episode9-1

「ねえ、覚えているかしら」

 それは女の声だった。

 私にとって愛おしいモノの声だ。

 これは一体、いつの時の事だったか。

 数十、或いは、数百年前の事かもしれない。

「この前の、アザレアさんと三人で海へ行った時のことよ」

「ああ、あの時は楽しかったな、あいつも楽しそうだった」

「そうなの? 私あの人に嫌われているんじゃないかと思って」

「いや、あいつは君を割と気に入っている」

「そうなの?」

 白く美しい長髪から見える彼女の顔は、困惑と少しの喜びの色があった。

「あいつは外側と中身が乖離していることも少なくないから」

「そうなの? アザレアさんのこと、よく理解しているのね」

「あれとは生まれてすぐの頃からの仲だからな。大抵の事は分かる」

「ふーん、そうなの」

 少し、唇を尖らせながら彼女は部屋の掃除を始めた。

 私は翼についた埃をぱさりぱさりと、ふるい落としてから立ち上がる。

 そして、彼女の掃除を妨げないようにしつつ、彼女の傍へと寄っていく。

「ご機嫌取りなんて別に要らないわ」

 意図を読まれてしまった。

「私、別に機嫌を損ねてなんかいないもの」

「…………」

「ちょっと、妬いてしまっただけだから」

 彼女は神秘的な空気を纏っているが、案外感情を口にするタイプだった。

 そこがアザレアと似ているような気がする。

 これを言うと更に拗ねてしまいそうだ。

「ごめんなさい。困らせるつもりはないのよ?」

「謝る必要はない。アザレアがいたのに、新たに君を娶った私が悪いのだ」

 私がそう言うと、彼女はくつくつと笑い始めた。

「何か変なことを言ってしまったか?」

「いえ? 貴方を好きになって良かったわ【ヴァル】」





「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 青年は叫びながら、布団から飛び起きた。

 服は汗でじっとりと濡れ、非常に不快感を覚えさせる。

 しかしそれ以上に、先程の夢、いや、記憶は何なのだろうか。

 苛立ちと焦燥感、様々な感情がない交ぜになり、青年は顔を両手で押さえた。

「隆一、大丈夫?」

「っ!?」

「きゃっ!」

 青年が飛び跳ねて驚く。

 それは起床時の比ではなかった。

 彼の目の前には、夢で見た女とよく似た少女がいたからだ。

 だが青年はすぐに冷静になり、荒い呼吸を整えながら言葉を紡ぐ。

「ごめん、クロエ」

 謝り、彼女の名前を呼ぶ。

 だが青年はすぐにはっとする。

「じゃない! 竜ヶ森……」

 彼女の偽名に言い直した。

 “滝上隆一”は竜ヶ森と呼ぶのだ。

「……気にしないで」

「ごめん、ごめん……」

 青年は顔を布団で覆いながら、嗚咽交じりの謝罪をする。

 布団は熱い吐息と涙など諸々の体液で濡れていく。

 もう不快感など気にしている余裕は彼になかった。

 クロエは居た堪れなくなりつつも、傍を離れない。

「アザレアとアリシアは?」

「あの二人なら、【聖賢】の所に行くって」

「そっか……。本当なら俺も行くべきなのに」

 布団を何度も叩く青年。

 溢れ出る感情を抑えきれないのだ。

 鈍い殴打する音が部屋中に虚しく響く。

「竜ヶ森、俺、一体何なんだ……」

「貴方は滝上隆一。そうでしょ?」

「知らない記憶が流れてくるんだ。知らない森の中の湖や青紫の空とか」

 クロエはその記憶が示すものを知っている。

 だが、青年と同じように彼女もまた、青年を滝上隆一と思いたかった。

 自身が好きになった人間を、自分の父親だとは思いたくなかったのだ。

「わた……お、俺は竜ヶ森が好きだった」

 その言葉は少女が待ち望んでいたものだった。

 しかし、

「でも、もし、もし俺が……」

 彼が父親と私が娘だったら、この恋はきっと。

 白髪の少女は胸の動悸が激しくなった。

「初めて君を見た時に感じたあの感情は」

 やめて。

 少女は耳を塞ぎたくなる。

 だが、塞ぐわけにはいかない。

「もしかしたら……この感情は」

「やめて!!」

 少女は堪えきれず、青年の言葉を遮った。

 そして、青年の顔を自身に無理やり向ける。

「貴方は“滝上隆一”、そうでしょ!」

 先ほどと同じ言葉。

 だが、これには願望と強要が多分に含まれている。

 その言葉を青年は否定することが出来なかった。いや、したくなかった。





 一方その頃、滝山市のとある住宅街にて。

 老人が新聞を取るために玄関の戸を開いた時。

 家の前に、対照的な二人の艶女が立っていた。

「久しぶりじゃの」

「……久しぶりだね」

 老人はその二人を知っていた。

 しかし、突然の来訪に警戒を隠せない。

「【水龍】にアリシア、随分と変わった組み合わせだ」

「ちょっと事情があってな。中に入れてもらえるか?」

「……まあ、構わないよ」

 家の中は、何てことない普通の家だった。

 ちゃぶ台を挟んで、老人と二人の女が対面する。

 ちゃぶ台には透明なコップに注がれた麦茶が三つ。

「今日は一体どういう用件で来たんだい?」

「【聖賢】、単刀直入に言う。戻ってこんか?」

「……一体どういう意味かな? 私がそれに乗るとでも?」

 老人、柳沼は更に警戒を強めた。

 結露したコップから水滴が落ちる。

 夏だというのに、室内の空気は凍り付いていた。

「ちと状況が変わったと言ったであろう?」

 ……。

 …………。

 ………………。

 しばらくして、【水龍】は自身が知っていることを話し終える。

「隆一くんが……?」

「詳しい経緯は分からんが、恐らくな」

「突拍子もなさすぎて、心が追い付かないよ」

「そこの辺りは私たちもそう思っている所だわ」

 場の空気が静止する。

 【水龍】は麦茶を一気に飲み干すと、再び口を開いた。

「前にちらっと聞いた限り、五年前に事故に遭った、ここじゃろう」

「五年前……ヴァルたちがこっちに来ようとした時かな」

「妾たちはその日に【幻相】が何かをしたと踏んでおる」

「あの黒猫さん、元々ヴァルに何か思う所があったようだしね」

 三人の脳裏に、【幻相】の不敵な笑みが浮かび上がる。

「まあ、ともかくじゃ。今一度戻ってくる気はないか?」

「……すまないが、今はそういう気分にはなれそうもないよ」

「……随分と人間らしくなったの。ま、気持ちは分からんでもない。邪魔したの」

「麦茶美味しかったわ。ありがとう」

 自分の子孫が死んだ翌日の事だ、仕方ない。

 女たちは程なくして、老人の家から出ていった。

 残された老人は再び、自身の暗澹とした心の沼に浸る。

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