いざ、ヴァルナへ

「起きたか、シャチク」


 瞼を開いた時、眼前にあったのは視界を覆うジュノの顔だった。

 顔の近さに思わず後ずさり、ゴツンと壁に頭をぶつけてしまった。


「アイタタタ」

「何慌ててるんだ。別に、取って食おうと思ったわけじゃないぞ」


 ジュノはクスクスと愉快そうに笑っている。

 そんなの分かってる。近くてビックリしたんだ。相変わらずパーソナルスペース狭すぎだろう…。


 ジュノはシンプルな模様が編み込まれた毛糸の服を着ている。このあたりの民族衣装だろうか。その服装が、この世界が現代日本とかけ離れた、遠い世界にいることを改めて認識させる。


「シャチクが目覚めたらヴァルナまで連れてくるよう、アレに言われている。早速支度だ」


 ジュノは立ち上がると、奥の部屋に入った。

 用意といっても着の身着のまま。いつものスーツとウィンザーノットできっちり締めたネクタイだけだ。その格好のまま、藁のマットの上に寝ていたようだ。


 ...などと思いつつ、この状況に思いのほか馴染んでいる自分に驚いている。


 でも、夢の中って、そんなもんだ。どんなに驚くべきシチュエーションでも、その状況に、なんの疑問も持たずに、まるでもともとそこにいる登場人物であるかのようにふるまう。


 ならばここは、本当に夢の中なのだろうか。


「目をさましたようじゃな、ヤマネ」


 外で作業をしていたのだろうウォル老人が、ロッジに戻ってきた。


「だいたい二日ほど寝ておったな。心配ないとアレは言っていたが、どうじゃ、身体の調子は」


 たまりにたまった仕事の疲れも感じないし、むしろいつもより快調と言えるのだろう。現実社会でも、いつもこうだったら嬉しいんだけどなぁ…。


 それにしても二日か。ちょうど、元の世界に戻っていた時間と重なる。時間の経過は、元の世界とこちらでシンクロしているのだろうか。


「ジュノから聞いたと思うが、早速ヴァルナに行ってもらいたい。アレが待っておる。ヤマネが目覚めた時のために、荷物はここにまとめておいた。およそ半日ほどの短い旅になるだろうから、食料は用意していない。ここからヴァルナまでの道のりの間、二つほど宿場町がある。そこで食べていくがよかろう」


 と言いながら、ウォル老人は手のひら大の小さな麻袋を差し出した。


「ヤマネの財布じゃ。食事代が入っている。お金はアレが置いていったものじゃ。あやつがおぬしを勝手な都合で呼び出したのだから、遠慮無く使うがいい」


 中には銀貨が一枚入ってた。この世界での通貨事情は分からないので、この銀貨がどれほどの価値があるのか分からなかったが、ウォル老人の口ぶりから予測するに、俺とジュノの食事代以上の金額なのだろう。


 話の流れ上、ヴァルナに行く事は規定事項のようだ。

 実際、このロッジにいてもこれ以上やることはないし、アレーシアさんには聞きたいことがたくさんある。あとは知的好奇心というやつだ。この世界の都市というものを見てみたい。現実に戻った時、シンジへのいい土産話にもなりそうだし。


 しばらくすると、奥からジュノが戻ってきた。この前もまとっていた草色の外套をまとい、同じ色のフードをかぶっている。


「いくぞ、シャチク。用意はいいか?」



 弓と矢筒を背負い、右手に布製のバッグを持ったジュノの後ろについていく。こちらもウォルじいさんに用意してもらった背嚢はいのうを背負っている。


 少し歩くと、糞尿のにおいが鼻をついた。いわゆる田舎の香水だ。その先には、素朴な作りの畜舎ちくしゃがあった。


 ジュノは可愛がっていた牛の鼻を撫でて、別れの言葉をかけていた。牛も分かったのか、モォーと大きな声をあげる。


 その並びに、見覚えのある白馬がつながれていた。

 これ、確かアレーシアさんの馬では?


「そうだ。シャチクを乗せてこいと貸してくれた。もちろん、馬には乗れるんだろう?」


「乗ったことないよ」


 はぁ?とばかりにジュノはぽかんと口を開いた。


「あきれた。馬に乗ったことないなんて」


「馬なんて必要がない世界にいたんだ。仕方ないだろう? 俺の世界じゃ、馬は競走させて賭け事をするための動物になっているんだよ」


「ふうん。随分お気楽な世界なんだな。シャチクの身体がひょろひょろなのも頷けるわ」


 なぜここで突然悪口を言われたか。


「乗れないものは仕方ない。シャチクは私の後ろに乗れ」


 ジュノの小さな体はヒョイっと馬の背まで飛び上がると、くらに収まった。


「さあ、早く」


「すまん、乗り方がわからない」


「はぁ!? そこからなの!?」


 結局、ジュノの手助けを受けながら、白馬の尻に座ることとなった。


「陽が落ちる前までに着きたいから、そこそこの速さで走るよ。ちゃんと私につかまってなよ」


 と言われたので、ジュノの背中を抱くようにして、腕を身体の前にまわした。ジュノは座高も低いので、俺は少し前屈みになった。


「いくよっ! ハイッ!」


 ジュノのかけ声と共に、白馬は走りだす。急加速に、俺の身体は慣性でぐっとのけぞる。


 直後。手のひらにぽよんとした感触が。思わずぐっと握ってしまう。


 ぷにぷに。なんだか柔らかい。馬が急加速していく中で、この手のひらの感触だけが、現実的ではないように思えてくる。このぷにぷにを揉んでると、なぜかもっと気楽にやれよと言われているような気がしてくる。


「バ、バカ! どこさわってるんだ! 手をはなせ!」


 などと考えていたら、ジュノが振り向きざまに強烈なエルボースマッシュ。顎への直撃を受けて思いっきりのけぞる俺。危うく馬から落ちそうになるが、我ながら脅威のバランス感覚でなんとか落馬は回避。


「このスケベ!」


 振り返るなり、ジュノはイーッと歯を食いしばってみせる。ここではじめて、ぷにぷにの正体が分かってしまった。


 完全に不可抗力ですって…。



 街道に出て最初に入った宿場町マリヴィアで休憩することとなった。


 初めての乗馬で腰も脚もガタガタだ。馬の背をニーグリップしていた太ももなどブルブルしている。馬ってこんなに疲れるのか。自転車が原チャリくらいの気持ちで乗ってた俺、完全に見込みが甘かったようだ。


「シャチク、あれ買って」


 不機嫌そうな顔のジュノが指さす先には、小さなパンが並んだ露店があった。


 俺を見上げる視線が痛い。機嫌が悪い理由は分かっている。あの小さなパンは、さしずめ謝罪と賠償のあかしということか。


 アレーシアさんにもらった銀貨が、何枚かの銅貨に変わった。


 道端の木陰に座ってパンを食べる。


 ジュノの反応を見ると、この小さなパンは、多分お菓子枠の食べ物なのだろう。


 自分の分も買ってみたが、甘味も少なくて、現代日本の基準からすると、お菓子と呼べるほどのものではなかった。リンゴやモモと言った果物の方が美味しいような気がするが、ジュノはこのわずかな砂糖の甘さがほしかったのだろう。


 道行く人、街の人たちが、ちらちらとこちらに視線を送る。理由は簡単だ。俺の格好が珍しいからだろう。


 なにしろ、素朴な麻の服メインの世界に、超未来素材たるポリエステル繊維のスーツを着た男が地べたに座ってパンをかじっているのだ。しかもネクタイはウィンザーノット。目立たないわけがない。


「なんか悪いね。こんな格好で。人の視線、気になるよね…」


 しかしジュノは答えず、フルフルと首を横に振った。


「見られてるのは、シャチクのせいだけじゃないよ。大丈夫」


 そういうジュノの褐色の笑顔は、なぜだか儚げだった。


 その表情に俺は、まつりちゃんの顔を重ねていた。



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