お世話したい彼女

 目を覚ます。


 あの夢は、見なかった。


 でも、それで良かったと思う。


 何しろ今日は土曜日だ。この日がどれほど待ち遠しかったことか。

 会社にいかない日がある。なんと幸福なことだろうか。


 枕を抱きしめ、二度目の構え。


 …のはずだったのだが。


 ドンッ、ドンッとドアが鳴る。


「りょーいちさーん! りょーいちさーん!」


 そして、俺を呼ぶいつもの声。

 大家のお嬢様のおなりであります。


 眠気を理由に無視しても良かったのだが、それで一度「りょーいちさん死んでるかも!」と大騒ぎされた事があるので、出ないわけにはいかなかった。


 ゆるゆると布団を抜け出し、頭ボサボサ、毛玉だらけのパジャマのまま玄関の扉を開ける。


「よかった、生きてた」


 そこには、本気で安堵したまつりちゃんがいた。

 まったく、ずいぶんなご挨拶だ。


 ライトブラウンのセーターに、白のロングスカート。大人っぽい出で立ちだが、なにしろ童顔で背が低いので、歳不相応に背伸びしたように見えてしまう。

 もちろん、本人には言わないけど。


「おばあちゃんが、これ持っていきなさいって」


 そう言ってまつりちゃんが差し出したのは、ランチクロスに包まれた弁当箱だった。大家さんが俺への差し入れ用に使っている、曲げわっぱお弁当箱だ。


「そんで、私も一緒に食べていい?」


 と言って、まつりちゃんは背の後ろに隠していた、左手に提げた弁当箱を見せた。



 ところで、我が家は1Kだ。小さなキッチンスペースと8畳ほどの洋室がある。

 そのため居間は寝室を兼ねている。


 なにが言いたいかというと、男やもめに女子高生がいる中、布団がしいてあるという非常に気まずいシチュエーションということ。


「テレビでも見ていたら?」


 ごまかすようにリモコンの電源ボタンを押す。


 芸能人が私生活を語り、それでわいのわいのと盛り上がる、いかにも土曜日らしい無内容だが愉快な番組が液晶テレビに映される。


「あ、私、食事の用意するから。りょーいちさんこそ、コタツに入ってて」


 しかし、まつりちゃんはキッチンへ行ってしまった。いつものお節介が始まったようだ。


 カーテンを開ける。冷えるが、いい天気だった。


 布団はそのままベランダに干す事にした。


「お茶作るから、お湯わかすね」


「はいはい」


 我が家には、まつりちゃんが持ち込んだ急須とお茶っ葉がある。たまにこうして、お昼や夕飯を一緒に食べているからだ。


「なにか、やることある?」


「りょーいちさんは座ってていいから。私に任せて」


 と、言いながら、まつりちゃんは食事の用意を始めた。


 いつの間にか、俺の方がお客さんみたいになってしまった。まつりちゃんが「任せて」と言ったときは、手伝いに入ってはいけない暗黙のルールになっていた。


 仕方なくコタツに入り、芸能人の内輪ウケトークショーを眺めることにした。休みの日に、こういう脱力系番組が多いのは、平日頑張った人たちの脳みそを極力使わせないためなのだろう。特別おもしろいとは思わないが、だらだら流すにはちょうど良い。


 まつりちゃんはのんびりしている子だが、作業の効率は非常に良い。お湯が沸くまでに、シンクにたまっていた洗い物を全て片付け、床から生えたペットボトルを処分し、ゴミ袋をパンパンにしてしまう。


 そして恐ろしいことに、この部屋のどこになにがあるのか、まつりちゃんはほぼ把握している。ゴミ袋だって、冷蔵庫の上にある籠から取り出したのだ。以前掃除を手伝ってもらった時に教えた場所を、きっちり覚えている。まつりちゃん、賢い。


「♪~」


 まつりちゃんの鼻歌が聞こえてくる。


 俺がこのマンションに住み始めたのは、大学に通い始めた8年前。まつりちゃんはまだ9歳の小学三年生だった。


 当時から一緒にご飯を食べたり、遊んであげたり、勉強を教えてほしいと部屋にあがりこんだりしていた。


 まつりちゃんには兄弟がいなかったこともあり、いつの間にか俺が兄代わりになっていた。おかげで大家さん一家にも可愛がってもらい、ありがたい事に、お風呂の改装をはじめ、いろいろと優遇してもらっている。


 両親は去年から中国に転勤となったため、現在まつりちゃんは大家さん、つまり彼女の祖母と一緒に暮らしている。そのため、ちょっとした力仕事などは、お手伝いするようにしている。まつりちゃんの自転車のメンテナンスも俺の役目だ。


 そんな家族ぐるみのつきあいがあり、俺自身が生活能力に乏しいこともあって、彼女がなにかと気にかけてくれるようになった。たまにお節介が過ぎると思うこともあるが、自分の事を気にしてくれる人がいる事は、幸せなことでもある。少なくともその人にとって、自分は必要な人間なのだと思えるから。



 コタツの上にお弁当箱が二つ。湯飲みが二つ。ついでにインスタントのお味噌汁も。

 まつりちゃんの湯飲みもお椀も、もちろん我が家の常備品だ。


「いただきます」

「いただきまーす」


 和風総菜オンリーの渋めの弁当だが、味は絶品。店屋物のように濃い味付けではない、毎日食べられる優しい味だ。独り暮らしではなかなかありつけない味とも言える。


「最近勉強はどう?」


「期末試験近いから頑張ってますよー」


 期末試験かあ。すごく懐かしい響き。


「ねぇ、りょーいちさん。明日、勉強見てほしいんだけど。今日はこれから友達と約束があって」


「いいけど」


「やった! 旧帝大卒のりょーいちさんに教えてもらえたら、もうテストもばっちりだね」 


 まつりちゃん、ニコニコしながら煮物のこんにゃくを口に運ぶ。


 その笑顔に、夢で見たジュノの顔が重なった。


 そうだ、まつりちゃんにも、あの夢の話をしてみようか。

 シンジの時とは逆に、それなりに詳しく夢の内容を話してみる。


 まつりちゃん、きょとん、とした顔をして一言。


「ゲームとかアニメみたいな話だね?」


 ですよね。


「現実に疲れたから、そんな夢見ちゃったのかな。りょーいちさん、このところずっと、帰って来るの遅いでしょ? 心が悲鳴をあげて、現実から逃げたい願望が夢になったとしたら、私心配だなあ」


 まつりちゃん、小さな身体をぎゅっと縮めてそわそわしだす。

 いや、そんな深刻な話ではないと思うんですよ。最初にまつりちゃんが言ったように、ゲームやアニメからインスパイアされただけのものかもしれないし。


「りょーいちさん、ちょっと足伸ばして?」


「ん?」


 言われたまま、足を伸ばす。まつりちゃんのぽよんとした太ももの感触が足から伝わった。もちろん、不可抗力だ。わざとではない。

 だけどまつりちゃんは、そんなお肌の触れあいを気にすることなくコタツ布団をめくると、臆することなく俺のパジャマの裾をくるくるとめくりだす。


「ホントだ、打撲ができてる」


 でしょ? 不思議だよね。


「でも、寝ぼけてコタツの足にぶつけただけかもよ」


 と言いながらコタツを出ると、救急箱から冷感湿布を取り出し、ペタリと打撲に貼ってくれた。


「でもね、私にそっくりな女の子が出てきたというのは、いいなって思う」


 まつりちゃんは、どこか上機嫌だ。


「りょーいちさん、今日どこかでかけるの?」


「ん? 夕飯の買い物くらいかな…」


「寝癖ついてるよ。私がかしてあげるね」


 まつりちゃんは俺の後ろに立つと、洗面所から持ってきたブラシでいてくれる。ごしごしと、ブラシの先端が頭皮に触れる感覚が心地よい。

 そのまま、まつりちゃんの手に頭をゆだねる。他人に髪をいじられるのって、なんでこんなに気持ちイイんだろうなぁ。


「あんまり、仕事でムリしないでね、りょーいちさん」


 俺だって本当は、こんなにクタクタになるほど、働きたくはないんだよ。

 でも、フットサル佐倉居がねぇ…


「NOと言う勇気だって、必要だと思うよ。体壊してからじゃ、遅いんだから」


 ごもっともなんですけど、そのNOを言うのが、社会人には大変なんですよ。

 …と、子供のまつりちゃんに言っても分からないか。


 時計の針が13時を回った。つけっぱなしのテレビは、再放送のサスペンスドラマを流しはじめる。


「あ、約束あるから。私帰るね。また、明日来ます」


 空になった二つのお弁当箱を持って、まつりちゃんは部屋を後にした。


 さて、髪も整えてもらったし、俺も買い物にいこうか。


 などと思いながら、見送った玄関からキッチンを通り、居間へと戻る。


 …はずだったのだが…。


 居間に入る前に、強烈なめまいが起きた。

 足から力が抜ける。立っていられない。

 キッチンのフローリングに膝をつき、重力に促されるように身体が床に伏せる。

 立ち上がらないと。だが、両手がしびれて力が入らない。

 強烈なめまい。視界がぐにゃりと歪み、あらゆるものが振動しながら回っている。

 バチバチと、視界が何度も暗くなる。やがて身体中から力が抜け、俺の視界は完全にブラックアウトした。

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