ドグマの終着点。

枕くま。

第1話 偉大なる逃走。

「熊ですよ」

「なあんだ」

「でもただの熊じゃないんだ」

【 夏子の冒険/三島由紀夫 】



 日曜日の午後は空気がずっしり重たいような気がする。

 身体が思うように動かないし、気力はずるずるに腐っちゃったって感じ。重くて重くて、どうしようもない、動けない。


 学校に行ってる間は、「あぁ、早く帰ってあれをしたいこれをしたい!」ってもどかしさで正直死んじゃいそうになるのに、いざこうして長い時間をポーンと投げだされると、こっちも身体を投げ出して、ごろーんとしてしまう。


 何をしたってへっちゃらな土曜日の無敵な感じを引きずってて、過ぎてく時間がぜんぜん惜しくも何ともない。だから、私はこれから家を飛び出してもいいし、勉強しちゃったり何かしてみてもいいし、なんなら電話で友達とずーっとくっちゃべっててもいいわけだ。だけど、私の選択はどうもそういう活動的な方向にはどうしたって向かなくて、今していることといえば居間のカーペットに寝転がって死んだようにテレビを見つめ続けているっていう。あーああっていう。これ。

 今は冬だから、仕方ないって気持ちもあるけど、そんなことですべてを諦めてしまっていいのだろうか。さっき見たニュースでは、降りしきる雪の中、ミニスカートを履いた女の子が小走りに駆けていた。私もあれくらいの気合いを持っていて然るべきではないか? などと思ってみても、ストーブが吐き出す生温かーい吐息にほだされて、全部がパー(頭もパー)。


 で、私の他にも小学二年の妹と最近後光が射していらっしゃる(主に頭部)っぽい父親が居間にそろっていて、みんな目が死んでる。


 テレビ画面では、即効乾燥を謳うスティックのりで貼り付けたような、やっすい笑顔の男女のリポーターが、古い街の古い店の古い食べ物をまるで新しい発見かのように、嬉々として褒めまくっている。

 発言のすべてがウソ臭い。過剰な毒舌も聞くに堪えないものだけれど、過剰に毒のない言葉もなかなか聞くに堪えないものなんだなぁと、薄ら呆けた頭で考える。考える、とはいうものの、ほとんど反射のようなもんで、これで『私、これでもいろいろ考えてるんですよ?』なんて言おうものなら、頭の回転で空も飛べそうな方々にバラバラにされてしまいそう(彼らの思考の回転をヘリコプターの回転翼と考えよ。そして見るがいい、細切れのバラ肉にされる憐れな私を!)。


「……ははは」


 父親の乾いた笑い声が、気だるい空気をかすかに振わせる。

 それがなんだかめっちゃ引っかかって、……ん? 今なんか笑うところあった? と思って弛み切った頭のネジをちょっとぎゅっと締めてみる。ぼやぼやしていたテレビ画面もくっきりするけど、特に面白いこともない。

 ただウソ笑いのリポーターが、この道六十年という身も凍りそうな年月を一芸に費やした職人さんにインタビュっているだけ。

 職人さんはムスッとしたっきりで、ほんとはインタビュられたくないんだってのが、バリバリ透けている。番組による宣伝効果とか知ったことかって感じでかっちょいい。

 で、リポーターの歯茎の痒くなりそうな言葉づかいも気に食わないのか、すべての質問に対して簡潔にいなしてやろうとしているっぽくて、リポーターのウソ笑いに少々焦りみたいなのが浮かんできて私は不憫だなぁって思う。

 職人さんのかっちょよさのために、犠牲になっちゃってまぁ。


「馬鹿みたいだな」


 と言ったのは父で、私はその瞬間に背筋がぞわわわっとして、震えが走った。

 何故かというと、さっきの父の笑いは、番組づくりにぜんぜん協力してくれない職人さん相手に必死に仕事を成立させようと、この寒い中、額に汗して頑張っているリポーターを嘲笑っていたのだってことが、わかっちゃったから。


 私は仰向けに寝転がったまま、くちもとに微笑を浮かべている父を見やる。モチのロンで軽蔑感マシマシ。でも、父はむかしからそういうところがあった。


 なにかを頑張っている人の必死さを嗤い、なにかを頑張ったけど駄目だった人を馬鹿にし、なにも出来ないまま立ち尽くす他ない人を嫌悪し、嗤う、哂う、笑う。

 それが子どもに対してもまったく容赦なく行われるので、私が父をどう思って生きて来たのか、まぁ言うまでもないだろう。死ね。


 つっても、私だってリポーターの人たちのビジネススマイルを「ビジネススマイルじゃん! ウソじゃん!」と脳内で指摘してしまったので、ちょっとばつが悪い。そこに嘲りがないかと言われると、そうとも言い切れないし……。


 などと私が自己嫌悪に浸りかかったところでピリリリリ! と固定電話が鳴った。


「誰か、出てちょうだい!」


 台所で四人分のインスタントの袋麺をつくってた母親が叫ぶように言う。

 けど、ダルメシアン(ダルさに沈み切った憐れな存在)と化した我々には少々酷な注文だった。

 両手のない人間に「あれ取って!」と注文することの残酷さを思えば、まったく動く気力のない私たちに「電話に出ろ!」と注文することもまた、とても残酷なことに思えよう。


「まったくもう!」


 と、母が短い悪態とスリッパの軽快な足音をさせて電話を取った。


「もしもし、西野です」


 あはは、よそ行きの声! って思っちゃった私は、父との血のつながりやミーム汚染まで瞬時に思い至って限りなく淀み切ってブルー。

 ふだんの頭の回転は遅いくせに、自虐と自己嫌悪と現実逃避に関しては短距離選手も瞬時にぶち抜く速度を発揮するのだ。


 私の脳内七転八倒七転び八転びをよそに母の表情はみるみる青ざめてきて、私はおふざけのすべてをうっちゃって、え、どうしたの? って感じになる。

 


「……えぇ、えぇ判りました。注意致しますので、はい、はい……それでは」


 母は神妙な顔つきのまま、受話器を置いた。私は誰か親戚の人が死んじゃったのかなと思った。


「何かあったの?」


 私が訊ねると、母は引き攣った顔でこう言った。


「熊が脱走したんだって」

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