砂文字

子どものころ、海岸で遊んでいると、ひとりでに砂文字が書かれることがあった。自分の指が書いたのではないそれらは、「あ」とか「う」とか「へ」とか「ゐ」を波打ち際にしたためては、波に覆われてしごく自然に消えていった。書かれては消される。書かれては消される。しかしあるとき、文字は消えることを忘れた。ありのままの形象を記憶する断片が残存しつづけ、凝視していると視線に堪えかねたように、観察者を追尾してきた。すでに陽が傾き、土埃と見分けのつき難い色味に転じた足下を、ねずみ花火のようにのたうちながら。といってものろい身振りであって、小走りで岩床まで引き上げればもう追ってこない。一息ついて、なんと面妖なと訝り、やおら波打ち際に戻って周囲を検見するがごとく歩き回り、ふと気づくとまた傍らに書かれている、そんなことを繰り返しているうちに日暮れがきた。文字列は「えああいう」とか「うえあへあ」とか「うゑゐいあ」となり、伝達の身振りをあらわにしていき、しかしそれはとうぜんに不気味であって、いっぽうで好奇心に後ろ髪をひかれる代物であったにせよ、いつまでもぐずついているわけにもいかずに、父の車で帰った。今、息子を見ていると、炎を掲げた真夜中の海岸では「ヴぉヴぃッひひゐうゑぇあゥうう」などと長文に追尾されかねないようだ。

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