episode8-4

 山羊の異形による襲撃の翌日。

 午前八時四五分、滝上家居間にて。

 椿姫は日課である稽古を終え、シャワーで汗を流した後、タオルで濡れた髪を拭きながら居間に入ってくるところであった。

「おはよう、お母さん」

「おはよう。あら随分と眠そうねえ。まあ、隆一ほどじゃあないけど」

「兄さん? あれ、そういえば兄さん、今朝からバタバタしてたよね」

「それがもう出掛けちゃったのよねえ。またデートかしらねえ?」

「はあ、それよりお母さん。朝ごはん」

 椿姫の脳裏にクロエの姿が思い浮かべられた。

 彼女と性格の相性が悪い椿姫は、自然と眼筋が引き攣り、ため息を吐いてしまう。

 最早、犬猿の仲と言ってもいいのだろう。本人たちは意識していないものの、椿姫とクロエのファーストコンタクトがほぼ最悪のものと言ってもいいものであったことが原因なのだが、この場ではさして重要なものではないため割愛する。

「ああはいはい。今日はねえ、マチさんがお休みだけど張り切って作ったのよぉ」

 美冬が食卓にどん、と置いたのは白い山。

 と、ごま油の香りが効いた特製のタレ。

「えっと、また、そうめん?」

「……今日は中華風よ」

 このところ、そうめん続きである。

 椿姫は違う意味でため息を吐いた。





 午前一〇時一七分、APCO第三ドックにて。

 背中に黄色い文字でAPCOと入った群青色のジャンパーを羽織った椿姫は、整備員と話しながら藍色の機動鎧『アディール』、その改良型の調整を行っていた。そんな中、

「滝上、出撃を頼む」

 鳥の巣のように薄くなった頭頂部を掻きむしった、APCO装甲機動隊第一班班長、荒城がドックに入って早々、そう告げてくる。その顔には何時になく大量の汗が浮かび上がっており、夏の日差しが強烈なものであることを窺わせる。

「『いつものヤツ』で行きます」

「トレーラーの方にはもう積んである」

「分かりました。場所は?」

「郊外の水野原公園だ」





午前一〇時前、滝山市の郊外にある水野原公園にて。

 こそこそと木陰に隠れながら、公園の様子を見る二つの影があった。

「本当にこんな所で大丈夫なのかのう……?」

「この辺は昔っから神隠しに遭うって噂があってさ、実際に昔、街にいた腕利きの医者の息子が夏休みに虫取りへ出掛けた際、神隠しに遭ったこともあってか、近隣住民はマジで誰も近寄らないんだ。だから、一般人が来ることはない……はず」

「子どもというのは好奇心旺盛じゃからなあ。案外来るかもしれんぞ」

「少なくとも、今は誰もいないじゃあないか? それに肝試しするなら夜だ」

 二つの影は男女で、一本の太い木に隠れ、女が中腰、男がやや身体を曲げ、段になった状態で公園内を見ている。木陰とはいえ蒸し暑く、男はだらだらと額から汗を垂れ流しているが、女の方は至って平静で、むしろ涼しげな空気すら放っている。

 詰まるところ、隆一と【水龍】である。

「いやまあ、確かに今は人っ子一人おらんが……。はあ、気が進まんのう。というかそもそも、この作戦が上手くいくかのう……? あの映画はフィクションじゃぞ? つまり、作り話じゃ。竜である妾が言うのもなんだが」

「事実は小説より奇なりって言うし? 案外何とかなるってマジで」

「お主、ここぞという時にものすごーく楽観的じゃなあ?」

「これ以上の方法は頭がただの男子高生には分かんない! 成績はいつも三!」

「成績はよく分からんが、まあその、何じゃ。はあ、【幻相】には気を付けるんじゃぞ」

「分かった!」

「いい返事過ぎて逆に心配なんじゃが……」

 【水龍】が困ったようにこめかみを押さえて唸る。

 隆一は内で燻る不安を誤魔化しつつ、息を整える。

「じゃ、やるかぁ」

「……分かった。本気は出さぬが、死ぬなよ」

 瞬間、【水龍】が纏う空気が一変する。彼女は肉体の芯から底冷えするような冷気を放ち、瞳に宿らせていた熱の一切を消し去る。そして隆一の前から姿を消し、一瞬のうちに公園内にある自動販売機の前に移動していた。

 彼女の動きを全く覚ることすら出来なかった隆一は、改めて【水龍】との能力の差を感じ取りつつ、自身も所定の位置に向かって、そろりそろりと移動を始める。

「…………」

 所定の場所に到着した隆一は、平然とした態度を装い、公園に入る。

「あー喉渇いちゃったなー! 喉渇いちゃったなあ!」

 公園及びその周辺に、青年の間の抜けた棒読みが響き渡る。

 全く知性の欠片もない表情かつ声色だが彼はマジである。

「あー何にしようかなー! 妾困っちゃうなー!」

 彼の声に応えるようにも棒読みを響き渡らせる。

 彼女も例によって、知性の欠片もない表情と声色だが、マジである。

「あーッ! お前は【水龍】!?」

「むむッ! 貴様は滝上家の元跡取りにして! 現APCO所属の滝上隆一!」

「説明ありがとう! だが、ここであったが百年目!」

「ふっ、どうやら妾たちは戦わなければならないらしいな!」

 残念な光景が繰り広げられているが、これには彼らなりに重要な理由がある。

 あるのだ。

「そう! 俺たちは戦う定め! 俺は強いぜ、止まらないぜ」

「何でラップっぽく言ったんじゃ……? 本職に謝ってこい?」

「……んん! いざ、尋常に!」

「無かったことにしおった……いざ尋常に」

 と、自販機前で睨みあう二人。

 非常に締まらないが、纏う殺気は本物であった。

 周囲に響く虫の鳴き声や風の音さえも、彼らの前では鳴りを潜め静まり返る。

 一歩、どちらかが踏み出せば、それだけで戦いが始まる。そう予感させた。

 そんな中、唐突に、何の前触れもなく、全く予想外の方向から声が掛かる。

「兄ちゃんたち何してんのー?」

「へ?」

 間の抜けた声が、二つ、木霊する。

 隆一と【水龍】が顔を合わせた後、声がした方を見る。

「?」

 そこには麦わら帽子にTシャツ、短パンを身に着けた少年もしくは少女が一人。

 見た限り小学生くらいだろうか。中性的な顔立ちで、正確な性別は判断できない。

 ここへ来た理由は喉が渇いたためだろうか、彼、或いは、彼女は両手に余る大きさのガマ財布を胸の前で抱いている。

「ああ、喉が渇いたんだね。ゴメン、退くよ」

「んーん、いいよ! それよりも何してんの?」

「へ?」

 再び間の抜けた声が、二つ、木霊する。

 子どもの探求心というものは恐ろしいものだ。

 無論個人差があるものの、少なくとも子どもの興味は隆一たちに向いた。

 いや、向いてしまったという方が正しいのだろう。……残念ながら。

 取り敢えず誤魔化そう、隆一と【水龍】は視線で意思疎通を行う。

「で! 何してんの?」

「えっと、その……お兄ちゃん正義の味方だから! その、た、戦い?」

「もっとマシなのあったじゃろ!? お主何なの!?」

「お兄ちゃん! 今時そんなの信じる子いないよ!」

「ほれ見たことか!」

「正義の味方なんているわけないじゃん!」

「それはそれでどうなんじゃ!?」

 傍から見ると和服を着た二〇代半ばの女が公園で叫んでいる。

「じゃあじゃあ、おばちゃんは何でそんなに変わった喋りなの?」

「おば、おばちゃん。ほほほ、これこれ」

 意外にも【水龍】は怒らない。

 子どもの注意が自分に逸れたことはむしろ喜ばしかった。

 そしてこのまま、この場から離れて貰うために思考する。

「おば、おば……」

 腹を抱えてくつくつと笑う隆一。

「あ?」

「いえ、何でもありませんよ?」

「娘っ子や、このようなヤツになってはならんぞ?」

「うん! 分かった!」

「女の子だったんだ……」

「うむうむ、良い返事じゃなあ。ジュースを奢ってやろう」

「えー! いいの!? おばちゃん!」

「うむ、良いぞ! ……ほれ」

 少年、いや、少女は目をキラキラと輝かせて、【水龍】に詰め寄る。

 そして、【水龍】の顔は少女の方を向き、右手は隆一の方に差し出す。

「え、何その手は」

「え? 金じゃが? ちょっと今金欠なんじゃ……」

「バイトでもすれば? ……ちぃーっす分かりましたよ」

 隆一は露骨に拗ねたような表情を浮かべると、自販機に小銭を入れる。

 取り敢えず、万人が好みそうなオレンジジュースのボタンを押す。

 程なくして、オレンジ色のパッケージに包まれた缶が落ちてきた。

 隆一は少女の前でしゃがむと、缶を手渡す。

「ありがとう! 怖い顔のお兄ちゃん!」

「こ、怖い顔ね。……父さん、恨むぞ」

「怖い顔、怖い顔! くくッ、ほほほほほほ」

「ほほほ? 青い着物のおばちゃんじゃなくて、お婆ちゃんじゃん! お母さんと一緒に観たドラマでそういう人見たもん!」

「おい小娘ぇ、いい加減限度というもんを考えろよぉ?」

 この時、ふと、【水龍】の脳裏にある企みが浮かんでしまう。

「ほれ、小娘ちょっと妾の端麗な顔に注目せい?」

「んー? なぁに?」

「いないいない……」

 【水龍】が自身の顔を青い着物の袖で隠す。

 そして、勢いよく開くと、そこには、

「ばあッ!」

「ぎゃあッ!?」

 そこに目鼻立ちの整った美しい顔はなく、代わりに白い鱗に覆われた爬虫類顔。

 艶やかな光沢を持つその鱗や、碧く輝く目、蛇のように二股に分かれた肉厚の舌から、目の前にいる異形が、作り物ではなく、確かに存在する生物であることを知識でなく直感で理解させてくる。少女は一目散に走り、公園を後にした。

 隆一と人間の姿に戻った【水龍】がぽつんと残され、顔を見合わせる。

「絶対トラウマになったぞ」

「まあ、時間もないことじゃし?」

「つーかやっぱり、元は龍? なんだな」

「このくらい、龍ならば造作もないこと。自分で元に戻ろうとしなければ、解除されることもない。姿から内に流れる血に至るまで、完璧に人間に擬態できるぞ」

「へー、すごいんだな」

「あんまり驚いてないのー、つまらん」

「慣れじゃないか? よし、そろそろやろうぜ」

 そう言って、隆一は懐からペン型の注射器を取り出し、左腕に当てる。

「こうして対峙するのは二度目か、お互い深手を負わない程度にな」

「おうよ」

 その言葉を合図に、隆一は自身の肉体に内容物を注入する。

 全身を雷のように鋭い熱が勢いよく奔る。そして、彼を中心にして暗雲が蜷局を巻いて回転する。青い雷が低い唸り声を上げ、レンガの床は雲から流れ出る水分によって湿り気を帯びていく。

「……」

 雲が晴れた時、白き魔人は泰然とそこにいた。

 魔人の紅き左眼が【水龍】を正確に捉える。

「ふん、やはり見た目は中々に厳ついのう。ああ、元からじゃったな」

 分かりやすく、【水龍】が得意満面の笑みで魔人を煽る。

 彼女の言葉が終わると同時に、魔人は目にも留まらぬ速さで【水龍】の懐に入る。

 その動きを【水龍】は完全に目視して、認識し、果ては欠伸して身体を伸ばした。

「……ァァ!」

「よっと」

 魔人は素早く貫手を【水龍】の顔面に向けて放った。

 それを【水龍】は身体をずらして軽々と躱し、すれ違いざまに額を扇子で叩く。

 完全に遊ばれている――――基本的に冷静な魔人も、徐々に目の前の女を負かしてやろうと本気になり始めた。

「おっ、そう来なくてはな。いい組み手が出来ると良いな」

「……!」

 先行を取ったのはまたしても魔人だった。

 魔人は【水龍】に向けて鋭い回し蹴りを放った。

 強烈な風と僅かに電気を帯びた蹴りは、常人が食らえばひとたまりもない。

 流石に【水龍】も電気を帯びた蹴りは不味いのか、後方へ飛んで躱した。

「良い蹴りじゃな? だが妾に当てるにはまだまだじゃ」

 その後、幾つもの攻撃を放つ魔人であったが、その悉くを往なされる。

 魔人の心は更にかき乱され、増々精彩を欠いた攻撃になっていく。

 そんな魔人を見て【水龍】はくつくつと笑いながら攻撃を捌く。

「……ァァァァ!」

 遂に魔人は天に向かって高く跳び上がり、その勢いで彼女に跳び蹴りをする。

 先ほどまでよりも強い雷を帯びた右脚は轟き叫び、【水龍】へ迫っていく。

「見た目は派手じゃが、ちと隙が大きいのう?」

 眼前に迫る攻撃に怯みもせず、【水龍】は真っ直ぐ魔人を見据えてそう言った。

 案の定、【水龍】が僅かに移動しただけで、蹴りを避けることができた。

 それからすぐに、魔人の蹴りはレンガを砕き周囲に亀裂を走らせる。

 そして、着地によって出来た彼の隙を【水龍】は見逃さなかった。

「この程度の言葉で心を乱されているようではこの先が心配じゃ。【幻相】を前にしたらどうなるやら。このこと、よく覚えておくようにな」

 魔人がその言葉を聞いた時には、既に天を仰ぎ見ていた。あまりに一瞬の出来事で全く反応出来なかったことに、彼は驚きを越して呆然として、青空を見上げ続けた。

 そんな魔人を尻目に、【水龍】は魔人の身体をひょいと持ち上げると肩に担ぐ。

「よし、では行くとするかのう。思ったより時間が掛かってしまった」

〈待ってください〉

 公園を後にしようとした【水龍】が、背後にいる何者かに引き留められる。

 その声は機械越しで、やや粗いものであったが、確かに少女のものであった。

 加えて、それは魔人や【水龍】にとっても聞いたことのある声だった。

 【水龍】は相手を刺激しないように、ゆっくりと後方を振り返る。

「振り向きたくないんじゃがなあ」

「……」

 魔人はぐったりとして意識を失った。……フリをする。

「裏切りモノめぇ……!」

 苦渋に満ちた表情で振り向くと、後方には藍色の鎧が立っていた。

 全身を特殊な合金で包み、施された高度な技術によって、異形に勝るとも劣らない領域にまで至った人類の叡智の結晶。その緑色に輝く二つの双眸が【水龍】を見据える。無機質な機械の瞳にも関わらず、視線には生々しい憎悪が含まれていた。

〈以前の借り、そして、兄への仕打ち……。総て返させてもらいます〉

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