Episode3 別世界からの逃亡者/少女の思い出

episode3 心逸の朝

 青く透き通ったどこまでも広がる雄大な空。どこまでも青く茂る豊かな自然。その空を巨大な黒い影が覆い隠している。

 それは太古からこの世、ミラジオ・ユスフェリエを統べる龍、その内の一体であった。

 漆黒の体躯を持つ巨大な龍は、至大な翼を羽ばたかせ、尊大に自身の存在感を周囲に振りまき、目にするものに畏怖の念を与えた。

 黒き龍は無意に己の存在を振りまくために飛んでいる訳ではない。

 主君であり、友である王からの命を受け、裏切り者の人間の男を殺すために、飛んでいる。

 だが龍にはその男に対して、殺したいとか、憎いとか、そういった負の感情がある訳ではない。

 ただ、男を殺せと友に頼まれたから殺しに行くだけ。そういったことがこれまでにも幾度となくあった。初めは龍も戸惑った、食事として生き物を殺すことはあったが、それは自身に最低限必要な数に留めていたからだ。だが、戸惑いは四回目を過ぎてからはなくなり、一〇回を境に殺した人数を数えることもやめてしまった。

 今度の相手は骨が折れそうだ――――龍はまるで他人事のように心で呟く。

 向かうは男の統べる国がある、霊妙の森。

 闇より深い真っ黒な羽翼を大きくはためかせ、風を切る。

 これは……の…………呼ばれた……呼ば、れ……。



 太陽の爽やかな日差しと小鳥の鳴き声、そして、頭上でじりじりと鳴り響くけたたましい音で、滝上隆一は目を覚ました。

 寝起き特有の頭に血が上った状態のせいで、思ったように思考が働かない。霞む視線を動かして、騒音の元凶を探す。

 恐らく今日は日曜日。今は何時だ。日曜日には約束があったはずだ。大切な約束が……。

 隆一は微振動する目覚まし時計を取ることに、やっとの思いで成功する。そして、思うように開かない瞼を無理やり開けて現在の時間を見た。

 現在時刻、九時四六分。

 九時四六分? ――――隆一は竜ヶ森クロエとの約束の時間を想起する。時刻は隆一の記憶が確かならば一〇時三〇分のはずだ。やばい。隆一の脳内を危険信号のアラームが覆いつくす。

 青年はベッドの布団を勢いよく跳ね除け、服を脱ぎ出す。

 いや、その前に顔を洗うべきか? いや、そんなことは着替えた後でも構わない。髪をセットする前にやれば良いだろう。……そんな時間が残されているのか? いや、こんなことを考えている時間さえ惜しい。先ずは目の前にある服に着替えなければ。

 幸い隆一は、あらかじめ昨日の夜に今日着ていく服を用意していた。これは朝に迷うことを避けての事だった。だが、その服選びに手間を取りすぎた。結局眠りについたのは日を跨いで時計の長針が右を向いてからであった。

「ああもう! なんでこんな時間!」

 ジーンズにベルトを通しながら、思ったことをそのまま口にする。そのことに特に意味はない。ただ、噴出する焦りの感情が他の様々な感情とともに口から漏れ出ているだけのことである。

 いや、そもそも何故こんなぎりぎりに目覚ましが鳴っていたのか。昨日はしっかりと朝の七時にはセットをしていたというのに。ああ全く、こんなことを考えていても仕方がないというのに! 走れ、急げ、滝上隆一!

 動作が速くなるわけでもないのに、自分自身へ言い聞かせる隆一。だが、何とか服を着替えることは終わった。あとはこの、ありとあらゆるはねを具現化した髪の毛を何とか直さなければならないのだ。

 隆一は急いで洗面所へと走る。

 質素だが立派で広々とした造りの日本家屋に大きな騒音が立った。

「はあ、はあ、はあ」

 朝から何故こんなに息を上げているを上げているのだろう――――隆一は己の責任だとは思いつつもそう思わずにはいられなかった。……いわゆる、現実逃避というやつである。

 脱衣所と併設されている洗面所に到着した。そして勢いよく洗面所の扉をスライドさせ、飛び込むように中に入る。

「あ、兄さん、おはようございます。っ!」

 入浴後でも、着替え中でもない、服を着た妹、椿姫が洗面所の鏡の前で顔を拭いていた。そして、隆一の顔を、正確には隆一の髪を見て、噴いた。

 だが、そんなことにリアクションを取ることすら今の隆一にとっては惜しかった。

 隆一は何時にない深刻な表情で言う。

「椿姫すまない。どいてもらえないだろうか」

 普段の兄の口調ではない。一体誰だこのヘンテコ頭は――――椿姫はそう思いつつもその人物の有無を言わせない気迫に気圧され、ジト目を向けつつ脇に避ける。その視線の先にはまるでハリネズミのような、あらゆる方向に向いた髪がある。

 こんな髪を思わず笑わずにいられるだろうか。上司の荒城の薄くなった髪の毛がまるで雀の巣のような状態で乱れていた時は、その無残な様子に逆に声を失ってしまったものだが、この兄の髪の毛ならば笑っても特に問題はないだろう。あくまで内心でのみ、だが。

「うおおおおおおおおおお!」

 急いで髪の毛を整える隆一。はねを湿らせ、押さえつけ、伸ばす。

 全くこんなことをしている場合じゃないのに! ――――青年は焦る気持ちもほどほどに手を動かす。今日は、今日だけは絶対に遅れるわけにはいかないのだ。だが、遅れなければいいという訳でもない。あくまで、最低限の良い見た目を維持してこそ、初めて合格なのだ。

「ああああああああああああああ!!」

 ワックスを手のひらに伸ばし、髪につけ、形を整える。

 ああああああああああ! 決まらない! ――――青年は思ったようなポジションが決まらない今の髪型に嘆き、叫ぶ。こんな髪で会いに行けるのか? いや、遅刻する男も最悪だ。一体どうすればいいのだ。そんなことを口に出しているとは露程にも思っていない青年であった。

「……」

 そんな自身を冷ややかな目線で見ている妹の視線にも。

 なんでこんな風に成長してしまったの? お兄ちゃん――――遠き日の、向こう見ずながらも頼りがいのあるかっこいい兄の面影を思い起こし、ぽつりと少女は呟く。

「やばいよ! やばいよ!」

 飛び跳ねるように洗面所から出て玄関へと走る。

 そして取り残された椿姫は一人、

「……はあ」

 ため息を吐いた。

 


「今日もいい天気ねぇ」

「……そうだな」

 晴れ晴れとした青空の下、滝上美冬は夫の隆源とともに庭の庭園にある花の手入れをしていた。といっても、隆源は間近でその手入れの風景を眺めているだけなのだが。

 美冬にとって家で開く生け花教室と、夫を傍に置いての庭の花の手入れは日課であり、生き甲斐である。流石に庭木の剪定などは業者に頼むものの、花の手入れは断固として他人に譲らない。美冬にとって庭の花壇は聖域であった。

 人に触らせないだけあって花の手入れはしっかりと行き届かせており、花の一本一本が活力に溢れた瑞々しい花を咲かせている。

 今日もいい日ねぇ――――美冬は静寂の中にある、日々のささやかで小さな幸せを享受していた。どうかこんな日が何時までも続きますように、と。

 だがそんなものは、ものの数秒たらずで打ち砕かれる。

「ああああああああああああああああああああああああ!!!」

 大声をあげて玄関を飛び出してくる人影、寡黙な隆源の風貌を受け継ぎながらも、その寡黙さは全くと言っていいほど見受けられない青年、隆一であった。いや、普段はここまでうるさくはないのだが。

「どうしたんだ? 隆一、そんなに慌てて」

 歩く騒音と化した隆一に全く動じることなく、隆源は何故騒ぎ立てているのか理由を訊ねる。その動じなさは普段の鍛錬の賜物か、或いは元来の天然によるものなのか。それは妻である美冬にとっても謎である。

 隆一は二人の目の前で足踏みをしながら答える。

「え、あ、あの、あれだよ! デー、友だちとの約束に遅れそうなんだよ!」

「そうか」

 引き留めたわりに、隆源の反応は淡泊なものであった。その反応に隆一は少し苛立ちを覚えながらも再び走り始める。

 そうか、昨日そわそわしていたのはそういう――――美冬は昨日の隆一の様子を思い浮かべていた。確かに妙にそわそわしながら携帯を構っていたことを思い出す。その時は金曜日の朝の気丈な振る舞いから普段の息子に回復したことが喜ばしく、何も疑問に感じることはなかったのだが、今の隆一の反応と月曜日の様子から、ああ、なるほどと合点がいった。

 隆一は今から“あの気になる子”とのデートなのね――――美冬は息子が色気づいたことに喜びを感じていた。中学という色を知り始める年頃になっても、隆一は男の友だちと何々を話した! などと嬉しそうに言うばかりで、その会話には、全くと言っていいほど女のおの字すらでたことがなかったからである。一時期は男が好きなのかと息子の性嗜好について理解してあげるべきなのか、それを自分は受け入れられるかなどと真面目に考えたこともあったが、それは要らぬ心配に終わったようで、美冬はほっと胸をなでおろした。

 隆一からすれば、余計なお世話極まりないのだが。

「隆一? 忘れ物はないかしら? 忘れ物をして恥ずかしい思いはしないように今確認しなさい」

「えっと、携帯と財布、取り敢えずこれで!」

 美冬の言葉に隆一は一旦落ち着きを取り戻し、持っていくべきものを二人に見せる。

 美冬の目には足りないように見えたが、取り敢えず及第点を出せるだけの者は持っている。そう思うことにした。待ち合わせ時間に遅れるなどということは、美冬にとっても避けさせてあげたい事項である。

「まあ、いいわ。行ってらっしゃい」

「ありがとう、じゃあ行ってきます!」

 そう言って隆一は再び走り出し、家の長い石階段を飛ばし飛ばしに下りはじめる。

「あんなので隆一は大丈夫か?」

「……貴方が言うことではないわねぇ」

 美冬は遠い昔の苦々しい出来事を思い出す。

「……それよりも、何か……忘れているような気がするんだよなあ」

 隆源はぽつりと誰に言うわけでもなく呟いた。


「あら、坊ちゃん。お出かけですか?」

「うん、行ってきます!」

 隆一は家の使用人であるマチに威勢よく答え、勢いよく走り始める。

 現在時刻は一〇時一〇分。

 待ち合わせ場所の滝山駅までは走っても三〇分は掛かる距離だ。だが、今の身体能力をフルに活用すればその半分までは縮められるはずだ。

 よし――――隆一は人目につかない所で、脚に力を籠める。

 隆一は先ほどまでよりもその速さを高める。足の裏が物理的に熱くなっているような気がしたが、そんなことを気にかけている余裕はない。何としても遅刻だけは回避しなければ、その一心で走り続けた。

 走れ、速く、もっと速く! ――――隆一、渾身の疾走の甲斐あってか待ち合わせ場所までは後わずかという所にまで迫った。

 街中の時計を横見した。推測する限りでは恐らく今の時間は一〇時二六分。

 やばい――――だが、ここは街中、それも人通りがやや多いここで全速力で走れば、ソーシャルメディアにその様子が載ること請け合いである。

「よし、あと少し……!」

 滝山駅前にある街中時計が見えてきた。

 隆一は息を切らせながらわき目も降らずに走り続ける。段々時計が大きくなっていく。それと同時に反対方向から特徴的な頭髪をした人物が走ってくるのが見えた。陽の光を浴びて美しく輝く、肩程に切りそろえた白髪。遠くからでは細かくは分からないが、髪と対照的な暗い寒色系の服。

「お、おはよう!」

「お、おは、よう……!」

 街中時計の前で息を切らせながら挨拶し合う二人。案外、似た者同士であった。

「さ、さて、じゃあ……行こっか!」

「そ、そうね……行きましょう」

 気まずい雰囲気になったが、気を取り直して歩きはじめる隆一とクロエ。だが、隆一にはこの空気も何故だか嫌いになれないのであった。

 

 これは、裏切りの物語。その序章。


 

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