第4話 既知との遭遇。



 家を飛び出してから、私はあちこちを駆けずり回った。

 公園にもコンビニにも、小学校にも河原にも図書館にも、美代の小さな背中はどこにもなくて、私の膝が笑う笑う。


 気がつくと雪がチラチラちらついてきて、街全体を真っ白く染めてしまうのに如何ほどの時間も必要ないって感じ。

 この雪が美代の熊への情熱を少しでも冷まさせてくれたらなんて思うけど、他人の情熱の枯渇を望み始めたら人間お終いですよなんて、こんなときに思うこっちゃない。


 でも、美代は諦めないと思う。


 うんと小さい頃、四葉のクローバーを探すのに一日帰ってこなかったこともあったし。あの時もずいぶん怒られていたけど、あの子は両親が叱るついでに吐き捨てた『危険な諸々』について、すっかり承知の上だった。誘拐も殺人も、強引に摘まれるアレだって、美代は覚悟した上で、ボロボロの身体を引きずって野山を這いずるように四葉を探したんだ。


 あの子は熊を見つけるまで、ぜったいに帰らない。その執念のしぶとさを、せめて私だけは真正面から認識していたい。上からやれやれ呆れ顔で覗いたり、下から蔑むように見上げたりしたくない。


 つっても、それだったら大いに困るんだけど。


 私の吐く息は白くて、目の前をゆらゆらと揺らめいて風に溶けて消える。その行く末を一瞬見守っている間に、吹く風の鋭さに身体がブルブル震える。上着を持ってくるべきだったと後悔。でも、上着を探している間などなかった。だって、何をおいてもまず美代だ。

 私はようやく母の気持ちがほんのちょっと判った。たとえだらしのない奴でも熊は熊だ。男だって、みんなオオカミだもの。

 いくら美代が熊に食われることを覚悟していたとしても、ほんとに食われちゃったら残された私たちの気持ちのやり場はどこ? ってなるから。だから、私は一刻も早く美代を見つけないといけない。

 だって、熊は冬眠するためにエサを欲するはずだもの。そう考えると、ほんとに悠長に構えてられない。


 で、私は思ってしまう。


 でも、だったらずっと檻の中にいたらよかったんだ。エサも寝る場所も、与えられたものをそのまま受け入れていればよかったんだ。変に抵抗なんかするから、こんなことになっちゃったんじゃないの? 

 ステイト・オ・メインの暢気な諦め顔を想像してイラっとする。なんだよ、あの顔はフェイクだったの? 急にやる気出してんじゃねえよ!

 でも、だからって、そんなの私が言えることじゃない。こうして外を走り回れる私が、それを言うのは度を越した卑怯だ。


 熊の気持ちなんか、誰にも判るわけない。


 母の言ったそれは、とても否定的な意味だったろう。けど、それは当り前なのだ。顔つきだけで相手の思考や精神的な部分まで、何でも判ると思う方がどうかしてるんだ。それは傲慢って奴だよ。たとえ、相手がご想像通りのヤツだったとしても、それは傲慢だ。何様だよ。私。



 冬の住宅街には私以外に誰もいない。連絡が回って誰も外に出ようとしないんだろう。果たして、熊の馬鹿力に一般家屋の扉ごときが何の障害になろうかって思っちゃうけど。無防備に飛び出した私たち姉妹に比べりゃ何にしろマシか。で、件の妹の姿はどこにもありゃしない。


「あーああ!!」


 走るのにも疲れて、私は膝に手をやって息も絶え絶え。悲鳴のような怒号のような、よく判んない感情を当たり障りのない言葉で寒空に投げ捨てる。あーああ!!


 はぁはぁと荒い息をすると、針のように鋭い空気に喉がやられてエホエホむせる。あーああ!! だよ。あーああ!!


 しょうがないから一回家に帰ってみようか。もしかしたら美代はどっかで熊を見つけて、遠巻きに観察するだけで満足して、もう帰って来てるかも。などと頭にお花が咲いてそうな楽観視が脳裏にパーっと咲き誇った瞬間、ポケットの中身がぶるるるるるるって震えて私はスマホを取りだす。


 着信相手は母だった。ちょうどいい。


「もしもし……」「紗代! あんたどこにいるの? 死にたいの? ねえ? あんた達ったらもう! 美代もいないしどうなって……」「美代はいないのね?」「え?」「美代はまだ帰ってないのね?」「そうだけどそ……」


 ブツッ。着信終了。


 私はスマホをポケットに戻すと、ともかく歩かねばと思った。今の電話で美代が一人でいなくなったことは両親に伝わっただろう。

 ……いや、私は何やってんだ? と自分に疑問を抱きながら、私の足は1212と規則正しい歩幅で歩き出している。

 風が吹くたび、父にぶん殴られた左頬がひんやりして気持ちがいい。母の声を聞いてから胸の奥がざわつくし、お腹の底がマグマのように熱い。あー、私、怒ってる? うん、ヤバいくらいに怒ってる。


 ――ねえ、怒ってる私の判断は正しかったためしがないよ?


 私のクソッたれ客観視が何か言ってる。

 

 ……ともかく、私が美代を見付け出せればそれでだいじょうぶだ。たぶん。あの子が家を出てから私が気付くまで、そんなに時間は経ってない。


――足が棒になるまで探して見つかんなかったのに?

 

 恐ろしい想像が頭を掠めそうになったので、無視。

 うん。あまり遠くまで行ったとは考えにくいんだ。すぐに見つかる。きっとすぐに……。


「きみ、何してるんだそんなところで!」


 不意に背後から呼び止められて、飛び上がりそうになる。振り返ると、制服姿のお巡りさんが小走りにやって来た。ああ、そりゃあ捕まえるための人はいるか。じゃあ本当にあのだらしのない熊がここいらをのし歩いているんだな。そう思うと、ちょっと寒気がした。「きみ、その顔……」お巡りさんの顔色が変わった。目立つくらいの傷になっているらしい。「いえ、これはなんでもないんです」あの父親は娘の顔をなんだと思っているんだ。


「あの、妹が熊を見たいって家を飛び出してしまって」

「あ、ああ、判ったから、きみはもうすぐに帰りなさい。送っていってあげるから」

「いえ、私も妹を探します」

「はぁ?」


 「はぁ?」だって。まぁ、「はぁ?」かもしれないけど。

 すると、あちこちから大人たちがぞろぞろと集まって来た。今までどこにいたんだろう。さっきまでぜんぜん見なかった気がするけど。まぁともかく大人たちが集まったおかげで、心細さがちょっぴり解消された気がする。と思ったけど、どうもそうもいかないみたいだ。

 大人たちは子どもの私が見て判るレベルでうろたえていて、ピリピリしていて、冷静さを欠いていた。

 大人たちはお巡りさんに向けて、口々に唾を飛ばして声を荒げた。


「あんた、こんなとこでなに油売ってんだ。河原のほうで熊が出たって聞いたよ、すぐに行ってくれ!」

「いや。3丁目で猫が死んでた。きっと熊の野郎がやったに違いない。河原じゃ方向が逆だよ!」

「さっき、家の前に足跡があったんだ! あれはきっと熊の足だよ。ほら、お巡りさん早くこっち来てよこっち!」

 

 などなど。


 熊って、三頭も同時に脱走したんですか? って訊いてみようかと思ったけど、何の意味もないし、余計な恨みを買いそうだから止す。お巡りさんも「いいから、みなさんもう帰ってください。外は危険ですから!」って怒鳴ってる。ああそう、まぁこんな危険な時に外をほっつき歩いてる奴がまともなわけないわな。私だって。


「あの!」


 で、私は私で妹が心配なので、勇気を出して声を上げた。

 複数の視線が集まる。なんでか不審なものを見るような眼差し。なんでよ。


「すみませんけど、うちの妹を見ませんでしたか? 家からいなくなってしまったんです。どなたか、見かけた方はおりませんか? まだ小学2年生で……」


 私の平身低頭なお願いに、どうしてか返る言葉がなかった。は? と思っていると、一人のおっさんが「申し訳ないが、見てないな」すると、おっさんたちが次々に「俺も」「おれも」と同調。いやいや、ふつうはこうでしょ。「なに、それはたいへんだ! よし、手分けして探してみよう!」でしょ。探せよ。いや、探してください。マジで。


「ともかく、熊をどうにかすればだいじょうぶだろう」


 大人たちの誰かがそう言った。


「熊を早くなんとかしたほうがいい。妹さんには申し訳ないが、手分けして探すとなると、犠牲者を悪戯に増やすことに繋がりかねない」


 いや、美代がもう襲われたみたいに言わないでよ。っつーか今外に出てる時点で既に犠牲者を悪戯に増やすことに繋がってない? 明らかにおかしいのに、大人たちは頷きあっていて、もう決定っぽい。


「とにかく、熊を何とかすれば、それから探してもいいだろう」

「熊さえ始末してしまえば、一先ず不安はないだろう」

「ともかく君はもう帰りなさい」


 ……馬鹿なんじゃないだろうか? 他人事だと思いやがって。適当にはぐらかしやがって。インチキばっかり言いやがって。お前らが殺されちまえばいいんだ!


 その時、ふと私は自分の左頬の痛みと怒りの中に、何かを見付けそうになった。なんだろう? 

 忘れてしまった何かを思い出しそうだった。そう思っているうちに、大人達は次々に情けない悲鳴を上げて、足早に私から離れていった。え? 急にどうしたの? と思っていたら、耳元で奇妙な鳴き声。


……ぅアール


 懐かしい獣臭さが突き刺すような空気の中に漂う。

 

 鼻先には嗅いだことのない生臭い臭い。恐らく、あの園長さんなら、嗅ぎ慣れた臭いだったろう。私はこの臭いの主とは、檻と柵に隔たってしか接したことがない。

 全身が金縛りにあったかのように、ピンと硬直して動けなかった。頭を恐る恐る向けると、左の頬を熱くてざらざらしたものがゾロリと撫ぜた。背筋にぞぞぞっと悪寒が走る。


 ……ステイト・オ・メインがそこにいた。私の左頬を、べろりと舐めていた。


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