第3話 偉大なる逃走。partⅡ



 


「アールが逃げたの?」


 母の言葉に、妹の美代はソファからぐっと身を乗り出して問うた。

 アール?


「だってあの子、そうやって鳴くの。アール! って」


 これも後から知ったことだけど、小説のステイト・オ・メインも『アール』と鳴くことから、そんなふうに呼ばれていたらしい。たぶん、そこからの連想でメイン州という名前になったんだろう。私が生まれた時に「おぎゃあ!」と鳴いて、『おぎゃあ』と名付けられないでよかった。


 過剰に心配症の母は目に見えてオロオロしていて、父は相変わらずテレビ画面を嘲笑していて、妹だけが大はしゃぎしてる。私? 私は『産まれた時におぎゃあと鳴いて』云々と考えてしまうくらいに、まったく他人事って感じだった。

 だって、私はステイト・オ・メインのあの眼差しを見て、知っていたから。あの力ないぬいぐるみのような体たらくを知っていたから。


「ねえ、見に行っていい?」

「馬鹿なこと言わないで!」


 妹の無邪気で恐ろしい提案に、母は眉間の皺を濃くした。

 でも、母もステイト・オ・メインを知っているはずだ。むかし、私がせがんで何度か連れて行ってもらったことがある。当時の私は、あの熊に夢中だった。あの情熱はいったい、何だったのか。今の私では要として知れない。


「美代みたいに小さいと、頭からガブっといかれちまうぞ」


 父がテレビを凝視したまま、渇いた笑みとともに言った。妹の美代は、むっとむくれた。


「変なこと言わないでよ、お父さん。アールのことなんか何にも知らないくせに!」

「熊のことなら、ちょっとは判るさ」


 そう言って父はおもむろにスマホを取り出した。……おいおい。


「えぇと、なになに……主に植物食傾向の強い雑食だが、ジャイアントパンダやメガネグマのように植物食傾向が強い種や、ホッキョクグマやヒグマ、ナマケグマのように動物食傾向が強い種も存在する。へぇ~。 

 ……ホッキョクグマは動物食傾向が強い! なるほど。お!……一度人間の肉の味を覚えたクマは今度は人間そのものを「エサ」と見做し、手当たり次第人間を襲うようになる! へーほー、おっそろしぃ。以上、ウィキぺディアより抜粋」


「お父さんの馬鹿!」


 その通り。お父さんは馬鹿でクソだよ。大正解! よくわかったね!

 ファッキン・シットDE賞を授けたいよ!! もちろん父に。


 で、美代はすっかり機嫌を損ねちゃったみたい。当たり前だけど。

 顔も素性も知らない誰かの書いた情報を得意気に語った父のダサさに私はオェっときた。それにしても、男が可愛い子に悪戯したくなるのって、いつになったら治るんだろう? 

 こういう積み重ねが、いつか本当の軽蔑になって返って来るって、ほんとに判らないのだろうか? 父は他のサイトも調べながら薄ら笑いを浮かべている。ああ、ホントにもう……。


「なぁ、母さん。あそこの園長は無事だったのかな?」


 父の資料丸読みを聞いていた母はすっかり顔面蒼白だった。


「……怪我されたそうよ。右腕だって」

「ほぅら、人の血の味を覚えたぞ!」

「アールは意味もなくそんなことしない!」


 美代はますますムキになって、父はどんどん図に乗って気持ち悪い。そろそろ仲裁に入ってあげるべきかと口を開きかけた瞬間、


「熊の気持ちなんか、誰にも判ってたまるもんですか!」


 母がキンキン声で怒鳴り、二対一になってしまった美代は「馬鹿!」と叫んでリビングを出て行った。あーあ。母は自分の叫びにいちばんびっくりしたみたいな顔で、出ていった美代の残像を見開かれ目で見送っていた。

 父だけがへらへら。『仕方ないな、まったくガキなんだから』みたいな。……なんだこいつ。

 私は父を侮蔑の眼差しで睨み付けた。


「お父さん、美代がもう物心付いて何年経ったか判ってる? 嫌なこととか悲しいことって、いつまでも憶えてるんだよ? 消えないんだよ? それだけは知っといてね。それで、美代が中学とか高校になって、お父さんを軽蔑し始めても、絶対に被害者みたいな顔、しないでよね」

 

 すると、父はせっかく鼻先でボールを回して見せたのに、ご褒美を貰えなかったオットセイみたいな顔になった。


「……なんだお前、父さんが嫌いなのか?」


 は?


 私はあまりのことに、言葉も出ないし思考も成層圏を飛んでどっか行っちゃったみたいになった。


 部屋が少し埃っぽくなったような気がした。

 父は私の顔をじっとりと眺め回した後、視線をテレビに戻した。音量が大きい。私がリモコンに手を出そうとすると、父は無愛想に「触るな」と言った。触るな、だって。

 私は何も言うことが出来なかった。私の発言はただの忠告っていうか、今から覚悟しておいた方がいいよっていう、どちらかと言えば親切心に基づいたものだった……と思う。

 なのに、急に好き嫌いの話にすげかえられて、ドキッとしたし、ダサッとも思った。面倒臭い彼氏みたい。男がみんなこうでないと祈りたい。男からしたら、面倒臭い彼女みたいなんだろうか。

 だとすると、人類がクソなのね?! 滅びよ、人類! なんて私が頭ン中で唱えても、誰ひとり死にやしないんだ。まったく神様はケチだ。父くらい、鼻息ひとつで殺してみせてよ。なんてね。

 私にだけ通じるジョークは何の意味も持たない。悲しいくらいに。


 ふんだ。


 しばらくの間、不貞腐れてテレビを見る機械を気取っていると、父はまた突拍子もなく口を開いた。


「……お前、進路は決まったのか?」

「はぁ?」


 急に何を言い出したんだこいつ。私の進路? 熊が脱走して、末娘を泣かせて、私に嗜められて、それで私の進路がどうして今出てくるんだろう?


「どうなんだ?」


 父は真面目腐って追撃を試みてきたけど、何だよそれって感じだった。アレなのかな? 思ってもみない好き嫌い発言を帳消しにしたくって、唐突に父の威厳を発動させなきゃみたいに焦ったのかな? 


 何をそんなに肩肘張ってるんだろう。家族ってそういうもんなの? いちいち嘗められちゃいけねぇ! っていう暴走族とかヤーさんみたいな根性を示さないと、大黒柱たり得ないもんなの? 抱腹絶倒もんだよ。ダサいっていう死語を何回私に吐かせる気だ。


「決まってないよ、別に。私、まだ二年だし。他の子も似たようなもんだよ」

「何にも決まってないのか?」


 父はここぞとばかりに元気になった。


「……まぁ、大学には行きたいかも」

「何しに?」

「え?」

「何をするために、何になりたくて、どんな大学に行きたいんだ?」


 私は言葉を失った。なんで? なに急に気合入れ出したの? つーかさっきまだ決まってないよって言いましたけど? でも、なんだかきまりが悪くって、私も自分が悪いような気持ちがして、どうしたって口が重くなってしまう。


「……決まってないけど」


 すると、父はせせら笑って、


「その程度なのに、大学に行きたいのか?」


 私は愕然とした。信じられない。こいつ、意趣返しをしているんだ。私に責められて、恥を掻かされたから、強引に自分が強気に出れる要素に私を引きずりこんで、仕返ししているんだ。でないと、今の嘲りの意味が判んない。そもそも、アレは恥を掻かそうとしたんと違うのに。父は一見して満足そうにニヤけ面を発露している。ヤバいこいつ。

 私はもう呆れ果てたし、嫌悪感に胸焼けして薄いラーメンも食べたくなくなった。中年の脂っぽさって精神にクるんだな。そう思うと心がどんどんささくれて冷たくなって、硬度を増して、くさくさしてくる。


「……なによそれ」


 私はまともな神経がブッチブチと次々に断裂していくのを感じていた。


「ぁあ? 金を出すのは俺と母さんだぞ?」


 違う。そういう話をしたいんじゃない。


「自分で娘を泣かせといて、謝りにも行かない。嗜められたら逆ギレして人の痛いとこ無理くり掘り出して攻撃してさ。TPOって言葉、判る? こんなの、今すべき会話じゃないって、自分でも判ってるんでしょ?」


「難しい言葉を使うなよ。将来の話に時と場合もあるか。なぁ母さん?」


 話が通じない。難しくねえし。巻き込まれた母は「そうよねぇ」と煮え切らないけど肯定してるっぽい父の欲しがった答え。母もおかしい。追突事故みたいな話題の振られ方したとはいえ、そこは真面目に答えてよ。怒ってよ。私に味方してよ!


「父さんはな、高校出る時にはもう金を稼ぎたくて働きに出ようって決めたんだぞ」


「知らねえよ、何の話だよ」


 気が付くと思ったことがそのまま口をついていた。


 場の空気が瞬間的に凍りついた。


 あ、しまった。

 

 唐突に訪れた静けさが、耳に痛い。テレビの音はよそよそしくて、静寂を覆してくれない。

 私は父の顔を見れなくなった。でも、滑り出したからにはすべて言い切ってしまえと思った。思ったそばから、ぼろぼろと言葉がこぼれ落ちた。


「……さっきの美代への仕打ちについて、どう思ってんのって話だったじゃん。私にだっていっぱい覚えがあるんだからね? 私のお人形遊びを馬鹿にして笑ったのなんか、もう忘れちゃったんでしょ? 忘れたのはお父さんだけだよ。おままごとも馬鹿にしたよね? 私がどれだけ怒って泣いてもヘラヘラにやにやして。子供だからって、時間が経てば忘れるって決め付けて。美代にもおんなじ思いをさせるんだ? 何よ急に私の進路とか、人を煙に巻こうとしてさ。ダサいよ、それ。酷いことしといて、どうせ許されるって思ってんでしょ? 馬っ鹿みたい。ふざけないでよ……その歳になってまだ無条件に愛されるって、よく信じられるよね?」


 父は唐突に立ち上がった。私は自分の下半身がひゅんと冷たくなるのを感じた。恐れを感じた。私は身体が勝手に震え出すのを止められなかった。頭上にある父の顔は真っ赤っか。ゆで上がったタコみたい。髪の毛も少ないし。


「こいつ!」


 父が思い切り右手を振り上げた瞬間、


「止めて!」


 と悲痛な母の叫びが轟いた。


「……止めてよ、もう」


 ふり上げられたまま、父の右手は硬直して、私はぐっと息を飲んだ。

 やがて、父は唸るような咳払いをして、上げた右手で自分の右腿をバシッと叩いた。

 その音は座り込んだ私の目の前で、ひどく大きく響いた。音が私の心を掻き乱し、怒りがふつふつと煮えたぎってくる。


 ――その大きな音を出した手で、それと同じ力で、自分の娘を殴ろうとしたのか?

 

 私はふらふら立ち上がって、父と向き合った。父の顔色はもう赤紫色に変色していた。


「人には意地の悪いことをするくせに、自分がされるのは嫌なんだ? ……甘えないでよ、自分の娘に、気持ち悪い……。大人のくせに、暴力を振ったら、それでどうなるかも判んないのか!」


 バシッ!


 頭の中で鈍い音が反響した。頭が右にグルンッと回った。

 左の頬がカッと熱を持って痛い。

 母の出来の悪い九官鳥のような叫びが耳に響く。


 打ちやがった。


 怒りは急速に下火になって、悲しみで胸が張り裂けそうになる。


「……おま、お前、誰の、おか、おかげで、生活出来てると……」


 父はぐちぐちとありきたりな言葉を吐いていた。

 悲しい心で、私は笑えた。

 全国のお父さんたちはお金で心は買えないって、いつになったら気が付くの? 若い頃にはそういうダッサい歌詞の歌謡曲をしこたま耳に流し込んで、悦に浸っていたくせに!


「紗代!」


 母が私を抱き締めて、名前を呼んだ。母の体温が熱い。邪魔だ。この生温いの邪魔だ。母の薄い胸の中では、私の呪いの言葉はぜんぜん邪魔されない。


「お父さんに謝りなさい」


 死んでもゴメンだよ。


 私は母のエプロンでちーんと鼻をかむと、リビングを飛び出した。まさか同じ日に二度も娘に飛び出されるとは思いもしなかったろう。ざまあみろ!


 ああ、子供の扱いを幼児期のパターンからちっとも更新しなくなった怠慢親父と面倒臭いからってそんな父へ同調ばっかりする母!


 あんな連中とこれから先もいっしょにいなければならないのか! 考えるだけですぐに家を出たくなる。でも、美代のことを思うと躊躇われる。せめて、私だけは味方でいたい。そばにいてやらねばと思う。あの子を家族行為のヘッタクソな両親の自己満足の生け贄なんかにさせたくない。


 私は薄暗くて冷たい廊下を走った。自室に飛び込んでベッドに潜り込んで、両親の陰口を思い付く限り吐き散らかして、スマホに録音しておこう。落ち着いてから、それを聴いて、ぐへへと笑ってやる。暗いって? うるっせえよ、馬鹿!


 ぐじゅぐじゅと鼻水を垂れ流しながら、私は美代の部屋の前で立ち止まった。同じく両親の無理解を受けた者同士、感じ合う何かがあるだろう。私は服の袖で乱暴に涙を拭うと、美代の部屋をノックした。


「美代?」


 しかし、返事はなかった。もう一度ノックをしたけれど、反応はなし。私は悲しみも怒りも何もかもうっちゃって、最悪の光景を脳裡に描いていた。


「……開けるよ?」


 冷たいドアノブを回すと、するりと扉は開いた。

 中に美代はいない。すると、答えは一つしかなかった。


 熊を探しに行ったのだ。













  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る