episode5-8 子羊たちの決意
「ああもう! マジでなんなの! 何であそこにいるわけ! 本っ当に空気読めないやつね! ……あーあ、そもそも券を渡していくんじゃなくて、そのままどこか別の店に行けば良かったな。もう! あれもこれも全部、あの筋肉馬鹿の戦闘狂ジジイのせいよ!」
夜の帳が降りた窓の向こうとは対照的に、LEDの照明で隅々まで照らされた品のあるマンションの一室にて。
肩まで伸びる煌びやかな白銀の髪を一心に振り乱しながら、天井から吊るされたサンドバッグを殴りつける一人の少女の姿があった。部屋中に防音設備が整っているため、少女は殴りつけることに一切の躊躇はない。
重い打撃音が室内に響き渡り、サンドバッグは大きく揺れる。
「折角いい感じに誘えたっていうのにさあ! ちょっと落ち込んでる隆一を元気にさせてそのまま、ゴールイン! ……とまではいかないけど、今よりもっと進展しそうだったのにあの長剣使いはさあ! ていうか、隆一は魔狩師の家系だからなー。まあ、隆一は実家の家業を継ぐことはないって言ってたけど。大丈夫だったかなあ。【轟焔】のおっさんとバトったりしてないかな。あとでメッセ送っとこ」
独り言をぶつぶつと喋りながら、正確無比なパンチを的の側面や中央といった部分へ次々と当てていく。その様子を見れば、彼女を密かに思う者たちが幻滅すること間違いなしである。
「魔狩師だったら気づいてるのかな。明日からは学園がもっと騒がしくなりそうだな……。大体、【幻相】もわざわざ学園っていう奴らの懐でやるなんて大胆なことよくやったわね。しかも事前相談無しで。……あのバカ猫野郎。……はあ、こっちに降りかかる迷惑を考えて欲しいんだけどなあ」
無理よね、と白髪の少女、クロエはペットボトルに入った水を口にした。
薄っすらと視界はぼやけ、あらゆる感覚がどこか曖昧だ。
窓から差し込む陽光から今の時間が昼であることが解り、黒板やきっちりと整頓された机などから、ここが学校の教室だと解った。
状況を理解した隆一は無人の教室で一人、ぽつりと呟く。
「また明晰夢か。最近、やけに多いなあ」
初めて“ブルーアイ”を打って以降、明晰夢を見る頻度が増えていた為に出た素朴な感想であった。普段であれば、夢の中を適当にぶらついて目が覚めるのを待つのだが、今回はある人物を探してみようと隆一は考える。
その人物とは前の明晰夢で出会った、クロエとそっくりな容姿と雰囲気を放つ、妖艶な銀髪の女のことである。何故か、探さなければならないという感情と、必ず出会えるだろうという確信が、胸の中で渦巻いていた。
隆一は滝山学園に似た姿の教室から廊下に出る。退室する際、手に掛けた扉は軽く、感触もどことなくふわふわとしていた。
廊下に出ると、細かい所に違和感はあるものの、やはり滝山学園のものに酷似している。
彼女に出会えるとすれば、どこだろうか――――そんなことを考えながら、彼はワックスがけが行き届いた廊下を歩いていく。
しばらくして、教室を挟む左右の階段、隆一自身から見て右側の階段に辿り着いた。
今度は上るか、下るか。そう考えた時、ふと今日起こった出来事を思い出す。豪山と峰山、そして街田とのことである。思い浮かべた瞬間、身体は持ち主から制御を奪い勝手に階段をゆっくりと上っていく。
始めは抵抗したものの、諦めてこの先に何があるかという考えをし始めるまでに、そう時間は掛からなかった。程なくして、屋上へと続く扉の前まで着き、勢いよくその扉を開く。扉はコンクリートの壁にぶつかり、乾いた音を空へ響かせる。
淡い陽光降り注ぐ、広々とした屋上、その中心で、片膝を付きながら何かに祈るような仕草をする銀色の髪を持つ女が、隆一の起こした大きな音に驚き、振り向く。始め彼女は、ひどく驚いた表情を浮かべていたが、視界に入った隆一を見て、色っぽく艶のある柔和な笑顔を隆一に向けた。
顔を真っ赤にしながらも、隆一もはにかみながら女の傍へと歩いていく。
「驚かせてしまってごめん」
「いいのよ。それに、ちゃんと敬語、使わないでくれたもの」
女は悪戯っぽい笑顔を彼に向ける。
帯びる熱を振り払うように頭を横に勢いよく振り、女に向けて問うた。
「何してたんだ?」
「ああ、これはね。私のずっとずっと昔の先祖様が始めた特別なお祈りでね、大切な人の無事を願ったり、大切な人と出会えるように願う時にするものなの」
「大切な人の、無事?」
「そう、私のとても、とても大事な彼。今はどこか遠くへ行ってしまって、帰ってこない……憎くて、だけど、とても愛おしい私の大切な裏切りモノ」
美しく微笑む彼女の柔らかそうな桃色の唇から発せられる拗れた怨嗟の念。
ただ目の前に立って、話を聞いているだけだというのに、心にやけに言葉が染み入り、締め付けられるような痛みを覚えさせられた。
「貴方は、私の大事な人にどこか似ているわ」
とある民家の一室で、じりじりとけたたましい目覚まし時計の音が響き渡る。
「……ううう」
ベッドの布団の中から亡者のように腕が這い出て、騒音の対象を止めようと空を切る。
しばらくして、観念したのか布団の中から腕の持ち主である青年が起き上がった。
青年は亡者の如き鈍重な動きで、今度は視界に映っている騒音の息の根を止め、そのまま制服に着替えると、居間へ向かってふらふらと歩き始める。
頭に血が上っていないのか、視界はどこか霞んでいて、瞼を上げようとしても何度も降りてくる。しかし、身体は長年過ごした我が家の構造を完璧に覚えていたため、視界が不良であっても難なく今まで辿りつくことが出来た。
「おはよう。隆一、珍しく目覚ましで起きたのか」
居間に入った途端、青年の父である滝上隆源が、彼に向けて挨拶をした。対して、青年は呻き声とも挨拶とも取れない奇妙な声によって返事をする。
「先に顔を洗ってきなさ……いや、ここまで口うるさく言う必要もないか。隆一、食事が終わったら話がある。昨日お前が接収した“ブルーアイ”と動画の件だ」
「分かった」
亡者の青年、滝上隆一は一瞬で思考を整え、鋭い眼光を隆源へ向けると身を翻し、顔を洗いに行く。
「……洗うなら先に行っておけばいいのになあ」
隆源の何気ないぼやきが居間に虚しく響いた。
時は経ち、登校の時刻。
空は青く澄み渡っているが、湿った空気で清涼感は皆無である。
「はあ……気が重い」
「兄さん! お弁当忘れてますよ!」
ため息を吐きながら通学路を歩く隆一と、それを走って追いかける椿姫の姿があった。
隆一がため息を吐く理由は、先程まで行われていた隆源との会話が原因である。
その内容というのは、掻い摘んで言えば、更なる証拠を学校で集め、願わくば峰山の協力を得て、豪山及び眼鏡こと三ツ木。ひいては“ブルーアイ”の使用者をAPCOとともに確保せよ、とのことだった。
今回の事件解決の要となるのは、やはり峰山との連携である。しかし、昨日は酷い別れ方をしてしまったため、その関係修復をまず初めに行わなければならない。最悪の場合、街田が障害となる可能性もある。もしかしたら、豪山若しくは三ツ木へ連絡が言っているかもしれない。そうなれば、計画はすでに失敗だ。それらを考えると隆一は気が重くなって仕方がなかったのだ。
「ああ、ありがとう」
「いえ、困ったことがあれば助けるのは家族として当然のことで」
「あれ? 隆一じゃん! おはよう!」
椿姫が澄ました顔で言い終えるまでに、曲がり角からクロエが現れ、隆一に対して笑顔を向けて挨拶をした。
銀色の髪が陽光で輝き、天女のように神秘さを漂わせている。
「おはよう、竜ヶ森。珍しいなここで会うって」
「ふふっ。まあ、そういうこともあるんじゃない。あっ妹さんもおはよう!」
クロエは隆一を壁にするような位置に立っていた椿姫に対して、わざわざ角度を変えて正面に立ち、隆一に向けたものと同様の笑顔で挨拶をした。
それに反して、椿姫の顔は渋い。まるで、苦虫を噛み潰したかのようである。
椿姫はクロエに好感を持っていなかった。いや、更に酷いだろう。最早、遺伝子レベルで相性が悪いのではないかと思っている。本能から目の前の女とは関わるな。そう言われているような気さえしてきた。
正直、今すぐにでも隆一にクロエと縁切りして欲しい所だが、椿姫は生来の生真面目さからそんなことはおくびにも出さず、渋い顔から一転、ぎこちない笑顔を浮かべ、
「おはようございます。今日は、とてもいい日になりそうですね!」
「……ふふっそうだね。今日はいい日になるかもね!」
「…………」
気まずい。女は役者とはよく言ったものだが。わからいでか! 貴様らの仲が悪いことなどとっくの昔に気づいてたわ! 気まずくならないように演技してくれるのは嬉しいんだけど、分かるんだよそういうの! ――――隆一は心の中で悲痛な叫びをあげる。ああ、出来ればこのタイミングで会いたくはなかった、と。しかし、幸か不幸か、この時既に今後の不安などはどこかへ消し飛んでしまった。
地獄の登校は三人の努力の甲斐もあり、つつがなく進行していく。
「ああ……」
「どうしたんだなー?」
語尾を間延びさせている、独特な雰囲気を纏った大柄、という表現より少々太り気味な青年は、隆一のクラスメイトであり、友人の太山浩治。
彼は今、隆一の席の前に座り、机に突っ伏した隆一の顔を覗き込もうとしている最中だ。
その近くにいつもならばいるはずの木島や街田の姿はない。行方不明の木島と違い、街田は別のクラスメイトと話しているだけだが。
昨日のような気迫で迫られるよりは、隆一にとってもありがたかった。
「なあ、ふとやん」
「んー?」
不意に隆一が顔を上げ、太山に対して話しかける。その表情は暗い。どんよりとした雰囲気すら放っているようにさえ見えるほどだ。
見ている者を陰気にさせるオーラを意にも返さず、太山はのんびりとした返事を返す。
彼のマイペースな雰囲気は隆一を含めた周囲の人間たちにありがたいものだった。その上、このような風貌でありながら、記憶力が抜群で、知らないことがあれば太山に聞けと言われるほどである。……勉強とこの学園のことについて、までに限定はされるが。
「風紀委員のさー、あの眼鏡で暗めの……名前は、うーん。そいつのこと知らない?」
「んー。多分三ツ木クンのことだね。確かあA組でー、学年でも上位にいつも名前あるよねー。でも一位を取ってるところは見たことないねー。まあ、この学園頭がいい人多いからなー。特に、啓ちゃんの幼馴染で生徒会長の琴吹さんは特にねー。才色兼備っていうのは、ああいう人のことを言うんだろうねー。ん、ああごめん、話がずれちゃったねー」
太山は謝りながら、懐からマシュマロを取り出し、笑顔で頬張った。
それにつられるように隆一も、缶コーヒーを啜る。
「んー。確かに、三ツ木クンは真面目でちょっと暗めで割と押しに弱い子だけど、ああ見えてかなりプライドが高いから、話し掛けに行くなら慎重にねー。あと、言っておくならそうだなー。気を付けた方がいいってことかな。三ツ木クン最近目に見えて成績が上がったのと同時に、黒い噂を聞くからねー」
「黒い噂?」
「うーん、まだあんまり広まってないし、真相を知らないまま話していい事かは判らないけどー。何でもやばいものを売ってるって噂なんだよねー。三ツ木クンからそれを買ったって言われてる人たちの内の、何人かは学校に来てないって噂だし」
「へーそうなんだ。気をつけとくよ。ありがとう」
「いやいや、どういたしましてー」
平然を装いつつ、隆一は太山に対して礼を言う。
それと同時に、朝のチャイムが鳴った。
「峰山はいるかな?」
それはHRが終わった直後、一〇分間の小休憩中、二年A組にて起きた出来事だった。
学園の経営者の親類である滝上隆一が、まるで人殺しのような、ただならぬ雰囲気を纏いながら教室の扉に手を置き、クラスメイトを探している。
これはただ事ではない。下手なことをすれば最悪、消されるかもしれない――――そんな突拍子もない発想をさせるほどに。……実際の所、隆一は出来る限り作れる範囲での愛想笑いを浮かべていると思っているだが、それが出来ていないのは、峰山との不仲が原因であった。
「滝上くん……場所を変えましょうか」
「うおぉぅっ! 何だ、後ろかよ」
「すごいびっくりするじゃないですか……」
「はああああああ」
隆一たちが離れた二年A組では、盛大なため息による合唱が行われる。
全く、人騒がせなやつだ、と。
教室から少し離れた所にて。
「峰山、昨日のこと豪山先生や三ツ木……啓には話してないよな?」
「言えるわけないじゃないですか……街田くんには特に。それに、豪山先生たちにこんなことを知られたら、最悪、殺される可能性だってあるんです」
「怖い」
「めっちゃ素が出てるじゃないですか。昨日までの深刻な雰囲気はどこいったんですか」
「俺は割り切る時は早いタイプなんだよ」
「はあ、そうなんですか」
峰山は至極どうでも良さげに、いや、むしろ迷惑とでも言わんばかりの顔を隆一に向け、素っ気ない返しをする。
この男は本当に、“ブルーアイ”絡みの事象に対して何かできるのだろうか――――峰山の心に一抹の不安が奔る。薬や豪山たちとの秘密を知られてしまった以上、目の前の男に何とかしてもらわなければ、こちらの命がないのだが。
豪山たちに取り入ることも考えた峰山であったが、その場合にも自身は消されてしまうことだろう。という結論に至った。……その後、保守的な自身に嫌悪し枕を濡らしたのもセットで。
「んん! 今から真面目な話をするぞ。いいな?」
「はい」
返事とともに、空気が一転し、場が静寂と寒気に包まれる。先程まで身体に纏わりついていた生温く、不快な湿った空気は、鳥肌が立ちそうなほどに冷え切った。
息を整えた、隆一が意を決して口を開く。
「俺を、三ツ木若しくは豪山先生に紹介してくれないか?」
「紹介、ですか?」
「ああ、始めはお前らが取引してるとこを確保って考えてたんだけど、流石に危険すぎるってことで、まあ、俺がその役目を引き受けることになったんだよ。俺がやるのが一番安全だからな。多分、これなら安全に事を済ませられるはずだ」
峰山は、隆一の事情や彼の背景は見通せなかったが、その真意は、自身を救いたいと思ってくれている。それだけは、確かに心で感じ取ることが出来た。
だから、私は――――
「どうだ。乗ってくれるか?」
「…………」
隆一が問いかけると、少女は縋るように隆一の服を掴んだ。
彼の言葉を信じたい。私を、信じてもらいたい。それに……私が、私に戻るためにも、私は私と正面から向き合わなくちゃ……滝上くんのように真っ直ぐ――――少女は己の決意を固めた。
そして、総ての感情をぶつけるように祈る。
「よろしくお願いします。私に、やり直す……チャンスを下さい。それで、街田くんに謝りたい。会って話したい、思いを伝えたい。それで、それで……」
昨日と同じくらい、いや、それよりも強い感情が隆一の胸を打つ。
彼女の言葉が、何故隆一の心を響いたのか。それは彼女が、彼女の中にある鬱屈し、ねじ曲がってしまった感情の檻の中で、一つの答えを見つけたからであった。
その思いに応えるためにも、
「ああ、分かってる。お前はまだ決定的な罪を犯してない。だから、きっとやり直せる。それで、啓の所に帰ってほしい。あいつをこれ以上、悲しませないためにも。お前たちが、もう一度、もう一度笑っていられるように、俺が何とかしてみせる」
涙を流しながら見つめてくる峰山に対して、隆一も真剣な瞳で見つめ返し、震える腕を掴み、自身の中にある決意を伝える。
少年少女がもう一度、恋をすることが出来るように、と。
時は確実に進んでいる。
地獄の始まりを告げるチャイムが学校中に響いた。
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