失ったもの

「くっしゅん!」

「大丈夫?」


運転席に座っている佳緒留が私に顔を向ける。


「うん、大丈夫」


 私はハンカチを取り出すと口と鼻を覆いながらそう答えた。


 朝、佳緒留から役場まで一緒に行こうと電話があり、八時半に迎えに来た。昨日飲んだせいで車を役場に置いてきた私には、それはありがたい提案だった。


 でも、昨日の今日だし、

 体は正直で、胸がどきどきしていた。

 抱きしめられたときに嗅いだ香りは気持ちを落ち着け、思ったよりがっしりとした胸板は安らぎを与えてくれた。


 でもだめだ、こんなの。

 最低だ。


 あのカエルが言ったように、割り切ることはできない。


 やっぱり私の夫は優で、子供は優斗だけだもん。


 私はこれ以上佳緒留のことを意識しないで済むように、窓の外を見た。今日は晴天で、青い空の下、カエル像がにこやかに立っていた。


 確かに可愛いかも。


 あのカエルと何度も遭遇したせいか、間抜けにしか見えなかったカエル像が、なんだか可愛く見えた。

 優斗が可愛いって言ったのがやっとわかる。


 もう遅いけど。


「白田。僕、急がないから。だから」


 彼は正面を向いたまま、言葉を詰まらせる。

 道は緩やかなカーブで、山道のせいか、日差しはなく、車内は少し薄暗い。彼の茶色の瞳は光を反射することなく、影を帯びていた。

 

 佳緒留……


「佳緒留、ごめん。待たなくていいから。私は好きな人がいるし」


 子供がいる。旦那もいる。たとえ今の世界では違うけど。

 忘れることなんてできない。


積谷せきやすぐる?どうして?」

「説明はできない。でも私は忘れられないから」


 私は運転している彼に視線を向けることなく、窓を見たままそう答える。彼から痛いほどの視線を感じた。


 ごめん。佳緒留。

 私は無理。


 結局、私達はそれから何も話すことなく、役場に着くと車から降りて別れた。



「白田、河田町のカエル像の写真撮ってくれたか?」

「?」


 商工観光課の観光係長からそう声をかけられ、私は昨日ぼんやりと見ていた緑色のファイルの中にそんなことが書かれていたことを思い出す。


 忘れていた。すっかり。


「すみません。まだです。今から撮ってきます!」

「そうか、頼んだぞ」


 私が蒼白な顔をしていたことに同情したのか、係長は叱り飛ばすことなく私を送り出した。


 昨日久々に運転した車、昨日もひやひやしたが、今日もエンジンを掛け、頭の中でシュミレーションを繰り返す。そしてアクセルを踏んで車を走らせた。

 田舎道、しかも人々が仕事に行ってる昼間せいで車通りも少なく、どうにか目的に着く。


「たしか、公園の中だったよね」


 私は車を停めると持ってきた緑色のファイルをぺらぺらめくりながらキョロキョロと見渡す。


「ここ……」


 河田町ってそういえば優の実家の山野に近かったっけ。

 見たことのある風景が広がり、私はふと気がつく。

 ああ、公園ってあの公園か。

 

 私は目的の公園を見つけ、それが優の実家の近くであることがわかった。

 

「白田?」


 中に入ろうとすると、声をかけられ私は目を見開く。

 そこにいたのは優と彼女さん、そして甥っ子の守くんだ。


「どうした?こんなとこで?」

「えっと、仕事。すっ、積谷は?宮子さんと甥っ子くんと散歩?」


 私はなんだか居心地悪さを感じながら3人に笑いかける。


「ああ。宮子に町を案内しようと思ったら、姉貴に守を連れて行けって言われて」


 優はそう笑いながら、守くんの頭を撫でる。

 彼はかなり人見知りの子だった。この世界でもそうみたいで、優と彼女さんの後ろに隠れて、私のことを窺うように見ていた。


「守~。挨拶くらいしたほうがいいぞ。俺の高校時代の同級生で、白田並子っていうんだ」


 優がぐいっと守くんと前に押し出そうとする。

 

 ちょっとかわいそう。


「いいよ。いいから。守くん、おばちゃんは並子っていうの。よろしくね」


 私はしゃがみこみ、彼と同じ視線まで腰を落とす。

 守くんはこくんとうなずいた。


 ああ、優斗と同じ瞳だ。

 そうだよね。優の甥っこだもん。


 私はなんだから彼に触れたくなり手を伸ばす。

 でも守くんは宮子さんの後ろにふいっと逃げた。


「守!」


 優が咎めるようにその名を呼ぶ。


 なんで?

 私は優斗のお母さんだよ。

 一緒に遊んだこともあったじゃない。


 私はそう言いたくなるのを堪えると立ち上がった。

 胸がきゅっと締め付けれ、目頭が熱くなる。

 

 だめだ、泣いてしまう。


「いいよ。気にしないで。守くん、また今度ね」


 私はそう言って背を向ける。瞳に涙が溜まり始めこぼれそうだった。


「白田?」

「ごめん、ごめん。邪魔したね。私、写真取る必要があるから」


 私は優の視線を背中に感じだが、振り向くと泣いてることに気づかれると思い、背中を向けたまま走り出した。


 おかしいと思われたかも。

 でも泣いてるところは見られたくなかった。

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