第2話 だらしのない熊と、私がいちばん激しかった時代。




 その熊は、近所の小さな動物園で飼育されていた。

 動物の飼育数もほんとに少なくて、ほとんどが鳥やウサギなどの可愛らしい小動物だった。ただでさえ狭い敷地は公園と半分にわけられていて、檻は肩を寄せ合うように、ぎゅうぎゅう詰めで密集していた。

 せっかく小動物がたくさんいるのに、檻の前には厳重に柵が張られていて、ぜんぜん近寄れないし、ふれあえるようには出来ていない。遠くから眺めるだけでは動物に愛着を抱きづらいから、まったく人気がなかった。当たり前だけど。


 で、私の地元の小学校では、遠足の度にその動物園に行くことになっていた。もちろん、私もそうだったし、妹もそうだったみたい。

 でも、遠巻きに小動物を見ていてもすぐに飽きちゃうし、公園で遊ぼうにも糞とか獣臭さがぷんぷん立ち込めていてめちゃくちゃ不快だし、おまけに遊具もないのであんまり楽しかった覚えはない。でも、何もかも忘れてしまったわけじゃなかった。


 遊ぶものがなにもないので、多くの子ども達は園内で唯一の大型肉食動物である熊の檻の前に集まった。


 その熊は、ずいぶんと昔この町にやって来たサーカス団から譲り受けたものだと、園長さんは懐かしそうに語った。熊には名前がついていて、その名を『ステイト・オ・メイン』と言った。メイン州とはなんぞや?

 後から知ったことだけど、それはJ・アーヴィングの小説『ホテルニューハンプシャー』に出てくる調教熊が由来らしかった。読んだことないけど。へぇ~って感じ。


「こいつはねぇ、昔はすごかったんだ」


 園長さんはまるで自分の偉業を誇るように話した。


「ボールを渡せばひょいと軽業士のように飛び乗って、みんなを楽しませたもんだ。ほら、そこに太い綱が渡してあるだろう? その上をね、こいつは行くんだ。あっちへふらふら、こっちへよろよろして、ハラハラさせやがる。こいつのいいところはね。観客がいないとそういうことをしないってとこだな。熊ながら、きちんとした芸人なんだ」


 私も他の子達も、へぇ~って相槌を打ちはしたけど、そこまで興味はなかった。だって、ステイト・オ・メインはもうすっかり老いさらばえて、ちっとも動こうとしなかったからだ。

 彼は薄暗い檻の端っこにいて、ぽてんと座りこむか、その場にべちょっと寝ころんでばかりいた。

 ようやく動く気になったかと思えば、転がっているボールを前足でちょんと小突いて転がしたり、恨めしそうに頭上の綱を見上げるくらい。


 そんなステイト・オ・メインに、子ども達は盛大にブーイングを送った。


『つまんない』『もっと動けよ!』『暴れたりしないの?』『何が楽しくて生きてるんだこいつ』『熊のくせにナマケモノ!』『エサ代泥棒!』などなど。


 子ども達の嵐のようなギャンギャン声にも、ステイト・オ・メインは反応を示さなかった。私はみんなの騒ぎがうるさくて、耳をふさいでいたと思う。その時、ふと彼の小さな目と、視線があったような気がした。



 ――――すべての雑音が遠のいていくような感覚がしたのを、覚えている。



 ステイト・オ・メインは、ふと視線を頭上に向けた。また渡された綱を見ているようだった。そして、何かを諦めたように視線を地面に向け、べちょっと寝転がるついでのように、またしても私と視線を繋いでくれた。


 私は、その眼差しに人の臭いを感じた。

 熊でも昔を懐かしむのだ。熊でも、悔しさや悲しさが判るのだ。そのことに気付いた私は、この熊を不憫に思った。


 私とステイト・オ・メインが見つめ合っている間に、一人の男子がやおら立ち上がり、柵の前に立った。その手には、何かを握りこんでいるように見えた。


「つまんねえ熊だな。もっと動いてせいぜい俺等を楽しませろよ。……おら!」


 男子は、そう言って持っていたもの、小石を、ステイト・オ・メインに向けてぶん投げた。あ、と私は思った。


 危ない!


 でも、けっきょく石はどこにも当たらず、地面のどこかに弾かれたらしいパツーン! という乾いた音をたてた。その音は私の頭の中で何度も何度も、くりかえしくりかえし、響いた。


 みんなは楽しそうに笑ってた。

 男の子も女の子も。

 迷惑そうな顔をしたステイト・オ・メインを笑っていたんだ。

 

 次の瞬間、私はガバッと立ち上がると憤然とその男子の元へズカズカ大股に歩み寄った。私の剣幕に、誰もが息をのんで道を開いた。


 私は男子に問いかけた。


「どうしてそんなことが出来るの?」

「は?」

「どうして、そんなことが出来るのよ?」

「なんのことだよ?」


 小石を投げた男子は、得意そうな顔つきで、へらへら笑ってた。

 私はその弛んだ顔つきに問答無用を悟ったというか何というか、死ぬほどムカついたのは覚えてる。私は拳を強く握りこんだ。

 そして、握り込まれた拳はムカつく相手に叩きつけるモノと決まってる。

 私は固い拳を男子の顔面を突き破らんばかりに振り抜いた!


 バチーン!


 男の子はへったくそなフィギュアスケーターみたいに、くるっと回ってバッタリ倒れた。鼻血を噴き出して、男の子は気絶した。女の子たちが後ろでキャアキャア叫んでた。その声が耳障りに過ぎて、その子たちをふり返って私は確か、こう怒鳴った。


「血が出ないと判んないのか! 血が出なけりゃ、何をしたっていいって言うのか!!」


 人をぶん殴って出血させた奴が言うこっちゃない。

 けど、小学生の頃に蔓延っていた『相手が泣かなければ何をしてもセーフ』だとか『傷にさえ残らなければ、出血さえさせなければセーフ』っていう意識が私は憎らしかったんだと思う。たぶん。

 それに、熊は私たちに判るように泣けもしないし、分厚い体毛の下にどれだけ傷をつくったって、私たちには見えないんだから。


 それから、私は意識のぶっ飛んだ相手にも何かを言ったのだ。叫んだのだ。でも、そこから先の記憶は曖昧で、打った右手のじんとした痛みだけが、いつまでもいつまでも後遺症のように滲んでいた。


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