第3話 ブルーマンデーに赤色を③
春風さんの『願いを叶える本』が中核派の手に渡ったちょうどそのころ、ある一人の少年が本を開いていた。
その本は、赤い装丁のされた重厚なデザインのもの。それだけでも十二分に人目を惹きつける代物なのだが、もっとも特徴的なものは本の中身にあるだろう。
真っ白なのだ。すべてのページには何も書かれておらず、ただ、真っ白の紙が延々と続いている。
少年は、口元を歪めながらボールペンの先を白いページにおろした。真っ白なページに、黒いインクが染み込み、文字の形を紡いでいく……。
『黒川春風は青の書を持って
これが、ただこれだけが少年の紡いだ言葉。
「オッサンはこう言っていた。『この本を貸すからこれで黒川本家の財産を根こそぎ奪ってこい』と」
愚かだと思う。もちろん、黒川本家の財を狙う野心ある無能な分家筋の男に、無欲で可愛げのある甥を演じて取り入り、信頼を得たことによる結果なのだが……。それでも余りの愚かさに笑わざるを得ない。
そもそも僕の目的はこの本を手に入れることにあったのだから。
ともかく、この本には、心配性なあの中年の書いた筋書きが書かれている。
『私、黒川正雄は、この『赤の書』を甥の白野秋人に一時的に貸与する。それによって───』
以降、長々と如何にして黒川の本家の当主である黒川春風から『青の書』を奪い取り、黒川本家の財産を己に譲渡させるか、というあまりにも稚拙な醜い中年の「シナリオ」が書かれていた。無論、こんなものは気持ちが悪いし「無効ににしてしまいたい」と思う。
この偉大なる本の力を薄汚い金銭欲のために使うなど、浅ましいものとしか思えないのだ……。
「ともあれ、まずは清水に行くべきだろう」
自分が小心者の黒川正雄の書いた、つまらない、悪辣で、稚拙なシナリオの上から逃げ出すには、どうしても黒川春風の持つ「青の書」が必要なのだ。
秋人は歩みだす。ページに書かれたシナリオを全て現実のものにしてしまう力を持った「赤の書」を小脇に抱えて……。
やあ、久しぶり。黒川春風です。
今日はなんと、なぜか中核派のリーダーとデートをすることになりました!
隣を歩くのは、なんとぉ!今や下火のマルクス主義者、大学生の物部さんだよ!
……なんでやねん。
流石の春風さんもツッコミを入れざるを得ませんでした。
なんで私は中核派なんかとデートする羽目になったのだろうか。話はあの校門でのいざこざに遡る────
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「うわああああ終わりだあ日本国歌はこれからインターナショナルで公安の赤狩りがレッドパージだあああぁぁぁぁ」
春風さんは「願いを何でも叶えてしまう」青い本が、中核派の真っ只中に落ちてしまったことを知り、支離滅裂な嘆きを漏らしていた。
「終わりだ……。終わりだ……」
春風さんはただただ嘆く。
春風さんは政体の終末と祖父の遺産の喪失が同時に訪れたことを嘆く余り気づかなかったが、丁度その時、頭に「願いを叶える本」の直撃を受けた中核派の青年が目を覚ましていた。
「……うーん、痛たた。あ、北見君、僕は大丈夫だよ。ありがとう。」
青年は仲間に声をかけ、いきり立つ彼らを鎮めようとする。しかし、
「何言ってるんですか物部さん!あいつらモノ投げてきたんですよ!これは立派な傷害罪じゃないんですか!公権力がこんなことをして良いはずがありません!!」
「そうだそうだ!」
取り巻きの彼らは若い。物部への攻撃が公権力によるものだと断じ、それに対して抗議、ひいては仕返しをせねばならぬと純粋に考えていた。
このままだと、激昂した彼らは機動隊員に襲いかかっていただろう。
しかし───
「そうだろうか?」
物部は答えた。
「私を狙撃した側の筈の機動隊が、私の失神でああも混乱するだろうか?」
見ると、物部を攻撃したはずの機動隊は普段より浮き足立っているようだ。
なんなら、「おい、落ち着け!やったのは我々ではない!」なんて情けない事を言っている……。
確かにおかしな話だ。彼らが今投石攻撃をするのは、理にかなっていない。
青年の冷静な指摘により、中核派たちは落ち着きを取り戻していく。
暴発寸前までに加熱したムードも、なんとか平穏な方向に収束しそうだった。
「さてはて……」
暴発寸前の集団を落ち着かせた物部は、気になっていたとばかりに例の青い本に手を伸ばした。
「なになに……。『願い事を書け』か。うーん、物は試しと言うし……」
そう言って物部はおもむろに胸ポケットからボールペンを取り出した。
「えっと、そうだな……『機動隊に』」
「ちょっと待ったーーーー!!!!」
一人の少女が、物部を止めようと駆け寄ってくる。それは、やっと冷静さを取り戻した春風さんだった。しかし、時は既に遅く────
ぱしゅん。
と、音がして。
その場にいた機動隊が全員消え去っていた。
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「あ、北見君から連絡が来たよ。機動隊の連中の生存確認完了だって。良かった〜。死んでたらどうしようかと思ってた」
本を持つ春風さんの隣を物部が歩く。なかなかに物騒なことを言いながら。
「殺人罪はイヤだったからね。それなりに秘密の情報網も使わせて貰った。みんな無事みたいだし安心材料が増えて嬉しいよ」
物部はさっきからずっと自分が本の力で『飛ばした』機動隊員たちのことが気がかりだったようだ。
中核派の棟梁という肩書に対して、根は優しい男、悪く言えば小心者なのかもしれない。
「というか物部さんは『本』になんと書いたのですか?」
春風は尋ねる。
「そうだなあ、『機動隊に帰ってほしい』だったな」
「良かったです。『機動隊に死んでほしい』だったら、あの人たち全員死んでたでしょうね」
春風さんはこともなげにとんでもないことを言った。
物部は、眉を曇らせて答えた。
「流石『願いを叶える本』だね。そっか、人を殺せちゃうのか……」
「殺せます」
春風は『本』の危険性を訴えた。もちろん、彼女はこの本が人を殺した瞬間を見たことがないし、そもそもこの本が人を殺した事実があるのかどうかも知らない。
それでも、春風は……
「この本は危険です。『〇〇死ね』と人の名前を書けばその人は死ぬでしょうし、『林檎潰れろ』と書けばあの世界的企業は嘘のように滅びるでしょう。そんな、そんなものを」
「そんなものを、私は欲しがってはならない。ですか?」
春風を遮り、物部は言った。
「そうです。あなたは持つべきではありません」
春風は脅すように言う。精一杯。精一杯脅すように。
「そうですね」
心なしか物部の視線は低い。
「わかってくれましたか」
春風は、ほっとするように言葉を吐き出した。もともと一時間前まで引きこもり娘だった人だ。そんな内向的な性格にも関わらず、本を取り戻すために無理をして今まで啖呵を切っていたのだ。
これでやっと、おじいちゃんの本をもとの蔵に戻せる……。
「ですが」
物部の視線が春風を射抜く。
「そのような危険なものを何故あなたは焼かないのですが?」
春風は止まった。
「そのような、ペン一本と意思一つで世界を滅茶苦茶にできるような代物は、間違った使い方をしてしまう前にさっさと燃やしてしまうべきではないのでしょうか?」
「私は……」
「黒川さん、私はこの本で機動隊員を消し去ったとき、本当に心の底から恐れた。こんなものあっちゃいけない、と」
「……」
「それ故にこの本をください。私の手で燃やさせてください。それが、世界のためですから……」
本の焼却を申し出る物部の姿は真摯そのものだった。
そして、春風も、彼の言うことが正しいと理解した。
そうだ、この本の力は法外すぎる。世界の存在を揺るがしかねないものだ。
そんなもの、悪者の手に渡る前に存在を消してしまうべきではないだろうか?
消すべきだ。この本は鳥のように勝手に飛び去ってしまう。
蔵の中から意思を持って逃げ出す危険物。こんなものを必要とする人間は、大悪人か愚かなコレクターくらいだろう。
それでも、春風さんは──
「すみません……」
「譲っていただけないのですか?」
「はい。ごめんなさい……」
「大金を積んでも?」
「ごめんなさい……」
「若い衆にあなたを囲ませて脅しても?」
「譲れないと思います……」
「暴力に訴えれば?」
「我慢するでしょう……」
「黒川さん」
「はい」
「なぜ?」
物部はこう言っている。『なぜ』お前はそんな危険物を手元に置きたがるのか、と。
私は少し考える。いや、理由などわかっていた。
「……遺品だからです。ほとんど持っていかれた、おじいちゃ……祖父の遺品だからです」
「そうですか……。それは、絶対に手放せないものなのですね……」
物部は立ち止まった。
「はい。だから、仮にこれが間違った行いでも、手放したくないのです」
物部は微笑む。そして───
「!?」
物部は春風にとびかかった。
「ならば本を奪う!」
「は!?」
青い装丁が、ガッと掴まれる。貧弱そうな見た目をしていても、年上の男の人。引きこもり少女の春風さんよりも、その力は遥かに強い。
「俺は革命家だ!革命家の行動理念はただ一つ、世界の幸福のみ!」
「離してください!」
万力のような力に感じた。春風さんは本にしがみついた。
「いいですか黒川さん!そんな危険なものはこの世にあるべきじゃない!」
その通りだ。でも、この手を離さない。
「この本が、これが、明日にはとんでもない大悪人の手に渡っていない保証はないだろう!」
その通りだ。正論が春風の耳を衝き、正義の力が春風の手から本を奪おうとする。
でも、私は……。
「この本は人間が持つと、人間が使うと必ず破滅するだろう!」
「やめてください!」
「だから燃やさねばならない!革命家として、世界平和と世界の幸福を祈る革命家として!」
「『やめて』って言ってるでしょ!」
春風は叫んだ。こんなに叫んだのはいつぶりだろうか。
「あなたは、あなたは正しいですよ物部さん!それは正論ですよ物部さん!」
「じゃあ!」
「でも、だからって、おじいちゃんとの思い出を燃やせ、なんてひどすぎます!」
我ながら酷い論理だ。春風は涙を流しながら、自分でもそう思った。
でも───
「世界のために思い出を、私情を切れだなんてひどすぎるじゃない!!」
春風は、祖父を失った心の傷がまだ癒えていない。両親もとうの昔に去った。
そんな天涯孤独な娘に残り少ない家族との思い出の品を焼くなんて……。
「できるわけないじゃない!!」
まるで何かに弾かれたように、物部の手が離れた。本は、春風の胸に力いっぱい抱かれる。
「……申し訳ない、黒川さん」
物部は謝罪した。もともと争いごとを好まない優しい青年なのだ。
もっとも、そんな心優しい彼が声を荒げ跳びかかるほどの危険性をこの本は有しているのだ……。
「私も、ごめんなさい。感情的になりました」
春風も謝った。
「歩きましょうか」
「はい」
なぜか、また歩き出す。
「たとえ話を始めましょうか、黒川さん」
「良いですけど、それは説得ですか?」
「はい」
物部は微笑んだ。
彼ら二人が歩むのは、
二人だけに効力を持つ引力が、そう歩むように強いているのだ……。
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