「ここだよ」


 佳緒留が連れてきたお店は来たことがない場所だった。カウンター席と三台のテーブルが置いてあるこじんまりしたバーで、壁はモスグリーンだった。


 なんだか森の中のいるみたい。なんか不思議な色……


 私は冷えてきた頭できょろきょろと店内を見渡しながらそう思う。


 お客さんは私達しかいなかった。


 まあ、平日でこんな時間だし。

 

 私はそう自分に言い聞かせて佳緒留の隣に座る。そして店員に勧められるままカクテルを頼んだ。彼も同じように適当に飲み物を頼んだ後、私をじっと見つめる。その茶色の瞳は怒りを帯びているようだった。


「並子。僕の誘いを断っておいて、前野さんとは寝れるの?」


 佳緒留は開口一番でそんなことを言う。


「そんなこと、何考えてるのよ!」


 信じられない。


「いくらお酒が入ってるとは言え、それくらいの危険は自覚してたよね?」


 怒りで顔を赤らめる私に、間髪いれずそう言葉を続ける。口調は穏やかだが、その茶色の瞳が責めるように私に向けられていた。


「それは……」


 自覚してなかったというのは嘘だ。

 肩に手を回され、嫌な予感はした。

 でもどうでもいい私は、その予感を無視した。


「自暴放棄な気持ちになるのはわかるけど、その相手は僕にしてくれないかな?僕なら紳士的に対応するし、君への気持ちも本気だ」


 彼は私から視線をはずすことなく、そう言い放つ。


「そんなの、できない。不倫なんかするつもりないから」


 佳緒留に身を任すなんてできるわけがない。 

 そんなの最低だ。


「だったら、なんで前野さんについていったの?」

「そういうつもりはなかったの!ただ、悲しくて元の世界に戻りたくてどうでもよかったの!」


 どうでもよかった。

 お酒で楽になりたかった。

 考えることが、思い出すことが嫌だった。


 声を震わす私に、佳緒留は大きな溜息を洩らす。

 

「……なんで戻りたいの? あんなに、嫌がってたのに。毎日、溜息ばかりついたのに。この世界なら僕が君を絶対に幸せにしてあげれるのに」

「?」


 なに?

 佳緒留?

 何って言った?

 この世界?


「もう嘘をついてもしょうがない。僕は君の同級生じゃない。この世界は現実ではないんだ」

「どういうこと? だって、あのカエルが世界を変えたんじゃ」

「父さんは世界を変えたんじゃないんだ。君のために世界を作ったんだ」

「父さんって、世界を作るって?!」


 わけわかんない。

 確かにこの世界は私が知ってる世界だ。

 作られたってどういうこと?

 お父さんって?


「佳緒留!」


 混乱してる私に聞き覚えのある声が届く。そして緑色のカエルが木製のカウンターの上に現れた。


「ばらしてどうするんだ。お前は」


 カエルは腕を胸の前で組み、佳緒留を叱り飛ばす。


「カエル! どういうこと! 説明して」


 事実が、事実が知りたかった。


「ふん、ばれたらしょうがないな。その通り、この世界は偽物だ。わしが作り上げた」

「だったら、元の世界に戻してよ!」

「嫌だな。わしは息子の願いを叶えてやりたい」

「息子?」

「父さん!」


 何言ってるの?

 だいたい、父さんって。

 カエルと佳緒留は親子なの?


 憤る私をカエルはちらりと横目で見る。大きな口は皮肉げに歪んでいる。


「佳緒留よ。お前も欲がない奴だな。並子は、前の世界が嫌だと思い、家族を捨てて独身になりたいと願ったのだ。お前はこの女の日々の生活を見ていたんだろう? だったら、お前がこの女を幸せにしてやればいいじゃないか!」

「父さん!」

 

 カエルの言葉は事実だった。

 私はそう願った。

 それは変えられない事実だ。


「並子。僕は水の鏡を使ってずっと君を見ていたんだ。だから僕は君を幸せにしてあげたかった。この世界で」

 

 佳緒留の優しくて悲しい笑顔が私の胸を突く。


 こんなに思われることが嬉しかった。


 でも、


「佳緒留よ。遅くないぞ。わしが手を貸してやろう」


 カエルはそう言い、その手に杖を出現させる。そして私に向かって振り下ろす。


「父さん!」

「並子よ。お前の悩みを根本から解決してやろう。次に目覚めたとき、お前は幸せになっている!」


 私がその意味を考える時間はなかった。


「!」


 次の瞬間、私の体は宙に浮いていた。驚く私にカエルは虹色の光を浴びせる。

 開放感を感じた後、すぐに衝撃が体に加わった。


「並子!」


 名を呼ばれ、ぎゅっと抱きしめられる。


「父さん、なんてことを!」


 ぼうっとする頭に佳緒留の声が響く。彼が心配そうに私を見つめていた。どこにいるかわからなかった。浮遊感が消えていたから多分床の上なんだろうと想像ができた。


「これが並子にとっても幸せなんだ。お前もそうだろう?」


 はっきりしない意識の中、カエルの声がそう聞こえる。

「でも!」


 見上げる佳緒留の表情は眉が寄せられ、辛そうだ。


 なに?

 どういうこと?

 

 私、どうなってるの?

 体全体に電気が走ったように感覚がなかった。体が動かず、意識は消えかかっていて、かすかに見えていた視界も徐々に暗くなっていた。


 私、死ぬの?


「並子!」


 近くで聞こえていた佳緒留の声が遠のいていく。


 声が完全に消え、暗闇が私の世界を支配する。静寂が流れ、私は自分の存在を探す。しかし、私は意識だけのようで、体は存在してなかった。

 ぼんやりと光が急に現れ、その中に子供の姿が見える。


 優斗、優斗だ! 

 私は彼を抱きしめようと手を伸ばす。

 でも体がない私はただそう願うだけに終わる。


 何?

 何なの?


 混乱してる私に今度は別の姿が見える。


「並子」


 そして聞こえたのは優の声だった。


「並子」


 私を呼ぶ声は、穏やかな声。そう、私の好きな彼の声。

 光の中で微笑むのは優だ。


 まっすぐに私を見つめる瞳はいつも真摯で、口元には優しい笑みが浮かんでいる。


 彼が好きだ。

 彼と一緒にいる日々が大好きだった。

 そんな大事な気持ち、忘れていた。


 優。ごめん。

 今やっとわかる。

 私は優じゃないとだめなんだ。


 でも遅いよね。


 ごめん。


 光の中の優はただ笑っていた。

 私の謝罪に答えることなく。


 ふいにぼんやりとした光が一気に拡大し世界を支配する。そして暗闇の世界は一変して真っ白な世界に変わる。それは私の意識すら呑込み、全てを塗り替えた。

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