episode4-1 騒動の発端/思い出の母

 回想・午前一〇時三五分。滝山市街にて。

 そう、あれは、久しぶりの休日だったから街で奮発して高い店で昼飯を食べようと、市街に出かけた時の事だった。

 俺がお気に入りのバンドのTシャツとジーパンをはいて歩いていると、

「おい、そこのお前さんや」

「おう、なんだよ、ばあさん」

 如何にもって感じのローブを着た占い師のばあさんが、道の端から俺に話し掛けてきたんだ。

「お前さんの運勢を占ってやろう」

「占い? 悪いなばあさん、生憎、金ならねえぞ。今日はすっごい美味い飯を食うって決めてんだからな。それに俺は、占いってやつを信じない主義なんだ」

 普段からこんなに荒っぽい話し方をしている訳じゃない。腹が減ってたせいで少し気が荒立っていただけだ。

「まあまあ、そうかっかしなさんな。これも何かの縁。今日はタダで占ってやろうじゃないか。言っとくけど、あたしの占いはかなり当たるよ」

「タダか、えらく気前いいじゃねえか」

「むむむ、むむむむ! むむむむむむむむむん!」

 ばあさんは水晶玉に仰々しく手をかざしながら、唸る。

「むむむむむむむむむむむむむ! んんんんんんんんんんんんんんんん!」

「おい、ばあさん。まだ、」

「かああああああああああ!」

 待ちかねた俺が文句を言おうとした時、まるでばあさんが雷に打たれたみたいに大声を上げたんだ。

「見えたよ」

 ぶっきらぼうにばあさんは言う。

「ど……どうだった?」

「あんたの運勢…………」

 ごくり……

 俺は何だか悪い予感がして、背筋を凍らせながら、固唾を呑んでばあさんの言葉を待つ。

 黒いローブを着たばあさんは不敵に笑い、俺を指差して言う。

「あんたの運勢……最悪だよ」

 最悪の予想が当たってしまったのだ。

 今にして思えば、これが俺こと、江崎孝道の最悪の一日の始まりだった。


 俺はその後、放心しながら街をぶらついていた。今後起きる何か悪いことっていうのを想像するあまり、食欲もあまり沸かなかった。

 結局、俺は適当なコンビニでおにぎりを二つ買い、公園のベンチで食べた後、また街をぶらつき始める。

「あーあ、あのばあさんももっと言葉を選んでくれたらなあ……」

 せっかくの休日だというのに、全く最悪だぜ。

 そんなことを思いながらため息をつく。

 あてもなくぼんやりと歩いていたら、いつの間にか俺は人通りの少ない裏通りに入ってしまっていた。

 そして、

「ねえ~? 早くして~」

 狭い路地で、年若い女の艶っぽい吐息交じりの声を聞いてしまったんだ。

 これが俺の災難の始まり。

 ああ、この時引き返していたら……と今では猛烈に後悔している。しかし、その時の俺はくだらないスケベ心によってそれを覗いてしまったんだ。

 陰からひっそりと除いた俺の眼には、想像していたのとは違う光景が映る。

「お金なら~払ったでしょ~……早くしなさいよ」

「まあまあ、そう焦るなって。こっちにだってそれなりの準備ってのは必要なのさ。特に最近は、厄介な奴が現れるようになったんだからな」

「ああもう、分かったわよ~」

 アタッシュケースの中を構っている男と、それを苛立たし気に見ている女。

 あ、やばい。これやばいやつだわ。絶対生命の危機ってやつだわ。

 その女と男の雰囲気と会話から、俺の脳には危険信号が奔った。そりゃもう、ビリビリと。

 そいつらの見た目は俺の妄想通り、派手な見た目の別嬪さんと如何にもアウトローって感じの厳つい男。そりゃもう、ヤの付く人、あるいは、それに近しい類の人たちなんだろうなあって思ったよ。で、何かやばいことをしているのだってビンビンに感じ取ったさ。逃げたいとも思った。

 でもね! 人間には好奇心ってやつがあるわけで。そうした光景を見たいっていう気持ちは誰にだってあってもおかしくないんじゃないか? って俺はそう思うんだ。だから俺は声を大にして言いたい。俺は悪くない、と。

 しばらくして、

「ほら、お望みのもんだ」

「全く、どんだけ待たせんのよ、ったく」

 そう言って男が女に渡したのはペンかそれよりも少し大きな白い棒状の何か。こんな状況で、男が女にただのペンを渡すはずがない。

 俺はじっと息を殺してその様子を観察することに集中した。いや、集中しすぎたと言ってもいい。

「はあ~これこれ。ねえ、ここで打ってもいい?」

「どうせ言っても聞かねえんだろ。勝手にやれよ」

 猫なで声で女は男の隣に立ち、男の胸板でのの字を描く。男はあきれ果てたように女へ了解を出した。

 こんなやばい状況だというのに、俺はその様子に興奮しまくった。

「じゃあ~OKも出た所で~」

 女は歓喜に満ち溢れた様子で、自分の左腕に白い棒を当てる。

 あれはもしかして、注射器なのか?

「んんん~~これこれ! 全身を駆け巡るこの快感! 堪らないわあ」

「あんまり一気に投与すんじゃねえぞ。愉快な死体になりたくなけりゃあな」

「分かってるわよ~。で・も、この力が漲るこの感じ、何でもできそうな、高揚感! 一度味わえばもう止められないのよねえ~」

「へいへい、そうかい」

 男は、熱に浮かされたような女の発言に興味は無いようで、アタッシュケースの中身を片付けているみたいだ。

 しばらくして、

「うっ!」

 女の様子が一変した。

 心臓の辺りを手で押さえて、呻き声をあげる。

 しかし、そんな様子を見ても男は放ったままだった。

 なんて薄情な奴なんだ――――俺はそんなことを思いながら、目の前の光景に恐怖し、その場から視線と身体を動かせずにいたから、結局のところ違いはないのだろうが。

 でも、これから起こることはソレの比じゃないくらいにあり得なかったんだ。

「――――――――――!!」

 女は空気を震わせるような、人からかけ離れた絶叫を上げ、体から蒸気を大量に出した。

 そして、蒸気が消えたとき、そこには女の形をした、黒と黄の縞模様の蜂のような怪物が当然のようにそこにいた。

「んんん!!」

 俺は、悲鳴が出そうになる口を食いしばり、上から手で覆った。それでも内側から空気が漏れ出るほどであった。

 よかった……あの二人には気づかれてない……。

 しかし、あの男女に気づかれていなかっただけだったんだ。俺は、

「そこのおじさん! 何してんの?」

 背後から自分を驚かすような大きさの声で話し掛けてくる、変声期すらきていない少女の声。

 振り返るとそこには俺の胸程にも届かない溌溂とした黒髪の少女が立っていたんだ。それも将来は美人になりそうな感じの!

 なんでこんな人通りが少ない裏通りにこんな子どもがいるんだよ! 俺はそんなことを考えたが、それよりも懸念すべきは遠くの男女のことだ。

 無論、そんな大きな声を出せば、相手が気づかない訳がないだろう。

「誰だ!」

「――――――!」

 やっぱり、気付かれた。

 男の怒号ともとれるような声と、蜂の化物の威嚇するように口元から空気が、こちらへと向けられる。

「やばい! 逃げるぞ!」

「えっおじさん! 何なの! って、ひっ!」

 少女は俺が手を掴んで走りだしたことに戸惑ったようだったが、背後から追ってくる厳つい男、そして蜂のような怪物を見て納得したようで、俺の手につられるまま表通りに向かって走り始めた。

 走っている間、俺の脳裏では、ある一つの仮説を立てられた。

 あの注射器は、最近ネットで話題になっている、“ブルーアイ”ってやつ。

 それは、ネットではとある噂で賑わっている。“ブルーアイ”とテレビに出た化け物には関係があるのだと。

 そして、最悪なことに、俺は今その化物騒動の真っ只中にいるってことだ。

「ああもう、何でこんなことになるんだよおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 今日は本当に最悪の一日だ。



 光に照らされ、美しく輝く湖のほとりに佇む一軒の小奇麗な小屋。その扉の前に、同じく陽射しを浴びて、風にたなびく白銀の髪を持つ、白い装束を身に纏った、艶やかな雰囲気の少女が立っていた。

 少女の顔はどこか陰りを帯びていながらも、それでいて期待を持つような輝きを瞳に宿らせていた。

「……」

 深く息を吸って、胸の動悸を抑えると、心なしか重くなる手で扉を三度ノックする。

「……お母様。私です、クローリアです。中に入りますよ」

 中から返事は返ってこない。

 白銀の少女、クローリアは軋む扉を引きながら、埃くさい部屋の中に入る。

 床には埃が溜まり、天井の隅から隅へは蜘蛛の巣が張られ、お世辞にも清潔と呼べるような環境ではなかった。加えて、窓はカーテンによって外から差し込む光を遮っており、ほんの僅かの隙間から入る一縷の光が、細々と部屋の一部を照らすのみである。

 そして、その微細な闇の隙間から虚ろな目で外を覗く部屋の主、クローリアと同じように白銀の髪を足元まで伸ばした、一軒少女と姉妹にも見えるような美しい女性がひっそりと佇んでいた。

「お母様。お久しぶりですね。このお花奇麗でしょう? アルストロメリアって言うんですって……お花、活けておきますね」

 少女は、先程から何も言葉を、いや、意識すら向けていない母に向かって、精一杯明るく話し掛けつつ、机に置いた花瓶から、朽ちた花を取り除き、水を入れ替えて、桃色の色鮮やかな花を新しく活ける。

 花瓶の周囲は床と同じように埃を被っており、一度も動かした形跡がない。

 クローリアは机の埃を人差し指で撫で、自身の指に付着した灰色の残骸を見つめる。

 一体どこで間違ってしまったのだろうか――――少女はふと、今となっては最早どうしようもないことを考える。

 父が死に、母は心を病み、自分は父を殺した種族とともに生活している。

 少女は、種族全体が憎いという訳ではない。だが、父を殺したモノの子がのうのうと笑顔で暮らしているのではないかと考えると気が狂いそうになる。それは、子どもがするにはあまりに醜く、低俗で、身勝手な嫉妬であることは、少女も無論解っている。

 だが、少女の内に渦巻く、憎悪にも似た激しい怒りが、彼女が本来持つ優しさや倫理観を錆のように、細菌のように侵蝕しているのだ。

 そんな状況でも、少女には揺るぎない二つの淡い希望が灯っていた。

 遠い昔の、家族がまだ欠けていない頃の、もう戻れない幸せな記憶。三人ですぐそこの湖で遊んだ頃の……。

 そして、

「お母様。……私、気になる男の子が出来たんです。普段は頼りない時もあるのですけど、とっても優しくて、いつも誰かのために、そして自分のために頑張っている……そんな人なんです。時折、彼に微笑むと、女性慣れしていないのか、耳まで真っ赤にしてしまって!」

 その男について話すときのクローリアは花のように可憐な笑みを浮かべ、暗く澱んだ部屋の空気を吹き飛ばすほどに楽しげであった。

 しかし、少女の話し声は虚しくも埃塗れ壁に吸い込まれ、残ったのは風とわずかな呼吸音だけであった。

「……本当に、彼といると心が心が落ち着く……お父様が話していた時のように安らぐんです。あの頃のように……幸せで、楽しくて……幸せ、で、楽しくって……」

 クローリアは続きを言うことが出来なかった。あらゆる感情とそれに起因する嗚咽が、彼女の言葉をせき止めてまで、体の奥底から這い出てくる。

 しまいには少女の視界は曇り、頬を伝う一滴の宝石が薄汚れた床に垂れ落ちる。

 汚れることも厭わずに、少女は両手で顔を覆いながら、床に両膝を付いて泣き始めた。

 すると、

「……え?」

 少女の身体を温かさが覆う。

 とても懐かしい、温かな記憶が甦る。

「……私の可愛いクロエ……」

 よく自分が転んで泣いていた時によくしてくれた。

 ああ、これは――――

「何か、悲しいことが……あったのね? でも、大丈夫。私がいつも……いつも貴女の傍にいますからね? 今は安心して、泣きなさい。気の済むまで。私は貴女のお母さん、恥ずかしがることはないのよ?」

 そう言って一人の母は、娘を抱きしめてその背中を優しく摩る。

 あの時の……――――

「おかあ……さん……!」

 少女は母を抱きしめ返し、大声を上げて泣いた。

 たとえこれが、一時の幻だったとしても――――

 この幸せは、確かに存在しているから――――

 だから、今、この時だけは――――

「お母さん! ……お母さん! あたし、っあたし!」

「……はい、何ですか?」

 この幸せを噛み締めていたい。


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