別の物件を探していたかもしれない。そう思えるほどにこの神社が好きだった。神社と古民家によって形成されるこの空間が好きだった。


「行くか」


 沢田は自転車に跨って漕ぎ始めた。何度も折れ曲がる細い小路を浅野川目指して走る。神社から川沿いまでは道のりで約三百m。ほどなく川に架かる梅の橋に着くと沢田は自転車を下りた。

 梅の橋は歩行者と自転車専用。橋の両側には階段の他にスロープも設けられているので、自転車を走らせたまま渡れるのだが、沢田はいつも自転車を下り、歩いて渡ることにしていた。

 やがて橋の中央まやって来るとそこで立ち止まり、ジャンパーの下に着ているポロシャツの左胸を右手でぐっと握り締めた。固い手触りが伝わってくる。


「父さん、今日も一日が始まったよ」


 左胸のポケットに入れているのは、沢田が幼い頃にこの世を去った父の形見のお守りだ。袋はありふれた布製だが中に入っているのはステンレスの板だ。表面には沢田の氏名が彫られている。沢田が生まれた時、父自らの手で作られたものだと、父の死後母から聞かされた。以来、沢田はそのお守りを肌身離さず持ち歩いている。


「仏道とは彼岸と岸をつなぐ道。迷いを捨てて進まれよ」


 それは子供の頃、夏休みに寺で聞かされた説教の一節だ。川を見るたびに沢田はこの言葉を思い出す。今自分が立っている浅野川を三途の川に見立てれば、寺院群や古民家のある右岸が彼岸、大学やバイト先がある左岸が此岸と言えるだろうか。


「梅の橋を渡る度に生き死にを繰り返しているのだ」


 左岸に着いた沢田は再び自転車に跨った。これから向かうバイト先、北國新聞高岡販売所まではまだ二km以上ある。ペダルに乗せた足に力を込め、街灯に照らされた川沿いの道を沢田はひたすら漕ぎ続けた。

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