episode5-10 太陽の内側

 なんて悪夢だ――――

 隆一は古びた扉の前で立ち尽くし、目の前で広がる光景に絶句する。

「どうした? 滝上、峰山。表情が硬くなってるぞ! いかんいかん。若いのがそんなんじゃあ! もっと元気だせぇ。って元気が出るはずないか」

 夕焼けの柔らかな光が、埃や砂に塗れた窓ガラス越しに届いてくる。

 それを背に、何食わぬ顔で隆一と峰山を迎える二人の男。片方は滝山学園の教師である豪山。隆一にとって恩師と言っても過言でない男である。屈託のない、見ようによっては暑苦しい雰囲気を放つ笑顔を向けられ、隆一は心臓が撥ねられるような激しい動悸を覚えた。

 割り切った、と思っていた青年であったが、実際の所はそうでなかったようだ。肌に張り付くような湿気が、不快な感情を逆なでする。

「いやあ、まさか、まさかねえ。お前がねえ……っああ! 悪い悪い。どうにも話が長くなっちまってなあ。まあ、そこで突っ立ってないで中に入れよ」

「は、はあ」

 隆一は峰山を背後に置き、扉から近い所に立たせる。前方の二人組とは距離を取れるようにし、場合によっては一人だけでもすぐにこの場から逃げることが出来るようにするためである。

 一人、隆一が豪山と三ツ木の前に立つ。その距離は六歩進めば詰められる距離だ。“ブルーアイ”を摂取しているモノであれば、一息で容易に詰められる距離でもある。

「滝上」

「なんですか?」

「喧嘩したんだって?」

「そうですけど……」

「それは良くないなあ! 良くない。寄り道せずにちゃんとまっすぐ帰らなくちゃなあ?そもそも喧嘩というのも良くない。良くないぞ?」

 相も変わらず暑苦しくも朗らかな笑みを浮かべる目の前の恩師。

 普段通りの振る舞いをする豪山と、今置かれているこの場所、この状況が吐き気を催すほどにアンバランスであった。

「あの、それで」

「その上、負けてすごすご帰るというのも良くなあい! お前も男ならなあ! 勝つまでなあ! っといかんいかん。これは俺が言うようなことじゃあないよな。折角来てくれた大事な生徒だからぁ、長々と話してちゃあ可哀想だよな!」

「そうだよ、せんせー。さっさと本題に入らなくちゃ」

「そうだなあ!」

 来た――――豪山の言葉に、隆一は自身の気を引き締める。そのせいか、掌に汗が滲み始める。

「さてさて、茶番はここまでにして、そうだなあ……んー本題と言ってもなあー。何から話したもんかねえ。ここはすぱっと言うべきか。それともぉ、んーいやあ、ここはやっぱすぱっと言うべきだな。うん」

「…………」

「滝上」

「はい、何でしょう」

 青年は喉を鳴らしながら唾を嚥下する。

「お前、APCOとどんな関係なんだ?」

「え? 何を言いたいのか、意味が解りませんよ」

「とぼけるなよ。屋上であんなに騒いで聞こえない訳がないじゃないか」

「本当に解りません。APCOってテレビに出てたやつですよね。一体それと俺が関係しているって……」

 予想だにしない状況に対し、隆一は知らぬ存ぜぬという反応しか出来なかった。彼の喉は急速に乾いていき、呼吸も浅くなっていく。思考のリソースは今後の行動などに使える余裕はなく、現状の対応に注がれる。

 彼の思考による反抗を見透かすように、二人の“敵”は人を食ったような、不敵な笑顔を浮かべる。

「まあいいや! 話さなくっても! お前にバレちまったってのは、かーなり面倒くさいが! それを処理するために呼びだしたわけだし、こうしてのこのこ来てくれた! いやあ、持つべきなのは仲間ってやつだねえ」

 白いポロシャツを着た線の太い男は、その視線を隣の眼鏡をかけた青年へと向ける。青年は教師の視線に笑顔で返す。

 ここで、隆一はある違和感を覚えた。空気が異様なまでに肌に絡みついてくるような、そんな感触、今の季節が梅雨だということを除いてもだ。そして、耳に着けた小型多目的インカムからも音が届かない。外にこちらの映像を送れているのかどうかも怪しい。

 隆一の表情に起きた僅かな変化を感じ取った三ツ木が、自分が欲しい回答を得たと言わんばかりに、先ほどまでよりも高く、不気味に口角を上げる。口が裂けているのではないかと思うほどに。

「あー気付いた? そうそう。君たちはもう逃げられないってわけ。そこのぉ、君もね?」

「え?」

「……」

 三ツ木が指差した所は、隆一でもければ峰山でもなかった。使われていなかった部屋の扉が気味の悪い鳴き声を上げながら開き、中から人型がゆっくりと出てくる。

 それは、

「啓? なんで……」

 峰山はあまりの驚きに声も出せず、隆一の喉から力のない乾いた声が這い出てくる。



「滝上! おい、聞こえるか! 滝上!」

 指揮車両から、APCO捜査第一班・主任である東藤が手に持ったマイクに必死の形相で声を掛けるも、届いてくる映像及び音声はノイズ塗れでちっとも返答はない。

 一体廃墟の中でどのようなことが行われているのか、外の人間は窺い知ることはできない。

「くそっ!」

 無力感から、東藤がコンソールデッキの天板部分を叩く。

 何らかの動きがあるまでに、こちらから行動を起こすことは、逆に中にいる隆一たちを危険に晒すことになる。今できることは、周囲の偵察と外から調べられる範囲での偵察。そして、これから来る増援を待つことだけだ。



「んー。ちょっと街田くんが来ることに関しては予想外だったんだけど、まあこれはこれで面白いかなーって思っちゃってて、先生はどう?」

「どうって言われてもなあ! このままにはしておけないしなあ。どうしたもんかねえ。ううむ」

 豪山と三ツ木は相も変わらず、素っ頓狂な話し方で、まるで世間話でもしているようかのようだ。

「街田くん……なんでここに来たんですか?」

「俺は、お前たちの力になれたらって……」

「お前、こんな状況で……」

「ただ、隆一の役に立ちたいって、峰山を、好きな女を助けたいって……」

 それは紛れもなく善意だった。純粋に何かの役に立ちたいという願い、そして、この廃墟に飛び込んできたのは、彼が持つ勇気と無謀さ故であった。

 だが、そんなものはこの場において、何の役にも立ちはしないというのも、また事実。

「もっと他のやり方とか……」

「あーあーそこまで! そこの三人ー? 青春系三門芝居はそこら辺で終わってくれないかな? 僕らにもこの後予定ってもんがあるんだからさー」

 三人の会話が白熱しかけた時、三ツ木が手を叩き、強制的に会話を中断させる。

 そうだ、この状況で悠長に会話している暇などないのだ――――隆一の頬を汗が伝う。

 隆一たちを取り巻く異様な水気とプレッシャーは消えてなどいない、むしろ、峰山や街田でさえその存在感を感じ取れるほどに増している。

 外から吹く強い風が窓を叩き、震わせる。静寂に染まり切ったこの空間においては、全身を揺さぶられるような強さに感じられた。

 止まりかけた時間が再び加速する。

「だからさあ……さっさと死んでよ!!!」

 三ツ木が右足を軽く上げ、床を踏み砕かんとする勢いで振り下ろす。木製の床からは乾いた音ではなく、腐った肉を踏みつけたような水気のある音が伝わってくる。

「っ!」

 隆一は咄嗟に背後の二人を庇うように、前に出る。

 次の瞬間、目視すら困難なスピードで、細い鼠色の肉の束が大木の如く迫りくる。その圧倒的な質量は、隆一の身体を容易く引き摺り、木製の壁を破り、それでも勢いは止まることなく、隣の部屋に配置されていた机や椅子を巻き込みながら、突き進んでいった。

「っーーーー!」

 声にならない呻きが、彼の腹の奥底から無理やり絞り出される。青年の全身はジェットコースターに乗っている時のように体が押し付けられるような感覚で包まれ、背中は木製のバット殴られるような痛みが走り、口の中は鉄臭い熱いものでいっぱいになった。

 やがて、勢いは様々な障害物で削がれていき、

「っはぁっ!」

 二つ目の壁、その内側の骨組みに叩きつけられたことで完全に止まった。

 それと同時に、隆一の口から血反吐と形容するには余りに悍ましい何かが排出される。

 壁には亀裂が走り、天井や壁の一部からは木片や石膏の破片がパラパラと落ちてくる。

「……隆一!? 大丈夫か!」

 街田と峰山は隆一の下へと駆け寄る。

 三ツ木はそれを黙認した。いつでも、殺せるという確信があるからだ。

「はあ、はあ」

 人体を破砕する事を目的とした、人外による攻撃を食らいながらも、隆一の肉体は原型を留めていた。いや、不自然なほどに、彼の身体は人型を奇麗に保っている。

 不気味に鼓動し、脈を打つ灰色の肉の束は依然として隆一の肉体を掴んでいる。

「あれ? 結構本気目でやったんだけど? かなり元気だ驚きだー」

 挑発するように拍手をしながら、間の抜けた声で三ツ木は言う。彼の左の脹脛から灰色の肉に覆われ、脈を打つ地面と癒着していた。

 それを見た豪山は、あまりのグロテスクさに、顔をしかめ嫌悪感を示している。

 慌てた様子の街田たちが到着し、灰色の塊を隆一から引きはがそうとした。

 しかし、隆一はその行動を空いた手で制止し、

「なあ……豪、山せんせぇ」

「…………」

 隆一が血反吐交じりに豪山へ声を吐き出す。唾液と血が混じった薄い朱色が、砂ぼこりを被ったカーペットに飛沫と共に垂れ落ちる。

 豪山は答えることなく、視線で返す。

「俺は、アンタに感謝してる……初めて会った時は、暑苦しい先生だなって思ったけど、その暑苦しさのお陰で……お節介のお陰で、俺はぁ……サッカーって、運動するのって楽しいことなんだなって、思えたんだ。本当に、マジで感謝してる」

「……」

「俺はアンタが好きだった。せんせぇはぁ、どう、だった?」

 視界が霞んでいる、これは涙だろうか――――目の前で恩師が悪事に手を染めているという事実を突きつけられるのは、到底慣れることが出来るものではない。

 隆一は今でもこれが夢であればいい、あの明晰夢のように、また――――

「俺は嫌いだったよ。いや、嫌いになったよ、か」

 普段の豪山と違い、突き放すような、酷く冷たい声だった。彼は視線を三ツ木に向け、話し始めるということを目で伝える。

「お前とパス回しをした時のこと、覚えているよな」

「…………」

「あの時、俺はお前を俺の同類だと思っていた。試合で大怪我をして、プロになる夢を絶たれた俺とな。あの時、俺はとても気分が良かった。自分の人生を捧げてきたモノを失い、心に穴が開いたようなお前の瞳が、俺の心を満たしてくれた、そんな気さえしたなあ……だから俺はお前とアレをすることにしたのさ。お前の下手くそなキック、アレは本当に面白かったよ、このボンボンまともに運動も出来ねえのかってな」

 それは太陽に隠されていた、豪山の本性。いや、誰にでもある別の顔というべきだろう。

「だがどうだ、最近のお前、えらく調子がいいじゃないか。全国でも有数のサッカー部とも真向から戦えるなんて、そうそうない。……でもなあ、駄目なんだよ、お前はそういう奴じゃあ、お前は俺みたいにならなきゃいけない。鬱屈した感情を抱いてなきゃあいけないんだ。そうに決まってる、そうじゃなきゃなあ。もしそうなるっていうなら、特別にお前だけは生かしてやってもいい。そうしたら、俺はまたお前を好きになれるはずだ」

 太陽のように思えていた彼の笑みも、今この時は醜悪な笑みに見えてならない。

 再び、静寂に生理的嫌悪感を感じさせる脈音がのみが響く。淡く輝く夕陽が、その音の源を照らす。橙色に輝く、灰色の肉塊はまるで隆一と豪山を隔てる境界線のようであった。

 隆一は俯き、手で街田達を自分から大きく距離を取るように指示する。

「何で、“ブルーアイ”を売り始めたんだ?」

「偶然いや、あの人の言葉風に言うなら、運命ってやつだな。本当に奇跡みたいな出会いだ。借金が嵩んでやばかったあの時の俺にはまさに救世主と言ってもいい」

「そうかよ……」

 身体に食い込んでいる灰色の豪腕を掴み、深く息を吸う。腹部を固く抑えられているため、満足に息を吸うことさえ困難な有様だ。しかし、構わず深呼吸を続ける。

「先生、俺の知ってるアンタは死んだ。でも、俺が感謝してるのは変わらない。だから」

「!?」

 瞬間、隆一の左腕から乾いた破裂音と共に青い稲妻が放たれ、灰色の肉を通電。三ツ木へと襲い掛かる。それにより灰色の腕が隆一の身体を離れ、地面をのたうち回り、埃や机の残骸を舞い上がらせた。

「俺はアンタ達を止める。それが今、俺がやるべきことだから」

 懐から無地のペン型の注射器を取り出す。

 その瞳は水晶のように澄み渡り、迷いは見えない。

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