episode3-last 裏切りモノの願い/大切な者との約束
鷲の異形が引き起こした事件から数日が経ち、街には平穏が戻っていた。
「いやあ、それにしても……こうも報道が早いとはなあ……」
滝上重工の本社ビルの一室に置かれた、APCOの捜査第一班のデスクルームで一人、テレビを見ながらぽつりと呟く中年の男がいた。
今この部屋にいる人間で一番上の役職にいる男でもある、東藤泰幸班長その人であった。
東藤は急須から入れた番茶を啜りながら、テレビ画面から視線を離せないでいる。無論、サボタージュしているわけではなかった。
職務に今後影響するであろう内容であったから、他の部下も黙認しているのだ。といっても、今は昼休みの時間であるがために、各々自身の英気を養っている最中であるからでもあるが。
東藤が視線を釘付けにしているテレビの内容。それは、
『……えー、先程も言いましたように、これは国民の皆様に無用な混乱を避けるべく行っていた……言わば、やむを得ない極めて超法規的な措置であり、今まで一定の報道規制を行っていたことに関しましても、決して国民の皆様を……』
テレビに映る、高そうなグレーのスーツ着た高年の男性。どこか俳優然とした雰囲気を醸し出すその男は、この国の現在の内閣総理大臣を務める男であった。
東藤は政治にはそれほどの熱意を、ましてや、会見の中継を一心不乱に見るような熱心さは持ち合わせていない。だが、その内容が、昨日起きた騒動により、たちまちその存在が世に知れ渡ることになった街を破壊する化物とそれを阻止しようとする藍色のロボット、それを助けた武装集団、そして白い化物についてであるからには、政治に関心の薄い東藤であっても見ない訳にはいかないと思わせるナニカがあったのだ。
と言っても、APCOは子ども番組に出てくるような秘密組織ではない。
探せばホームページや公式のSNSアカウントなどは作られたのは最近ではあるがきちんと存在している。
総理は堂々とした様子で報道陣の質問の雨あられにひとつひとつ応えていく。質問の内容自体は、会見の内容に関するものもあれば、内閣やAPCOの存在に対する懐疑心を見せるような質問もあった。
しばらくして、映像が美麗なニュースキャスターの姿に移り替わり、主に政治関連の専門家による解説が始まったところで、東藤はテレビの電源を消した。
一応、世論はAPCOの存在を肯定するという方針ではあるようだった。化物と戦う正義のヒーローという触れ込みのもと、ニュースやSNSで大量の戦闘の様子が動画で垂れ流されたことが功を奏した。と東藤は見ている。
特に、白い化物、隆一が少なくとも敵と認識されていなかったことに、東藤を始めとした隆一と親交を持つ人らはほっと胸を撫でおろした。
「東藤さん!」
「おう、どうした?」
東藤の部下である高水が、ドアノブに手を掛けつつ廊下側から東藤に声を掛けてくる。
「例の話のセッティング、終わりました」
「おう、そうか」
その言葉とともに、室内にいた人物たちが休憩を止め、廊下へと出ていく。東藤もそれに続いてデスクルームから出て、会議室の方へと歩いて行った。
しばらく、こげ茶色のシックでオシャレな印象を与えるカーペット床を歩いていくと、黒色のドアが見えてきた。
東藤はその扉を引いて中に入る。
質素で落ち着いた印象を与える白色の壁に、黒いカーペット、一見シンプルな部屋に見えるが、至る所に情報機器と繋げられる端子が備え付けられている。
その中にはスーツを着たAPCOの職員を呼び役員。壁を背に、自動小銃を携行する六人の隊員。
そして、その視線の先には、白いシャツに茶色のベストという地味な色で合わせた高年の男性が一人。顔立ちは日本人のようにも、異国の人間にも見える整った顔貌。背筋を伸ばし、椅子に座っている。
一見、どこにでもいそうな老人に見えるが、
「皆さん、お集り頂き、ありがとうございます」
男がゆっくりと立ち上がり、礼をする。歳のわりに背筋がピンと伸び、表情もどこか凛としていて、覇気がある。
東藤は自身の名前が入ったプレートの置かれた席に座った。
会議室に集められた者たちの空気はピリピリとしており、警戒心を老人に向けている。同時に恐怖心も。
そんな感情を一身に浴びながらも、老人は毅然とした表情で前に立っている。
「私の名は、柳沼賢三……というのは仮初の名前です。本当の名前は……」
柳沼賢三。またの名を【聖賢】の話が始まった。
とある暗がりで、四つの青白く光る人型と、全身を黒で包んだ一人の長身の男が対面していた。
「で、【轟焔】、君は裏切り者の始末も失敗し、果ては邪魔したモノの排除も出来なかった……と。そういうことでいいのかなぁ?」
『……』
青白く輝き、透き通る身体になった【轟焔】は下を見つめたまま黙り込んでいる。
その姿を見て、にやにやと歪んだ笑みを浮かべた【水龍】が言葉を紡ぐ。
『ほほう……この世であ・く・ま・で暫定的にだが、最高峰の武術と焔を持つ貴様が……のう……かっかっかっ! 全く愉快愉快。普段あれほど大層な口を叩いておるくせに……はっはっはっ!』
大声をあげて笑う【水龍】。
対照的に、他の者たちはくすりとも笑わず、各々違う方向を向いて物思いに耽っているようだった。
その様子を見かねてか、【幻相】が咳払いをして話し始める。
「んんっ! まあまあ、僕たちは同じ六柱の仲間じゃないか。確かに【轟焔】のミスについては処分を考えるところだろうが……たとえ我々と言えども結局のところは生き物だ。間違うことだってあるさ。だから、今回の所は、不問としようじゃあないか。ねえ?」
そういう【幻相】の言葉に反応を示すものはおらず、無言を貫き通すものばかりであった。渦中の【轟焔】でさえも。
「はあ、全く……君たちときたら、まあ【疾風】は仕方ないねえ……」
その様子に、【幻相】は困ったように目頭をつまみ、しばしの間黙る。そして、思考を切り替えたかのように、笑みを浮かべて再び話始めた。
「【轟焔】、君ともあろうものが、“混ざりもの”相手に簡単に後れを取るはずがぁないだろう? 恐らく! 何か理由があるはずだ。そうだよねえ?」
『……』
【轟焔】は押し黙り、口を開こうとしない。
【幻相】の笑みは崩れない。そして、質問も終わらない。相手が話すまでいつまでも待ち続ける。そういう態度だった。
黒いハットの下から覗く、【幻相】の青い二つの輝きが【轟焔】をじっと見つめる。
滝上重工本社ビル・屋上庭園にて。
滝山市が一望できる見晴らしのいい、屋上に隆一は一人で座っていた。
色とりどりの花が咲き誇る花壇の前に設置されたベンチで、背中を曲げ、傍らにカップコーヒーを置き、左手でもう一つのコーヒーに舌鼓をうっている。
「いやあ、休みの日だというのに呼び出してすまなかったねえ」
右側から声が掛かり、隆一は視線を花壇から離し、見上げる。
そこにはハンチング帽子を被り、柔和な笑顔を浮かべる柳沼の姿があった。柳沼は隆一に視線で隣に座ることの承諾を得て、湯気を上げるカップを除けて座った。
「あ、そのコーヒーどうぞ。お口に合うかは分かりませんけど」
「ああ、これはすまない。いや、ありがとう。コーヒーか、いい香りだねえ……妻が入れてくれた時のことを思い出すよ。もう、何十年前にもなるだろうか……」
ひざ元に置いた黒い液体をじっと見つめている。
街の喧騒が風に運ばれてくる。静まり返った二人の周囲には、それらが良く響いた。
「すまないねえ、折角の休日だというのに、呼び出したりなんかして」
静寂を破ったのは、柳沼であった。
「いえ、大丈夫ですよ。柳沼さんとは、ゆっくり話したかったですし……」
「そうか……君にはとても世話になった。命まで救ってもらって……だから、直接お礼が言いたかったんだよ……」
感慨深げに、柳沼は言う。
「いえ、僕が勝手にやったことですし……それに……」
「…………」
言葉に詰まり、黙りこむ隆一。その視線は遠く、海の地平線を見つめていた。
柳沼は何も言わず、その言葉の続きを待つ。
「あの日にも言ったと思うんですけど、友だちとの約束でもありますから」
「約束かあ……良かったら聞かせてもらえないかな」
隆一の表情は悲しげであったが、それと同時にどこか穏やかだった。
その顔に、柳沼は見覚えがあった。
大切な何かを亡くし、それを乗り越えた者の眼。それを持つ者たちを柳沼は何度も目にしてきた。
風が吹き、花がたなびく。
隆一は髪が乱れることも気にせず、遠くを見続ける。
「まあ、一方的っていうか……俺、じゃなくて、僕の心の中で決めたこと……何ですけど。ああ、なんかこれ前にも言ったような気がしますね……」
「……」
無言で言葉の続きを促す柳沼。
隆一はぽつり、ぽつりと話し始めた。
「そいつ浅見浩介っていう名前で、僕よりも年下の奴で……まあ、色々あったらしいんですけど、そいつシーカー……じゃなくて、幻獣って言った方が良いのかな……まあ、人間から化け物に変わってたんですよ。で、まあ、それで、僕が…………殺したんですよね」
海をぼんやりと見つめる青年の顔は、自嘲するようでもあり、どこか吹っ切れたようでもあった。
柳沼はやはり何も言わず、言葉の続きを待つ。
「浩介は、優しい顔で、幸せそうな顔で俺に、ありがとうって……そう、言うんです。確かに、人を殺したあいつを止めたことは、正しいことだった。そう、思うんですけど。でも、俺ずっとそれが引っ掛かってて……」
噛み潰すような口調であった。感情の昂りから一人称も普段のそれに戻り、青年の空いた手の爪が、青年の太ももに深く食い込む。
柳沼は何も言わず、空に視線を移しながら聴衆を続ける。
「その後、ここで働いてる東藤さんと高水さんって人たちに飲みに誘ってもらって……愚痴を聞いてもらったんです。……それで、自分で勝手に浩介に約束をして……納得した。そう思ってたんですけど……やっぱなんかもやもやしてて……今に至るわけです」
隆一は乾いた笑い声を上げながら、ひきつった笑みのようなものを浮かべる。
柳沼は“そうか”と言って、一目、隆一の顔を見やると、再び太陽の輝きに目を細めた。
それにつられ、隆一も真似をする。太陽の輝きは予想以上に強く、一瞬目をつぶり、右手で影を作って徐々に瞼を開けていく。
空は爛々とその鮮やかさを映し出し、雲たちはゆったりと空に浮かび、流れる。太陽はその恵みを惜しげもなく降り注いでいた。
鳥たちは、地上のあらゆるものから解き放たれ、大空を悠々自適に飛び回る。
しばらく、空を眺めていると、柳沼はすうっと息を吸い、息を吐くように話し始めた。
「辛いことを話してくれてありがとう。……まだ、気持ちの整理もつかないことだろう……だが、君に頑張れ……などと安易なことを言う気はない。もっと悩み、考え抜きなさい。……それはきっと、君が、君自身で折り合いをつけなければならないことだからだ。……他人に何かをとやかく言われて、自分で考えた事のように思ってはいけないこと……君に託された思いには、君が応えるべきなんだ。……少なくとも、私はそう思う」
「自分で……折り合いをつける」
隆一は、頭の中で考えたことがそのまま口に出たようだった。
そう言って、老人はコーヒーを呷る。その顔はコーヒーの味を噛み締めるかのように綻んでいた。
「ああすまない、君に話させてばかりではいけないね」
気持ちを切り替えるかのように、柳沼は朗らかな笑みを浮かべ、ふっと息を吐く。
「さっきも、下の階でAPCOの方々にこの話を少し話したんだがね。君は今後も、彼ら……【幻祖六柱】と幾度となく衝突することになるだろう……他にも、君には聞いて欲しいことがある、友人としてね」
そう言って、柳沼は空を見上げ、コーヒーを口にする。
隆一もそれに続くように、嵩が容器の半分ほどに減ったカップを口元に持っていき、中の黒い液体を流し込んだ。口いっぱいに、コーヒーが持つ独特の香りと苦みが広がる。
瑞々しく咲く花を見つめながら、柳沼は話し始めた。
「そうだなあ、どこから話そうか……いや、君には初めから話そう。今の私にとって数少ない友人だからね。まず、私が君たちの言う“幻獣”であるということは知っているよね?」
「はい」
「……あれは、私が“王”に命じられて、この世界に侵攻した時の事だった。……当時の私は色々あってね、命じられるがままに戦うということに疑問を抱いていた。無論、元々私は戦うことに関して否定的であったとは思うがね」
柳沼は笑顔のままだったが、どこか哀愁が漂うものであった。そしてまた、コーヒーに口をつけ、数瞬の間黒い液体を堪能すると、再び話し始める。
「私の故郷である、幻の世『ミラジオ・ユスフェリエ』から、この世界に来た私は、ある女性と出会った。後に、妻となる女性にね。……そして、人間と本当に戦う必要があるのか、この戦いは正しいモノなのか、それを見極めるために人間に化け、私は度々彼女と逢うようになった」
人ならざる老紳士は、遠き空の彼方を見やり、自らの遠い過去に思いを馳せる。
やはり、その顔はどこか寂し気で、ぽっかりと心に穴が開いているという表現が似合う。
隆一はコーヒーの苦みを味わいながら、以前の自分なら作り話だと笑うような話を噛み締めていた。
「彼女は知的で、機微に聡い、とても素晴らしい女性だった。……異邦人の私に、彼女や彼女の周囲の人たちは私に暖かく接し、そして、受け入れてくれた。……そんな彼女たちに、いや、人間という種に、私はどんどん惹かれていった。……やがて、私と彼女は添い遂げ、家族を創った。子どもにも恵まれ、とても幸せな時を過ごしたよ……もう随分と昔のことになるがね」
そう話す柳沼の頬は緩み、声色も心なしか明るい。
隆一は本当に幸せだったのだろうと感じた。
「でも」
柳沼の顔が暗いものへと染まっていく。
「当然、それは“王”の命令に反するものだった。我々、【幻祖六柱】は“王”を支える柱であり、守る剣でもある。その一柱である私に、裏切りなど許されるはずもない。掟によって裏切り者は殺されることが決まっているんだ。まあ、“王”が下剋上でもされればその限りではないがね……。私がつい最近までこうして平和に暮らしてこられたのも、その“王”が下剋上されたからなのさ」
【幻相】のような男と一緒にするな――――
意外と敵も一枚岩ってわけじゃあないんだな――――隆一は柳沼と【轟焔】が言っていたことから、そんな感想を抱く。
「その下剋上した奴が私の友人。【雷龍・ヴァルジール】なのさ」
【ヴァルジール】、その名に隆一は聞き覚えがあった。この前の【轟焔】との戦闘中に呼んでいた名前である。
その時の【轟焔】の様子から、碌な人物ではないだろうと隆一は感じた。
「彼は昔、もう一匹の相方の龍と共に世界を駆け巡る、ミラジオ・ユスフェリエの番長……とでもいうのかなそんな奴だった。だが、そんな彼が友である“王”の命令で、ある森に行った時、そこである女性と彼は出会ったのさ」
「それって……」
竜がある女性と出会い、王に反旗を翻す。
それは柳沼がやっていた、あの紙芝居と同じではないか。
「ああ、そうだ。あの紙芝居は【ヴァルジール】の話をベースに、少し私の話を混ぜたお話なのさ……。その場には私は居なかったから詳しいことは分からないが、まあ……色々あったみたいだよ。彼が人間の女と、と言っても人間よりも遥かに高位の存在なんだが……。宮殿は、その女と【ヴァル】が恋に落ちたという話で持ち切りになったものさ。まあ、【ヴァル】の相方は随分と怒っていたがね」
愉快そうに笑いながら、柳沼はコーヒーを口に運んだ。
隆一には笑いごとで済むのかと、眼前の男の度量に驚愕する。
「それが、私がこの世界に来る少し前にあった出来事さ。後は、紙芝居で話した通り。その事の顛末は【ヴァル】が下刻上をした後、隠れてミラジオに帰った時に聞いたんだ。あの堅物が女に絆され、あまつさえ“王”に牙をむくなんて、誰も想像しなかっただろうねえ……。私も聞いたときはひどく驚いたものだよ。……そういう訳で、この世界に来て一〇〇余年もの間、私が平穏な暮らしを送ることが出来たのは【ヴァル】のお陰なんだよ。……まあ、彼にそんな意図があったかどうかは分からないけどね」
口の端から笑いを噴き出す柳沼。
隆一は、改めて柳沼が別世界の人間であるということを感じざるを得なかった。
言葉の端々から感じ取れる、この世とは隔絶したモノ。
自身もまた、その現実とは隔絶したモノたちに近い存在であるということも。
「でも、柳沼さん……聞いても、いいですか?」
「ん、どうしたんだい?」
隆一は重い口を上げる。
聞いてはいけないことかもしれないと思ったが、聞かずにはいられなかった。
「聞く限りでは、【ヴァルジール】ってヒトは貴方を裏切り者だとは思っていなかったように聞こえました。でも、あの【轟焔】って人は貴方を裏切り者だと言っていた。何故今まで見逃されてきたのに、つい先日襲われたんです?」
“それは”柳沼は再び渋い顔になり、コーヒーを飲み終わると、ベンチに置く。
やってしまった――――隆一は内心で地雷を踏んでしまったことを後悔した。
「それは数年前、【ヴァルジール】が殺されたからだよ」
自身にとって辛い出来事であろうことを、柳沼は淡々と口にする。
一瞬思考が停止し、後からその事実を認識した。
誰に? ――――あの【轟焔】に認められるほどだ。かなりの手練れであったことは戦いを始めて間もない隆一でも簡単に予想がつく。
「この世界の人間にね。…………それも、友好を結びに行った時の出来事らしい」
この世界の人間に――――隆一は愕然とした。そして、最悪の想像が脳裏をよぎる。
じゃあ、今まで起きた凄惨な事件の数々は――――
「ああ多分、君が想像している通りの事だと、私も思う。恐らく【幻祖六柱】は【ヴァルジール】の弔い合戦のつもりで、最近巷で起きている事件を引き起こしたのだと思う。……それも、かなりの時間を掛けてね」
「……」
隆一は声を発することが出来なかった。彼にとって、その言葉は彼から呼吸を奪うことすら容易かった。
柳沼の内心では人間への憎悪が渦巻いているのではないか、鋭い目つきになった柳沼を見て、隆一はそう考えた。
「だけどね。私は人間を信じたいとも思っている。だから、私はこの組織の庇護下に入ることを決意した。この世界の人間が【ヴァルジール】を本当に殺したのか、私が愛した人間は今でもいるのか……それを見極めるためにね」
「そう、何ですか……」
“それにね”柳沼はそう言って隆一の眼をじっと見つめた。
隆一は内心で何を言われるか、気が気でなく、心臓がいつもよりも早く鼓動する。
「私には家族がいると言っただろう?」
柳沼はいつの間にか柔和な笑みを浮かべていた。
「か、家族、ですか?」
「ああ、家族だ。私には三人の子どもがいてね。今はもう死んでしまったが、その子孫は今でもこの街に住んでいるんだ。君と同じくらいの歳の男の子もいるよ。……私は、紙芝居をやる傍ら、私と彼女の子孫を見守ってきた……それは今後も続けていきたい。……私と彼女との約束、だからね」
それは、柳沼の持つ、敵の幹部のモノとは、また違う別の貌。子を見守る親のそれであった。
隆一は眼前の男の言葉に嘘偽りはないと直感する。
どこにでもいる、一人の男の純粋な願い。
分からないはずがなかった――――
「ところで」
「はい?」
「この前のデート、どうだった?」
「……それは……聞かないで、ください」
戻った時には、クロエとのデートという雰囲気ではなくなっていた。
クロエはデートを続けてもいい、などと豪胆なことを言っていたが、隆一がそれをよしとしなかった。彼女を家まで送って、それで終わりであった。
家まで送った時のクロエの微笑みを、隆一は今でも忘れることが出来ない。
そして、次のデートを取り付けることが出来たことも。
それに――――
「ん?」
突然、隆一のポケットが振動する。隆一は中から着信の入った携帯を取り出す。
着信は妹の椿姫からであった。
隆一は柳沼に会釈によって了解を得ると、電話に出る。
「……も、しもし?」
『……兄さん。……買い物に付き合って欲しいと言ってきたのは、兄さんの方だと記憶しているのですが? ……そこの所、如何思います?』
電話の主はとても機嫌が悪かった。椿姫は怒るときは静かに怒るタイプである。
背中から嫌な汗をかき始めた隆一は右腕に巻いた腕時計を見る。
時刻は既に午後二時半を過ぎていた。約束とは、今度のデートで着る服を選んで欲しいというものである。
「ああ! ごめんごめん! すぐ行く」
背中を冷や汗でじっとりと濡らしながら、隆一はしどろもどろに取り繕う。
当然、そんな言葉が通用するはずもなく、
『……正門の前で待ってます。なるべく早く! ……来てくださいね?』
椿姫は兄の遅刻癖を知っている。早くの語気を強めにしたのもそれを見越しての事であった。そして、兄の返答を待つことなく、通話は切られた。
「あはは、はあい……」
隆一は耳元でなるビジートーンに対して、乾いた返答を返す。
「随分と愉快な妹さんをお持ちのようだね」
柳沼は先程までの比ではない含み笑いをしつつ言う。
そんな柳沼に苦笑いを浮かべながら、
「じゃあ、柳沼さん。また今度」
「ああ、また今度」
苦笑いを浮かべながら青年は走り出す。不機嫌そうに顔を赤くして口をへの字に曲げているであろう妹の所へと。
朗らかな笑みを浮かべながら、老人は留まる。思い人と我が子、その血縁が見渡せるこの場所に。
これは約束の物語。ヒトはそれを果たすために、進んでいく。
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