三
「ここだよ」
佳緒留が連れてきたお店は来たことがない場所だった。カウンター席と三台のテーブルが置いてあるこじんまりしたバーで、壁はモスグリーンだった。
なんだか森の中のいるみたい。なんか不思議な色……
私は冷えてきた頭できょろきょろと店内を見渡しながらそう思う。
お客さんは私達しかいなかった。
まあ、平日でこんな時間だし。
私はそう自分に言い聞かせて佳緒留の隣に座る。そして店員に勧められるままカクテルを頼んだ。彼も同じように適当に飲み物を頼んだ後、私をじっと見つめる。その茶色の瞳は怒りを帯びているようだった。
「並子。僕の誘いを断っておいて、前野さんとは寝れるの?」
佳緒留は開口一番でそんなことを言う。
「そんなこと、何考えてるのよ!」
信じられない。
「いくらお酒が入ってるとは言え、それくらいの危険は自覚してたよね?」
怒りで顔を赤らめる私に、間髪いれずそう言葉を続ける。口調は穏やかだが、その茶色の瞳が責めるように私に向けられていた。
「それは……」
自覚してなかったというのは嘘だ。
肩に手を回され、嫌な予感はした。
でもどうでもいい私は、その予感を無視した。
「自暴放棄な気持ちになるのはわかるけど、その相手は僕にしてくれないかな?僕なら紳士的に対応するし、君への気持ちも本気だ」
彼は私から視線をはずすことなく、そう言い放つ。
「そんなの、できない。不倫なんかするつもりないから」
佳緒留に身を任すなんてできるわけがない。
そんなの最低だ。
「だったら、なんで前野さんについていったの?」
「そういうつもりはなかったの!ただ、悲しくて元の世界に戻りたくてどうでもよかったの!」
どうでもよかった。
お酒で楽になりたかった。
考えることが、思い出すことが嫌だった。
声を震わす私に、佳緒留は大きな溜息を洩らす。
「……なんで戻りたいの? あんなに、嫌がってたのに。毎日、溜息ばかりついたのに。この世界なら僕が君を絶対に幸せにしてあげれるのに」
「?」
なに?
佳緒留?
何って言った?
この世界?
「もう嘘をついてもしょうがない。僕は君の同級生じゃない。この世界は現実ではないんだ」
「どういうこと? だって、あのカエルが世界を変えたんじゃ」
「父さんは世界を変えたんじゃないんだ。君のために世界を作ったんだ」
「父さんって、世界を作るって?!」
わけわかんない。
確かにこの世界は私が知ってる世界だ。
作られたってどういうこと?
お父さんって?
「佳緒留!」
混乱してる私に聞き覚えのある声が届く。そして緑色のカエルが木製のカウンターの上に現れた。
「ばらしてどうするんだ。お前は」
カエルは腕を胸の前で組み、佳緒留を叱り飛ばす。
「カエル! どういうこと! 説明して」
事実が、事実が知りたかった。
「ふん、ばれたらしょうがないな。その通り、この世界は偽物だ。わしが作り上げた」
「だったら、元の世界に戻してよ!」
「嫌だな。わしは息子の願いを叶えてやりたい」
「息子?」
「父さん!」
何言ってるの?
だいたい、父さんって。
カエルと佳緒留は親子なの?
憤る私をカエルはちらりと横目で見る。大きな口は皮肉げに歪んでいる。
「佳緒留よ。お前も欲がない奴だな。並子は、前の世界が嫌だと思い、家族を捨てて独身になりたいと願ったのだ。お前はこの女の日々の生活を見ていたんだろう? だったら、お前がこの女を幸せにしてやればいいじゃないか!」
「父さん!」
カエルの言葉は事実だった。
私はそう願った。
それは変えられない事実だ。
「並子。僕は水の鏡を使ってずっと君を見ていたんだ。だから僕は君を幸せにしてあげたかった。この世界で」
佳緒留の優しくて悲しい笑顔が私の胸を突く。
こんなに思われることが嬉しかった。
でも、
「佳緒留よ。遅くないぞ。わしが手を貸してやろう」
カエルはそう言い、その手に杖を出現させる。そして私に向かって振り下ろす。
「父さん!」
「並子よ。お前の悩みを根本から解決してやろう。次に目覚めたとき、お前は幸せになっている!」
私がその意味を考える時間はなかった。
「!」
次の瞬間、私の体は宙に浮いていた。驚く私にカエルは虹色の光を浴びせる。
開放感を感じた後、すぐに衝撃が体に加わった。
「並子!」
名を呼ばれ、ぎゅっと抱きしめられる。
「父さん、なんてことを!」
ぼうっとする頭に佳緒留の声が響く。彼が心配そうに私を見つめていた。どこにいるかわからなかった。浮遊感が消えていたから多分床の上なんだろうと想像ができた。
「これが並子にとっても幸せなんだ。お前もそうだろう?」
はっきりしない意識の中、カエルの声がそう聞こえる。
「でも!」
見上げる佳緒留の表情は眉が寄せられ、辛そうだ。
なに?
どういうこと?
私、どうなってるの?
体全体に電気が走ったように感覚がなかった。体が動かず、意識は消えかかっていて、かすかに見えていた視界も徐々に暗くなっていた。
私、死ぬの?
「並子!」
近くで聞こえていた佳緒留の声が遠のいていく。
声が完全に消え、暗闇が私の世界を支配する。静寂が流れ、私は自分の存在を探す。しかし、私は意識だけのようで、体は存在してなかった。
ぼんやりと光が急に現れ、その中に子供の姿が見える。
優斗、優斗だ!
私は彼を抱きしめようと手を伸ばす。
でも体がない私はただそう願うだけに終わる。
何?
何なの?
混乱してる私に今度は別の姿が見える。
「並子」
そして聞こえたのは優の声だった。
「並子」
私を呼ぶ声は、穏やかな声。そう、私の好きな彼の声。
光の中で微笑むのは優だ。
まっすぐに私を見つめる瞳はいつも真摯で、口元には優しい笑みが浮かんでいる。
彼が好きだ。
彼と一緒にいる日々が大好きだった。
そんな大事な気持ち、忘れていた。
優。ごめん。
今やっとわかる。
私は優じゃないとだめなんだ。
でも遅いよね。
ごめん。
光の中の優はただ笑っていた。
私の謝罪に答えることなく。
ふいにぼんやりとした光が一気に拡大し世界を支配する。そして暗闇の世界は一変して真っ白な世界に変わる。それは私の意識すら呑込み、全てを塗り替えた。
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